17・家族愛
ジーンの過去編の続き
王妃が王を刺し殺すという事件が起きたのは、実母が亡くなってから一年半ほど経ってからのことだった。
その日のことを、物心がつきはじめたジーンは、途切れ途切れにだが覚えていた。
その一報を受けたときの父の横顔が、妙に目に焼きついて離れなかったせいかもしれない。
幼いながらになんとなく、父を含めた家族や周囲の大人たちが、王家にいい感情を持っていないことは感じ取っていた。だからみんなが安堵して、慶事ごとを祝うかのような雰囲気になったことで、ジーンも意味がわからずともつられるように自然と笑顔になった。
だからこそ、父の顔だけが違ったことに違和感を持ったのかもしれない。
父は周囲の人たちのように驚くでもなく、喜ぶでもなく、眉ひとつ動かさずに淡々と、城からの使者と葬儀の日程についての話をしていた。
こうなることを最初から予期していたかのように。
すべてが予定調和だとでも言うように。
使者が去り、そこでようやく張り詰めていた気持ちが弛緩したのか、父はひと言だけつぶやいた。
「結構時間がかかったな……」
「ちちうえ……?」
幼子だったジーンの問いかけに、父ははっとした顔をしてから、家族にしか見せない優しい顔で微笑んだが、その目には不思議な感情が揺らいでいた。見たことのない、戸惑いのような、躊躇いのような、ジーンが父に向けられたことのない眼差し。
父は自分の表情を隠すようにジーンを抱き上げた。背中をトントンとされると眠たくなるのが子供の性で、その後のことをジーンはほとんどなにも覚えていない。
だがある程度成長してから思い返してみれば、詳しく調べずとも真相にたどり着くのは容易だった。
あれは戸惑いではなく、後ろめたさのようなものだったのだと思う。
あのとき父は、ジーンを見てはじめて気づいたのだ。
憎むべき敵ではあったが、ジーンの実の父親だったことに。
ジーンの実の父親を、殺してしまったことに。
自分で直接手を下さず、嫉妬深い王妃の猜疑心を煽るような言葉を少しずつ周囲に注いで行き、疑心暗鬼にさせ、じわじわと、慎重に、時間をかけて、共倒れするように導いた。
弱い毒でも毎日少しずつ飲ませ続ければ、いつか蓄積された毒が全身に回り尽くして致死量に達する。
王の心臓に突き立てられていたのは、アンティーク短剣。刃が潰されていない真剣だった。
父のコレクションのひとつがなくなっていることを、指摘する人はひとりもいない。
父は復讐を果たした。
誰にも知られることなく、ひっそりと、家族を殺した仇を討ち取ったのだ。
しかし王の代替わりが済んだからといって、テレーゼ家に平穏な日々が訪れることはなかった。
むしろそこからがジーンの苦難のはじまりだった。
先々代が悪王ならば、先代は愚王と呼ばれている。
愚かで、臆病で、妄信的だった。
自分の王座を奪われないためにジーンを狙った。
ジーンが自分の異母弟だと確証のないままに、玉座を奪われまいとして。
望んでもいない王座のために命を狙われ、何度暗殺されかけ、生死の境を彷徨ったことかわからない。両親や、すでに家の事情を教えられていた姉は、ジーンを狙う黒幕が誰か知りながらもどうすることもできずにいた。
一番隠さなくてはならないのは、ジーンの血筋のことだ。
だから狙われていることを周囲に悟られるわけにはいかず、あちらも、ジーンに暗殺の手を向けていることを周囲に知られるわけにはいかなかった。
どちらかが認めてしまえば、それは事実になる。
それだけは互いに絶対避けたいところだった。
そんな水面下での争いに終わりの兆しが見えたのは、まだほんの数年前のことだ。
家族を巻き込むような襲撃を受けたことで、ジーンは家族と自分の身を守るために軍に身を置いていた。
いつ死んでもおかしくない軍に所属したことで、王の不安は一定の決着を試みたのだろう。一国の王とはいえ、軍に介入することは難しいこともあり、それ以降、暗殺者を差し向けられることも少なくなった。
