16・ジーンの過去
涙などとっくに枯れてしまったものだとばかり思っていた。
「ごめん、姉上。話はまた後にしてもいいかな? どこか部屋を借りても?」
「……ええ。あなたの部屋、綺麗にしてあるから、そこへ」
彼の胸に額を押しつける形で抱きしめられているので、ジーンが微笑んだ気配が直に感じられた。見えていなくても、セシルがおろおろとしているのもわかる。
リリーベルからは感情が伝わっては来なかったが、呆れたような小さなため息がひとつ聞こえた。
「おいで」
肩を抱かれて、彼に促されるまま歩く。その間もずっと、リリーベルの言葉を頭の中で反芻していた。
ジーンはいなくなる。イザベラを置いて遠くに行ってしまう。
嫌だ、と思った。
自分勝手なその気持ちが、じわじわと心の表面を侵食し覆っていく。
ジーンにこれ以上迷惑はかけられないのに。
自分のことはいいから、家族水入らずで話してきてほしいとさえ言えないこの口が恨めしい。
自分はこの期に及んでまた期待していたのだろうか。
期待などしてもつらいだけだと、五歳のときに思い知ったのに。
また捨てられるのが怖いのか。
これではまるで泣いて駄々をこねる幼子だ。
「ここにかけて」
気づいたら室内にいた。人が寝転んでもあまりそうな大きなふかふかのソファに座らされると、思ったよりも体が沈んだ。隣にジーンがかけたが、感情がごちゃごちゃで、今はその顔を見ることはできなかった。
「ごめん……。正直、泣くとは思わなかった」
イザベラはなにも言えない。今この瞬間だけは、声が出なくてよかったと思った。そうでなければ余計なことを口走っていた。……行かないでとか、連れて行ってとか。身勝手なことを。
「なにから説明しようか……」
ジーンは困ったように視線を彷徨わせてから、棚の上に置かれた絵姿に目を止めた。つられてイザベラもそちらへとそっと目をやる。
幼いジーンとリリーベル、後ろに立つ若い男女は彼らの両親だろう。目元の涼しげな金髪の美丈夫に、面立ちの優しい美女。リリーベルは父親に、セシルは母親に似ているらしい。
そう思ったとき、イザベラはジーンの横顔を見て、少し戸惑った。彼は誰に似ているのだろう、と。
戸惑ったことが、すぐに伝わった。彼はその隣に置かれた、手のひらほどの小さな絵姿を指差した。そこに描かれているのはジーンの父親とよく似た金色の髪の女性で、イザベラと同じか少し上くらいの年齢だろうか、とても幸せそうに笑っている。その顔には不思議と見覚えがあった。……面影があった。
「あの人が、僕の本当の母親」
そう告げられて、薄々察してはいても息を呑んだ。
「父上の妹で、僕が幼い頃に亡くなってしまったけど、綺麗な人だろう? 姉上とは違う種類の、なんというか、愛嬌みたいなものがあって。彼女の周りにはいつも人がいたらしい」
イザベラはこくりとうなずいた。リリーベルの完全な美とはまた違う、目を引くものが彼女にはあった。目の色やその煌めきが、ジーンとよく似ている。
「僕は育ててくれた両親のことを実の親だと思っているし、もちろん産んでくれた母のことも母だと思っている。三人にはとても感謝しているし、愛している」
きっと愛情いっぱいに育てられたのだろう。ジーンの目には彼らに対する慕わしさがありありと透けて見える。
自分の子でなくとも愛情を持って育てられる人もいれば、そうでない人もいる。ジーンの親は前者で、イザベラの親は後者だっただけのこと。
ジーンの場合は甥という関係性があるが、イザベラの場合は父とは実際にはまったく血の繋がりがなかったので、そもそも比べられるようなものでもないのだが。
そう自嘲したところで、ふと、疑問に思った。
それならば、ジーンの実父は、誰なのだろう。
イザベラが考えていることなどお見通しだろうに、言いたくないのか、それとも知らないのか、彼は曖昧に微笑んでいるだけ。
言いたくないのなら無理に聞き出そうとは思わないし、ジーンの実父が誰かなど、イザベラにとってさほど重要なことでもない。
彼が傷ついているのではないかということだけが気がかりだった。
彼がよくイザベラにしてくれるように、その髪に手を伸ばして梳くように撫でる。気持ちがいいのか、ジーンは目を閉じた。
