2・祖父との関係
「お嬢様、先代様がドレスを贈ってくださいましたよ」
イザベラは壁にかけられたドレスを目にして、少しばかり頰を緩めた。たっぷりとレースやフリルのついた若葉色のドレスは初夏のような瑞々しさがあり、どのようなものを用意されることかと不安だったが、デビュタントの娘が着ても違和感のない仕上がりになっている。
髪が派手な紅色なので、控えめなデザインにしてほしいというイザベラのささやかな要望にも応えてくれたようだが、その分、布や糸の品質や細やかな刺繍など、別のところでお金がかかっているようにも見えた。血統主義でルーゼット家が侯爵家であることを誇っている祖父らしい見栄だ。
とはいえ、次の社交界がはじまるのは、まだずいぶんと先の話だ。それだけ祖父は張り切っているのだろう。このドレスに袖を通す日を思い浮かべると心が弾む反面、否応なしに自分の役目を突きつけられ息苦しくなる。
一応社交界デビューはするが、恋物語のようにイザベラが誰かの目に留まることはないだろう。たとえそんな相手が現れたとしても、家柄が釣り合うかどうか、婿に入れるかどうかに重点が置かれる。最終的には祖父が見繕うことになるはずだ。
別れを前提にした束の間の恋愛ごっこがイザベラにできるとは思えないし、したいとも思わない。だから祖父の言う通りに、父の望むまま、求められた役目を淡々とこなせばいい。なにも期待せずに。そうすれば少なくとも落胆することはない。
父と母のように、愛がなくても子供はできる。政略結婚なのだ、相手に愛情を求める方が間違っている。
そう自分に暗示をかければかけるほど、自然と視線が床へと落ちていった。
なぜだろう。改めて見上げたドレスは、さっきよりも色褪せて見えた。
「……お祖父様にお礼の手紙を送らないといけないわね」
つぶやいたとき、どこから話を聞きつけてきたのか、父が部屋へと訪れた。イザベラの部屋にわざわざ足を運ぶなど、いつぶりのことだろう。記憶にないくらい……いや、もしかするとはじめてのことかもしれなかった。
内心驚愕していると、父はちらりとドレスに目をやってから、静かにその口を開いた。
「緑か」
「え?」
ドレスを取り上げようと勇んでやって来たのだとばかり思っていたが、違ったのだろうか。そんなイザベラの様子を見やった父が、嘲るように鼻を鳴らした。
「これはおまえに必要なものだ」
確かにその通りだった。イザベラがデビューできなければ困るのは父だ。だったら、なにをしに来たのか。怪訝に思っていると、あっさりと向こうから答えがもたらされた。
「ハルベリーのドレスと色がかぶっていないか確認に来ただけだ」
ハルベリー。離れのお姫様のことだ。それはわかるが、こうしてイザベラの前で彼女のことを口にするのは過去を振り返ってみても、はじめてのことではないだろうか。改めて紹介されたことはないが、使用人たちがこそこそ話しているのを聞いたことがあったので、名前くらいは知っているが。
「……もしかして、一緒に行くのですか?」
一度も呼んだことがない名前や、実感がないのに姉と呼ぶこともはばかられて曖昧に言葉を濁したが、父にはしっかりと伝わったようだ。こともなげに、当然だと首肯した。
(離れのお姫様と一緒に、侯爵家の娘として……?)
わかってはいたが、気分が沈む。あの五歳の日以来イザベラはお姫様の姿を見ることはなかったが、美しく成長しているだろうことは父の様子からありありと伝わってくる。清々しいくらいに、娘がこの家よりも格上の貴族令息たちに見そめられることを信じて疑わない顔つきだ。
それに比べてイザベラはどうだ。目の前のドレスを着てお姫様の隣に並んだ自分を想像して、悔しい気持ちになる。愛されるために生まれてきたようなにこにこ明るいお姫様と、侯爵令嬢として厳格に育てられ作り笑いの微笑しかできない陰気なイザベラ。笑顔ひとつとっても魅力的なのがどちらか、考えるまでもない。どれだけ着飾っても、自分では引き立て役にしかならなかった。
ますます気持ちが沈んでいく。指先は感覚がなくなるほど手のひらに食い込んでいた。
(お姫様は愛されて結婚する。笑顔の絶えない家庭を持つ。だけど、わたしは……わたしは……)
「おまえの結婚相手はある程度見繕ってあるそうだ。おまえは誰かの目に留まらなくても、大きな失敗さえしなければいい」
誰かに見そめられる必要はない。無難に、乗り切りさえすれば、それでいい。求められているのは、侯爵家の血を繋ぐことだけ。
それがイザベラの唯一の価値のはずなのに、胸にあるのは安堵ではなく、どこまでも深く続く虚しさと、手のひらの痛みだけだった。
ともに社交界デビューをするのなら、近いうちにお姫様と顔合わせをする日が来るかもしれない。
いつ父に呼び出されるか、毎日気を張りながら過ごしているうちにひとつ季節が過ぎ去った。