とはいえ完全になくなったわけでもないが、軍での訓練のおかげで、ジーン自身が暗殺者に対応できるようになったことが大きくもある。
元々人の顔を覚えることは得意だったが、その頃には他人の心を読めるくらいの精度で、相手の感情を見透かすことができる技術が身についていた。そうならざるを得なかった。
このままジーンさえ物理的に離れていれば、少なくとも家族を巻き込むこともない。ずっと軍に所属したまま、いつか戦場で死ぬのだろう。
そう達観していたジーンだったが、その王が崩御したことで、一気に風向きは変わった。
(いや……風向きを変えた、か)
誰かが、意図的に。
そうでなければ、これほど早く死ぬはずがなかった。
ジーンはできる限りの情報をかき集めたが、その詳細や事情は不思議なくらいに出て来なかった。
王は表向き、重責に耐えきれずに精神的に病んで亡くなったとされており、死ぬ直前の不可解な行動は伝わって来るものの、肝心の死因すら秘匿されていた。
あまりの徹底ぶり。逆に察しがつく。この件に関わっているのはそれほどの人物。
たとえば、次の国王に内定していた第一王子、だとか。
王には息子が何人かいたが、みな母親が違い、その中でも成人していたのは第一王子ただひとりだけだった。
なるほど、弟たちと争うことなく自分が王座に着くには、今がちょうどいい時期だったわけだ。
どれほど愚昧な王でも、弑して王座につくとなると、必ず一部の反感は買うことになる。その後どれだけ有能さを見せたところで親殺しの汚名は簡単に雪がれるものではない。
だからこそ、あくまでも自然な形で王座に着かなくてはならなかった。
つまりはそういうことなのだろう。
余計な詮索はせず、ジーンは己をつけ狙い続けていた者がもうこの世にいないということだけを静かに受け止めた。
自分を殺そうとしていた相手ではあるが、軍人として国葬に参加しなくてはならない。久方ぶりに帰宅した屋敷はほとんど変わりなく、それでも、庭の一角が少しだけ様変わりしていた。
季節の花が植えられていた花壇が、ある特定の花で埋め尽くされていた。それは見慣れない花だった。特別植物に詳しいわけでもないが、薬草や毒草の類ならば概ね記憶しているし、観賞用の花もしかり。
はじめて目にする花だったのに、その強い香りには、不思議と覚えがあった。
襲撃を受けて肩を負傷したジーンと姉が命からがら逃げ込んだ村で、同じ香りを嗅いだ気がする。
ほとんど意識がなかったので、思い違いかもしれないが……。
(花…………そういえば)
「おかえりなさい、ジーン」
先触れを出してはいなかったが、姉がジーンの帰宅を予想して待っていてくれたらしい。花を背景に立つ姿はいっそう美しくもあったが、なにより。
姉の顔が。
その表情が、あの日の父とそっくりなことに息を呑み、その瞬間すべてを察して困ったようにしか微笑めなくなってしまった。
(全部憶測、だけど)
間違ってもいない、と思う。
前国王の死因は表向きには不摂生による病死とされたらしいが、背後にテレーゼ公爵家……特に姉がいる気がしてならなかった。
もちろん誰にも言ったことはないし、言ったところで信じてもらえないだろうが。
第一王子――現陛下と、どういう密約を交わしたのか、どこまで思惑通りなのか、知らなくてはならないことは山ほどある。今はもう、父のときのように見ているだけの子供ではない。
王族殺しの罪をともに背負って生きていけるくらいには、成長した立派な大人だった。
だが、まずは。
「……ただいま、姉上」
姉は穢れを知らない花のように、可憐に優しく微笑んだ。
王家と手を取り合ったわけではないが、確かに公爵家と陛下、利害だけは一致していた。
だから互いに監視して動向を探りつつも、つかず離れず干渉せず、この先もこの距離感を保ち続けていくのだろうとジーンは思っている。
安心はできないが、王家がジーンの命を狙うことはもうないのだろう。
