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21・ルーゼット侯爵家



 無理やり連れて来られた屋敷はイザベラの記憶と寸分の違いもなかったが、中はあの頃よりいっそうめちゃくちゃだった。


 頰を打たれた衝撃で意識を取り戻したイザベラは、自分を連れ去った犯人――父の手先の侍女に、引き摺られるようにして入室して目にしたその光景に、声を失っていてなお、言葉を失った。


 鬼の形相をした祖父が泣き喚くハルベリーの髪を掴んで机へと押しつけていて、それを父が間に入って必死に止めさせようとしている。


 邪魔だとばかりに祖父が父を杖で打ち据え、ハルベリーの悲鳴が響き渡った。


 仕える人たちは我が身を守るために見て見ぬふりで、祖父の暴挙を止められる者など、どこにも存在しなかった。


 そこはかつて、自分の部屋だった場所だった。


 今はハルベリーの部屋になっているのだろう、壁紙から調度品まで、彼女の好みに合わせてあつらえ直されていた。


 自分の居場所が完全に失われていることに、不思議なことに悲しみではなく安堵が胸を占めた。もうここは、自分の戻って来る場所ではないのだ、と。


 しかしほっとできたのはほんの一瞬だけで、すぐに目の前の残酷な現実へと引き戻された。


 父と祖父の怒号に、ハルベリーの泣く声が重なり、ますます地獄の様相を模している。


 自分が出て行った後、この家がどうなったかなど考えないようにしていたが、まさかこれほどの事態に陥っているなど想像もしていなかった。


 彼らは真に血の繋がった家族であり、本来異物であったイザベラが消えたら、すべてが丸く収まると思っていた。……いや、保身のためにそう思おうとしていただけかもしれない。


 できることなら知りたくはなかった。知らずにいられたらどれだけよかったか。


 どうしても家族愛に満ちた公爵家と比べてしまう。同じ貴族のはずなのに、どうしてうちはこうも違うのか……。失望せずにはいられなかった。


 祖父も、父も、ハルベリーも、自分のことしか考えていない。


 それだけではない。イザベラもなのだ。


 ひとりだけこの苦界から逃げ出した。


 一番の罪人はほかでもない、自分なのだ。


「イザベラ様をお連れしました!」


 侍女がそう宣言すると、三者三様の顔がこちらへと向けられた。


 驚愕する父と、最初に目が合った。


「イザベラ! 今までどこに行って……! いや、今はそんなことはどうでもいい。無事に帰って来たのなら、それでいい」


 安堵した様子の父に、もしかしてずっと心配してくれていたのだろうかと期待しかけて、そんなはずないかと目を伏せた。


 もういい加減学んだ。イザベラを見ていても、父の目に映っているのはハルベリーだけなのだ。


(……ここはあそことは違う)


 リリーベルが、セシルが、ジーンが、互いを見るあの目と、なにもかもが違う。


 ここにイザベラが焦がれ続けていた家族など、はじめからありはしなかったのだ。


「さあ、今すぐハルベリーを離せ! イザベラが帰って来た! この家を継ぐのは、あなたの孫であるイザベラだと約束したはずだろう!?」


 驚いて、思わず顔を上げていた。父はまだ、諦めていなかったのか。てっきりもう見切りをつけられたと思っていたのに。


 しかしそれも仕方がないことなのかもしれない。机に伏して泣いているハルベリーを助けるためには、イザベラに固執するしかないのだから。


 父とは反対に、祖父ははじめこそ驚いた顔をしてイザベラを見ていたが、その後は一瞥もくれなかった。すでに祖父の中で、イザベラは孫でもなければ、利用価値のないゴミみたいなものなのだろう。


「ハッ! こんな、今の今までどこにいたかわからないような娘など、いらん! どこで誰の手がついているかわかったものじゃない。どうせ売女のように生活していたんだろう? こんなあばずれが我が孫だとはな! 誰だ、どこの誰に飼われていた!」


(そんなっ、違います!)


 イザベラは抗議しようと口を開くも、出て来るのは掠れた息ばかりで、己のあまりの無力さに打ちひしがれた。


 親切な人に救われたのだと伝えようにも、いつもの黒板もなければ、紙は床に散乱していて、インクがこぼれてひたひたと染み渡っている。少しずつ黒く染まりゆく様は、まるで崩壊しかけのこの家のようだと思った。


 確かになにもできないイザベラがひとり外の世界で生きていけるはずがない。だから身売りして生活していたのだと決めつけた祖父は、世間的にはきっと間違ってはいないのだろう。世の中には祖父が考えるような卑劣な大人で溢れている。


 だけど、ジーンは。


 彼だけは、違う。


 あの優しい青年は、イザベラに、なにかを求めたりはしなかった。


 彼のことが祖父に知れてしまったら、どんな悪評を広められるかわからない。


 だから、話せなくてよかった。これ以上あの人の重荷にはなりたくない。


 イザベラを不要と断じた祖父を、父は皮肉げに頬を歪ませせせら笑った。


「だから、なんです? 相手が誰だろうと、構わないでしょう。イザベラが産んだ子が、跡取りだ。相手など、誰でもいい」


「正気か!? この家にこれ以上下賤な血を入れろと!?」


「まだそうと決まったわけじゃない!」


 父がイザベラの元まで歩いて来る。間近で見上げたその姿に、昔ならばいろいろな感情で溢れて耐えきれなかっただろうが、今はただ、少し見ない間にやつれたな、と感じただけだった。


