19・自覚(イザベラ)
ひとりになりたい。
昔は毎日そう思いながら生きていた。
だけど今は、ひとりが寂しい。
隣に誰かいないことを寂しく思う日が来るなんて、あの頃の自分は思いもしなかっただろう。
(帰りたい……)
実家へ、ではない。
あの周囲から隔絶されたジーンの屋敷へと、帰りたい。
そう思う自分に驚きもしたが、同時に、実家である侯爵家の屋敷に帰りたいと思ったことが一度もなかったことに改めて気づかされて、これまでの人生の虚しさに心が翳りを帯びた。
それなのに、たった一日離れただけなのに、クレアとディノが懐かしく感じるほどあの場所が恋しい。
客人として丁重にもてなされていて、なにか嫌なことをされたわけではない。だけどなぜかどこにいても人の目があるような気配がして落ち着かず、イザベラは庭に出た。
花のあまい匂いが届かない場所を探してのろのろと歩きながら、頭が勝手にリリーベルの言葉を反芻する。
『もちろん、愛しているわ』
そこにはジーンに対する溢れんばかりの愛情しか感じられなかった。
ずきりと胸の奥が痛み、またどこか体が悪いのだろうかと青ざめながら、胸元を押さえてしゃがみ込む。
あんなに完璧な人、自分では足元にも及ばないと落ち込んで、そこでふと、自分の感情がおかしいことに気がついた。
そんなこと、はじめからわかっていたはずだ。
なぜ今さら自分は打ちのめされているのだろうか。
はじめて彼女会った瞬間から、自分など到底敵わないと思っていた。
なのになぜまた同じことを、いや、それ以上に気落ちしているのだろうか。
少し考えて、ようやく思い至った。
ふたりが本当の姉弟ではないと、知ったからだ。
頭より先に心が答えにたどりついたのか、どくりと心臓が跳ねた。急かさないでと胸元をさらにきつく手で握りしめて、ゆっくりと思考で追いかける。その間も心臓はどくどくと忙しく鼓動し続けていた。
実の姉弟だと思っていたから安心していた。どれだけお似合いでも、姉弟なのだから、そこに家族愛以上のものはないのだと、安心して見ていられた。
だけど本当はいとこだった。もちろん公にできない以上、彼らはこの先も実の姉弟としての距離感で生きていくのだろうことは理解している。
(だけど、心は……?)
それは誰にもわからない。
わからないからこそ、隠し通すて愛することだってできるのではないか。
仮にそうだとしても、他人のイザベラが気にするような話ではないはずだ。
それなのに、なぜ、これほど胸が苦しいのか。
息をすることすら、ままならないのか。
こんなの、まるで……。
(まるで、嫉妬、しているみたいに……)
その瞬間、一気に顔に熱が集まるのを感じて、慌てて両手で包み込んだ。どうにか内側へと押し返そうとするが、一向に赤味が引く気配はない。それどころかさらに熱が溢れて沸騰しそうなほとだった。
そうだ。この感情は、嫉妬だ。
イザベラはリリーベルに対して、嫉妬している。
なぜ――?
そんなの、考えるまでもなかった。
答えなどはじめから明白だった。
(わたしがジーン様に、恋、をしている……から)
そう考えればすべてが驚くほど腑に落ちた。彼の姿を見れば胸が跳ねるのも、頰が熱くなるのも、たまに目を逸らしてしまうのも、それなのに何度だって彼を見たくなるのも、すべて、恋をしていたから。
愛を知らなくても、恋はできる。
急に周りの景色が華やかな色を帯びて鮮烈に目に映った。
それでも、はじめて感じた喜びは、すぐに現実へと引き戻されて色褪せていった。
自分の幼い恋心。
花開く前に戦意喪失してしまった、生まれたての恋心。
だって、敵うはずがない。……叶うはずも。
イザベラが目指した淑女の鑑のような人相手に、なにで対抗すればいいと言うのか。容姿も教養も愛の深さも、ジーンへの理解度でさえも、負けている。
ジーンの隣には、彼女のような女性がよく似合うとイザベラでも思うのだ。
(牽制……されているのかもしれない)
そんな必要などないのに。
ジーンはイザベラを、そういう意味では見ていない。彼の目に映る自分は、行き場をなくして途方に暮れた子供のようなものだ。
あの求婚だって、きっとイザベラに居場所をくれようとしてのことで、そこにあるのは純粋な善意であり、愛だの恋だのが混ざっていないことくらい気づいている。
ジーンは家族への愛情が深い人だ。イザベラへの求婚に、家族のものと同じくらいの愛情が乗せられていたかと問われたら、きっと否と答えるだろう。
だから単なる庇護者の責任感であることは明らかなのだ。
自分は身を弁えている。
イザベラははじめから異物だった。復讐のためだけに紛れ込まされたりただの石。磨いてもつるつるの石にしかならない、ただの路肩の石。
リリーベルは鋭い刃となりジーンを守ったのだろう。その自負が、自信が、さらにイザベラを打ちのめす。
浅ましくも、彼らが世間的には姉弟でよかったと思って、そう思ってしまった自分にまた嫌気が差す。
人の気持ちなど比べるものではない。
それでも、勝てないと思った。
自分はいつも受け身で、庇護してもらう立場で、つまり――対等ではない。
そこにあまんじている限り、自分は彼の隣に並び立つことさえできないのではないか。