きっと密約の条項にそう記載されているであろうし、その約束を反故にすれば公爵家は陛下の簒奪を暴露することを厭わない。
ジーンの命は、昔も今も、家族の愛情の上に成り立っている。
自分はきっと、そんな風には誰かを守れない。
ジーンにとって守ることとは、側を離れることと同義だった。
愛するとは、遠くから想うことであった。
微細な表情の変化や仕草や癖などを見て、対面した相手がなにを考えているのか、敵なのかそうでないのかを見極めることは息をするように簡単にできるのに、人に好意を持ってもらえる振る舞いは得意なのに、人を大切に思うことはできるのに、なりふり構わず誰かに恋をすることだけはどうしてもできなかった。
大切なものを持つことの重み。失うことへの恐怖。そして、自分の血を繋ぐことへの嫌悪。
根底にあるそれらの感情が、ジーンを消極的にする。
だからいくら大切な家族の願いでも、結婚だけはするつもりはなかった。
結婚してしまえば、ジーンはきっと妻を大切に想うようになる。愛するようになる。家族のように……それ以上に。
そうしたらきっと、側にいることがつらくなる。
相手を傷つけてでも側にいたいという身勝手な気持ちなど、ジーンは知らない。知りたくもない。
それなのに。
捨てられそうな仔犬のような目をするイザベラを前にするとわからなくなる。
自分は間違っていないはずなのに。
ジーンはやや躊躇ってからその後頭部に手を添えて、軽く胸に抱きしめた。彼女の体がぎこちなく強張ったが、それが拒絶の意味でないことくらい顔を見なくてもわかっていた。
姉はジーンを親鳥と称したが、巣から落ちた雛鳥を前に見捨てられるほど薄情にはなれなかったのだから仕方ない。
「今は寂しく思うかもしれないけれど、すぐに慣れるよ。たまには帰って来るし」
今はまだ頼れる存在がジーンしかいないから寂しく感じるだけで、少しずつ彼女の世界を広げていき、少しずつ周りとの交流を深めていけば、いつしかジーンがいないことが当たり前に感じるようになる。そんな日が必ず訪れる。
指通りのいいまっすぐな髪を撫でると、彼女の頭が小さく揺れた。引き留めるように、シャツをきゅっと握る手の力が増す。行かないでと全身で訴えているようだった。
困ると同時に、不謹慎にも口元が緩む。彼女が自分の感情を押し殺すことなく、少しでも外へと出せるようになっていることが、ことのほか嬉しい。
「見捨てるわけじゃないよ。……置いていかれるのが、怖い?」
姉の言葉が重みを増す。
ジーンはいつも去る方で、直向きに誰かを待ったことがない。姉に指摘されてはじめて気づくくらいに、置いていかれる側の気持ちに鈍感だった。
離れていても、なにか繋がりがあれば安心していられるだろうか。
わかりやすい形で結びついていれば、気休めくらいにはなるのだろうか。
そう思ったらするりと言葉がこぼれ落ちていた。
「じゃあ……僕と結婚する?」
びくりと彼女の肩が揺れた。かなり動揺しているのか、ぱっとこちらを見上げる顔は驚愕に満ちている。そこに嫌悪感はなさそうで胸を撫で下ろすが、じわじわと彼女の頰が色づいていく様を見せつけられるとこちらも反応に困ってしまう。
万一の場合はイザベラの名誉のために潔く自分が娶る気でいたが、それはあくまでも形だけの白い結婚のつもりで、保護者としての立ち位置を変えるつもりはなかった……のだが。
純粋な好意とは、なぜこれほどまでに人の心に揺さぶりをかけるのか。
ずっと保護者でいるという意味で告げたはずの言葉なのに、自分でも気づかないうちにそこへと潜められていた真意が暴かれて晒されてしまいそうになって動揺する。
(待て待て。まだ子供。この子はまだ子供、まだまだ子供……)
咳払いをして気持ちを落ち着けてから、心の中で何度も繰り返す。
そう言い聞かせなければ、絆されてうっかり手を伸ばしてしまいそうで。
そう思っている時点で手遅れな気もしたが、無害な紳士の仮面をどうにか取り繕った。