「相手は貴族だ。そうでなければこんな上等な服を着せられているはずがない」


 目ざとく公爵家が用意してくれたワンピースの価値に言及され、イザベラを連れて来た侍女も同意するようにこくこくうなずいていた。


「ふん。こんな傷物、普通の貴族が相手をするとは思えん。病を得るような軟弱な娘に子など産めるものか!」


「医者は問題ないと言ったではないか!」


「その医者をヤブ医者だと言って追い出したのは、おまえだろう!」


 その件に関しては分が悪く、父は押し黙った。


 話は平行線のままにらみ合いが続き、ハルベリーの啜り泣く声だけが響く。


「……イザベラは子を産める。絶対に」


「ならば証明してみろ。おまえ自身で」


 父が怪訝そうに祖父を見やった。


「どういう、意味ですか」


 恐れと警戒を滲ませた父の問いに答えず、祖父の昏く光った眼光に射貫かれ、イザベラは本能的に震え上がった。過去に植えつけられていた恐怖心が一気に膨れ上がって、後退しながらとうとう腰を抜かしてその場に尻餅をついた。その目の前を、祖父がハルベリーの髪を掴んだまま部屋の外へと引きずって行く。


「いやぁぁ……! お父様っ、お父様!!」


「ハルベリー!!」


 追いかけようとした父に容赦なく杖が振り下ろされる。怯んだところを祖父の命を受けた使用人たちによって部屋の中へと突き飛ばされて、父は床に背を打ちつけ倒れ込んだ。


「おまえが、イザベラに子供を産ませるんだ! ルーゼット家の血筋を、より濃い血を残すよう、おまえ自身で! そんなにこの下賤の娘が大切ならば、イザベラを孕ませ子を産めることを証明しろ」


 祖父の吐き捨てた言葉の意味が理解できると同時に、無情にも外側から鍵がかけられた音が響いた。


 祖父は、父とイザベラを閉じ込めた。イザベラに後継を産ませるために。


 父と娘を、番わせるために。


 まるで、獣のように。


 げほげほと咳をしながら、父は痛みを堪えてふらつく足でどうにか立ち上がると、ドアを叩き大声で拒絶する。


「娘だぞ!? そんな悍ましいことなど、できるはずがないだろう!!」


 父とイザベラの血は繋がっていない。禁忌ではないと知っているのに、形はどうあれ、父はイザベラを娘だと認識していたことに素直に驚いた。


 娘として愛してはくれなかったし、復讐のために生かしていただけの子かもしれないが、彼の中でイザベラは『女』ではなく『娘』なのだ。そうでなければ、咄嗟にこんな言葉は出て来ない。ハルベリーの母を今でも愛しているからという拒絶ではなく、イザベラが娘だから無理なのだと、真っ先にその言葉が口をついたのは、それが紛れもなく本心だからだろう。


 愛情なんてかけらもなかったけれど、娘だと思われていたことにほんの少しだけ、本当に砂粒ひとつくらいは、過去の自分が救われた気がした。


 小さく息をもらすと、父の耳にも届いたのか、打ちつけ過ぎて赤く腫れ上がった拳を下ろしてこちらを振り返った。


「……大丈夫だ。なにもしない」


 イザベラが怯えると思ってか、そう声をかけた通り、それ以上近づいては来なかった。


 よく見ると父は麻痺している拳だけでなく、全身が小刻みに震えている。怯えているのはもしかすると、父の方なのかもしれない。


 そこに至ってはじめて、父のことを父としてではなく、ひとりの人間として見たとき、気づくことがあった。


 父にだって、子供時代があったはずなのだ。そして祖父はきっと、今よりも横暴で力強く絶対的な存在だった。


 暴力を振るわれ、抑圧され。幼い頃から耐えて来たのだろうか。


 体が大きくなり、大人になっても、根本的な恐怖心が消えるわけではない。


 祖父の存在に、もしかして父はずっと怯えていたのだろうか。


 虎視眈々と復讐の種を蒔きながらも、イザベラのように現状から逃げるという選択をしなかったのは、長い年月をかけて恐怖によって支配されて、逃げられないと思い込まされているからなのか。


 だからといって、イザベラにはどうすることもできないし、今は余計なことを考えている場合ではない。


「あの人はまるで獣だ。狂っている」


 確かに祖父はもう、狂っているのかもしれない。


 いや、はじめから狂っていた。


 父とハルベリーの母親とのことを反対したときから。


 もしかすると、それよりもずっと前から――。


 父がほとんど頽れるようにどかりとソファに座った。相当参っているようだが、どうにか冷静さを取り戻そうと頭を抱えている。もしかしたら杖で打たれた体が痛むのかもしれない。