はらはらとちらつく雪を眺め、ため息が窓を白く染めた。イザベラは彼女の存在を知っている。だがあちらはどうなのだろうか。お姫様はイザベラのことを知っているのだろうか。
イザベラは自分のことを考える合間に、時々お姫様のことを考えた。
周囲と隔絶した離れで、悪意を徹底的に排除し、制限された場所で、なにひとつ不自由のない生活。会うのは父と父が許した数人という、本当の意味での箱入り娘。イザベラから見ても異常な生活環境と言わざるを得ないのに、周囲に馴染めるのだろうか。
むしろ社交界に出すことで、彼女を傷つけることになるのではないか。それは本人が望んでいることなのだろうか。たとえ望んでいるのだとしても、彼女の知識はイザベラと同じで基本が本。そのすべてが物語なのだ。
現実には王子に見そめられることもなければ、庶子が王太子妃になることなどあり得ない。そもそも国王夫婦が若いので、この国の王子はまだ幼い子供だ。
そうやってお姫様を気遣うふりをして、自分を守るための言葉を探す。
曇った窓を手で擦ると、ぽたぽたと結露がこぼれて窓枠を濡らした。
考えれば考えるほど、なにもかもが億劫になる。このまま雪が永遠に降り続けばいいのに。
しかしイザベラの願いが叶った試しはない。
結局それが最後の雪の日だった。
雪解けからすぐのこと。
「お嬢様、先代様がいらっしゃいましたよ」
「もういらっしゃったの?」
「きっとお嬢様のデビュタントを心待ちにしておられるのでしょう」
侍女が淡々と、だが皮肉っぽくそう言った。
祖父の望みはイザベラではなく、イザベラの産む男児。ルーゼット家の跡取り。後継者。その目がいつもイザベラを見ているようで、ずっと遠くへと向けられていることは知っていた。
憂鬱な気持ちを微笑みの奥へと隠して、祖父の元へと向かう。談話室には父もいたが、ふたりはいつものように険悪な様子で、このまま回れ右をして部屋へと戻りたくなった。
「おお、イザベラ! 立派なレディになって」
一部の隙なく求められる役を演じる。完璧な侯爵令嬢。そうである限りは、祖父はイザベラに優しい。
「グラヴィスの選んだ家庭教師で心配していたが、問題ないようで安心したぞ」
「お心遣い感謝します、お祖父様」
祖父と面会するときは、父以上に緊張する。手が震えないように、口角を上げる頬にも力を込める。自分は人形。祖父を喜ばせるための人形……。
「これならばいくらでも婿候補が現れるのではないか? どう思う、グラヴィス」
話を振られた父は鼻で笑う。それだけで言いたいことの多くが伝わった。
「まったく……おまえは相変わらずだな。イザベラもおまえの娘だろう。まだあの下賤な血を引いた娘しか目に入っておらんのか」
「下賤な血ではありません。彼女はれっきとした貴族令嬢でした」
「ふん、だが取るに足らない下級貴族だ。イザベラとは比べ物にならん」
「ならばあなたはイザベラを好きにすればいい。ハルベリーのことに口出ししないでいただきたい」
「言われずともそうする。あの娘にせいぜいいい嫁ぎ先を見つけてやることだな。これまで養育した分、少しは侯爵家の役に立ってもらわねば」
「ハルベリーの相手はあの子に決めさせます。あの子はそこのつまらない娘よりも、ずっと美しく育った。あなたの選んだ婿候補とやらを失わないように、しっかりと囲い込んでおくことですね」
「なんの旨みもない娘を選ぶ酔狂な男がいるとよいな。貰い手がなければ後妻を探している知人を紹介してやろう」
「……っ、くっ……この、人でなしがッ」
父がどうにか怒りを抑えて、小さく怨嗟を吐き捨てると、同じ空気を吸うことすら厭うように出て行った。
祖父はイザベラへと目を移す。その視線は粗を探るような鋭いもので、芯から震え上がりながら作り笑いを深める。そしてその目はイザベラから離れ、安堵している間に侍女たちを皮膚を裂くような鋭い目で射抜いた。
「イザベラに妙な男を近づけたりはしていないな?」
「はい、もちろんでございます」
彼女たちも怯えているようだったが、受け答えだけは完璧にこなした。
「グラヴィスのようになると困る。決して監視を怠るな。今後一切、使用人でも男を近づけることを許さん」
祖父の懸念に唖然とした。
父のようになる――?
大声で笑い出したい気持ちだった。
杞憂だ。誰にも愛されたことのないイザベラが、誰かを愛せると、愛されると、本気で思っているのだろうか。
誰も人を愛するということを、教えてくれなかったのに。
愛せそうになったものを、すべて奪われてきたのに。
どうして。
なんで。
信用すらしてくれないのだ。
ずくん、とお腹の奥が熱を持つ。
痛い。
痛い。痛い。
でも、祖父の期待にこたえなければ。
婿を迎えて子供を産んで、それで、それで、――……その後は?
そこから先の想像は、いつもふつりと途絶えていて。
真っ黒に塗りつぶされた果てのない時間が続いていく。……永遠に。
生活をさらに締めつける話をする祖父の横で、イザベラはただ、すべての感情を殺して微笑み続けるしかなかった。