もちろんどのような形であっても、彼と結婚できるのならこの上なく嬉しいことだし、このままおとなしく黙っていれば、形だけでも幸せを手に入れることができるだろう。
だけどジーンだけにすべて背負わせて、面倒を見てもらい続けるのは、やはり違うと思うのだ。
彼は彼が真に愛する人と幸せになるべき人なのだから。
(離れるべき……なのかしら……)
責任感の強い彼がイザベラを突き放すことはない。
だから、自分から離れなければいつまでたってもおんぶに抱っこだ。
公爵家の優秀な侍女たちの中で自分がやっていけるとは到底思えないが、リリーベルの誘いがまたとない話であることは間違いない。もし努力して、認めてもらえたそのとき、ようやく対等な人間になることができそうだ。
(だけどそのときには、もう、ほかの誰かと結婚しているかもしれない……)
想像しただけで、胸が痛いくらいに締めつけられる。
相手がリリーベルくらいの女性なら、諦めがつくだろうか。
……いや、そんなに簡単に割り切れるのなら、きっとこれほど悩んでいないのだ。
(一生、諦められない気がする……)
はじめての恋心と傷心を持て余して、あてどなく歩き回っていると、使用人たちが普段使うのだろう裏門に出た。イザベラの背丈の倍はある鉄の門扉は重そうで、開閉が大変そうだと眺めていると、足元を白いなにかが通り過ぎた気がして一度瞬いた。
(……? 今……)
小首を傾げていると、箒を持った使用人たちが忙しなく駆けずり回っているのが遠目に見えて、掃除の邪魔しては悪いと踵を返す。
あたりをうろついて、ちょうどいい鉄製のベンチを見つけると、イザベラは腰を下ろしてため息をついた。
声は出ないのにため息だけは出る。それがまた、やるせない。
侍女になるにしても、声が出せないことにははじまらない。意思疎通ができない侍女をわざわざそばに置く意味などないだろう。
意気込んで、そっと唇を開く。お腹から、喉から、音を出すイメージをして、一気に吐き出す。
「……っ」
相変わらずもれたのは掠れた空気だけで、イザベラはひどく落胆した。
どうしてもわからないのだ。これまでどうやって話していたのか。意図せずできたことなのに、今はこれほど難しい。
それでも諦めずにもう一度挑戦しようとしたとき、隣から、ふぅ、とかすかなため息が聞こえた気がして、慌ててそちらへと視線を向けた。だがそこに人の姿などなく、不思議に思いながら、なにげなく目線を下げた。
そこには白い小さな生き物がいた。
ものすごく見覚えのある、はつかねずみだった。
(……マーティン?)
まさか、と思って顔を近づけてみる。首には名前入りのリボン。例の刺繍もある。間違いなく、マーティンだった。
もし声を出せたのなら、大きな声をあげていたことだろう。
(また迷子になったの……?)
こんな遠くまで、鳥や猫に襲われることなく、よく無事にたどり着いたものだ。もし誰にも知られず捕食されていたらと思うと、ぞっとする。
手を伸ばしたが、怖がらせたら逃げてしまうかもしれないと、ややためらってから、ゆっくりと人差し指だけをマーティンの顔へと近づけた。
マーティンはその指に小さな両手でぴとりと触れて、匂いを嗅ぎ回り、ひとしきり人物確認をし終えてから、ようやくイザベラを知人と認めたらしい。ちゅう、とひと声鳴いてから、そのまま腕を伝って肩へと登った。
マーティンはまるであの日のように、一緒に旅立つことを少しも疑わない顔で前を向いている。
もしかすると、前のようにイザベラが家に連れて行ってくれると期待しているのかもしれない。
だが今とあのときとでは、状況が違う。
冷静に考えれば、ここはジーンを待って相談した方がいい場面だ。
だからイザベラは、肩に佇む小さな友人へと、首を横に振って意思表示をした。
マーティンはことりと首を傾げる。なぜイザベラが動かないのかわからないとでも言うように、丸い目で。
そのまましばらくイザベラを見上げていたマーティンだったが、諦めたのか、腕を伝い降りてしまった。そしてイザベラの膝の上にぴょんと着地すると、後ろ脚ですくりと立ち上がって、もう一度、首を捻って見せた。
ジーンが帰って来るまで留めておかないと。そう思っていても伝わるはずもなく、マーティンはイザベラが行かないのならばひとりで行くとばかりに、地面に降りた足でそのまま駆け出して行ってしまった。
(待って!)
慌てて後を追いかけるが、小さなはつかねずみを見失わずに追いかけるのはなかなかに至難の業だった。
それでもあちこち探し回って見つけたときには、裏口の門の隙間を潜り抜けて敷地の外へと飛び出した後だった。
イザベラは慌てて内側から門を開けて道へと滑り出たが、そのときにはもう、白い小さな友人の姿はどこにもなかった。
不安な気持ちのまま、あたりをぐるりと見渡して、小動物が隠れられそうな場所を探そうとしたとき、いきなり背後から鼻と口を布で塞がれた。
「……っ!?」
恐怖も相まってパニック状態で必死に暴れるが、呼吸が乱れるほど体の力が抜けていく。
(なに、か……薬……?)
体の自由を奪うような薬が布に染み込ませてあったのだと気づいたときには、イザベラの意識はふつりと途絶えていた。