 イザベラは窓に近寄った。窓を開けることはできても、ここは二階。怪我することを承知の上で飛び降りる勇気は出ない。誰かに助けを求めようにも、肝心の声が出ない。叫ぶことができたとしても、離れた近隣の屋敷に届くはずもなく、風の気まぐれで届いたのだとしても、よその家の揉め事にわざわざ首を突っ込むような者などいないだろう。


 どうにかしてこの部屋から脱出しなければと考えるイザベラに、どこか躊躇ったような父の声がかけられた。


「これまで、どうしていたんだ」


 イザベラは素直に驚いた。父がイザベラがどこでなにをしていたかなど、気にすると思わなかったからだ。


 もしかすると答えなど求めていないのかもしれない。きっとそうだ。いつまでも口をつぐんだままのイザベラに返答を催促せず、自身が語りはじめた。


「おまえが忽然と消えたと聞いたとき、真っ先にあの人を疑った。勝手にどこかへと売り払ってしまったのだと」


 確かに、イザベラが自分の意思で逃げ出したというよりかは、祖父の仕業だと考える方が合理的ではあった。実際祖父はイザベラの売却先を探していたのだ。父がそう思ったのだとしても、おかしくはない。


 おかしくはないが、自分の意思で逃げたと思われていなかったことを不思議と悔しく思ってしまった。


 きっとイザベラのことを、今このときですら、意思のない人形だと信じ侮っているのだろう。


 ……それとも。


 逃げ出すことを考えたことのない父だから、なのだろうか。


「だが激昂するあの人を見て、間違いに気づいた。あの人は拐かされたと思ったらしい。それなのに、一日で探すことを諦めた。たった一日でだ! 孫なのに……!」


 祖父ならそうだろう。我がことながら、イザベラは思ったよりも冷静に事実を受け止めていた。


 父は今、もしかして、イザベラのために憤り悲しんでいるのだろうか。


 だったらなんてお門違いな憐れみなのか。


 それとも、自らの不幸を嘆いているのだろうか。


 きっとそうだ。


 イザベラが感情のない目を向けていることにさえ気づかず、父は続ける。


「……生きていてくれてよかった」


 その言葉の主語はきっと、イザベラではなく、ハルベリーなのだろう。イザベラが生きていてくれてよかった、ではなく、ハルベリーのために生きていてくれてよかった、なのだ。


「そうだ……生きてさえいれば、いいんだ」


 イザベラはその言葉の意味が飲み込めずいると、昏い目をした父がふらりと立ち上がり、抑揚なくつふやく。


「子供はまた(・・)用意すればいい」


 父が一歩近づいてきて、イザベラは後退した。しかしすぐに窓に背中がぶつかる。


「相手など誰でも構わない。イザベラが産みさえすれば、誰でも」


 その瞬間、嫌でも理解した。


 この部屋から無事に出られたのだとしても、今度は父の用意した適当な男に、子供を孕むまで監禁されるに違いない、と。


 父がイザベラを抱くことは絶対にないが、誰かにイザベラを抱かせることに躊躇はしない。


 それもそうだ、自分の血を引く娘ではないのだから。どんな目に遭おうときっと罪悪感すら抱かない。


 父に捕まれば、終わりだ。


 一刻の猶予もなく、震える手で慌ただしく窓を開ける。だが、怪我をする覚悟で飛び降りることが、どうしてもできない。


 マーティンに背を押してもらったあの日のように、外の世界へと飛び出す勇気が出ない。


 結局イザベラは、ひとりではなにもできないのだ。逃げ出す前となにも変わらないまま。


 窓の桟を握り閉めて、うつむいたとき、



「――ベラ」



 聞こえるはずのない、どこか茶目っ気を感じさせる優しい声がした。


 イザベラの大好きな声。


 身を乗り出して庭を見下ろし、大きく目を見開いた。


 ジーンがいる。


 白い軍の礼服を着たジーンが、なぜかそこに立っている。


 なぜ。どうして。そんな疑問は、すぐにどうでもよくなった。


 彼は微笑みながら、両手を広げたから。


「おいで」


 たったひと言。それだけのことで、イザベラは窓の桟に足をかけると、ぐっと身を乗り出して宙へと飛び出していた。


「イザベラ!?」


 父の焦ったような声がした。必死の形相で手を伸ばす父の指先がかすかに髪に触れて、するりと離れた。


 イザベラは後ろは振り返らず、まっすぐに腕を伸ばして彼の元へと落ちていく。


 少しも怖くはなかった。


 彼ならきっと受け止めてくれると、わかっていたから。



「…………っ、ジーン様ッ……!!」



 真っ逆さまにその胸に飛び込んだイザベラを、ジーンはしっかりと受け止めて、そして、地面へとどっと背中から倒れ込んだ。


 慌てて身を起こすと、イザベラの下敷きになっているジーンは少しだけ目を見開いていたが、すぐにしみじみとした口調でこう言った。


「うん、やっぱり力は必要だな。二階から飛び降りてくる女の子を抱き止めないといけないからね」


 いつもと変わらない様子でウインクした彼に、イザベラはようやく安堵して、全身の体の力が抜けたように彼の胸へともたれかかった。



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