そして言った。
「はじめて暗殺されかけたのは、僕が六歳のときだった」
突然の告白に、イザベラは思わず手を止めて、彼の顔を覗き込んだ。ジーンはまぶたを伏せたまま、まるですぐ目の前にその光景が映し出されているかのように淡々と語り出す。
「その日は父上が城から呼び出しを受けて不在で、姉上は勉強中で部屋にこもっていたから、母上を独り占めできて、たぶん、浮かれていたんだろうなぁ。母上に無理を言って一緒に出かけた先で、毒の入った紅茶を、なんの疑いもせずに飲んでしまった」
彼は追憶から帰還するようにゆっくりと目を開けると、一週間生死を彷徨ったのだと笑った。
まるで失敗談でも語るように。
彼の心の歪さをはじめて目の当たりにして薄寒さを感じ、少しだけ肌が震えたが、そうすることで家族に心配かけないように身を守って来たのだと気づいてしまえば、それは彼の鎧のようものなのだと納得して腑に落ちてしまった。
彼がいつも微笑んでいるのは、周囲に向かって、僕は大丈夫だよ、と伝えるためのわかりやすいサインだったのかもしれない。
「犯人はすぐに捕えられたけれど、どうなったかは知らない。たぶん自害したんだと思う。雇い主は明白だったから、実行犯には特に思うことはなかったけど、そのときの僕は自分が殺されかけたことよりも、母上がショックで寝込んでしまったことの方が堪えた。僕は僕が傷つくことで、大切な人が傷つくことが怖くなった」
だから毒に耐性をつけたのだとジーンは続けた。
「日々の生活すら警戒しないといけなくなって、だから人を観察する癖がついているんだ。みんな腹の中でなにを考えているのかわからないから、必死だったよ。周囲の人が全員、自分を殺そうとしているんじゃないかって疑ったり。……家族しか信じられなかった」
ジーンはイザベラの言いたいことをいつも察してくれていた。その経験があってのことだったのだ。もしかしたら今このときも、実はイザベラのことも疑ったままなのかもしれない。一気に血の気が引いて慌てて首を横に振る。
「大丈夫。ベラのことは、はじめからあまり疑っていなかったから」
なぜだろうと考え、すぐに思い当たった。はつかねずみのマーティンが決め手だったに違いない。友人のペットだというマーティンのおかげで、特に疑われずに済んだのだろう。
偏見だが、暗殺者がねずみなど肩に乗せているわけがない。絵面が滑稽過ぎる。
「うーん、まぁ、そんなところかな」
あの白い小さな友人がもう懐かしく感じられる。また会えたらお礼を言わないと。
イザベラが再び傾聴姿勢になると、ジーンは苦笑しながらもゆっくりと話を再開した。
「それからも何度か危険なことがあって、父上は屋敷の警備を厳重にして、護衛をたくさんつけてくれた。だけど人の心は見えないから……裏切られることもある。護衛のひとりに殺されかけた。自分の落ち度だと父上が深く後悔をしているのを見て、大切な人を悩ませる自分の存在が悲しくなった」
だから致命的な機微を見逃さないように人の一挙一動をよく観察するようになったのだとジーンは言った。
「ここ、左肩にある裂傷。これはね、矢を射られてついた傷。両親と姉上と一緒に、領地に向かうために馬車に乗っていて、襲撃された。両親が囮になって、負傷した僕と姉上は山中に逃げたらしい」
(らしい……?)
「そこからの記憶がね、ないんだ。近くの村の子供が、岩場の陰にある子供しか通れないような狭い抜け道を通って村へと連れて行ってくれたらしくて。土地勘のない追っ手に見つからず、応急処置をしてもらって一命を取り留めた。さすがに死を覚悟したけど、人は結構しぶといね。だけど姉上は、そうは思わなかったらしい。あの日から、姉上は少しだけ変わってしまった」
前よりももっと過保護になったと笑うが、きっとそれだけではないのだろう。
「僕は僕のせいで大切な人たちを傷つけることが怖い。だから、あまり王都にいたくないんだ」
彼はきっと優しすぎるのだ。
だからこうして今も苦しんでいる。
見ず知らずの他人だったイザベラのことまで背負ってしまうくらいに、彼は優しさでできている。
「それはどうかな、優しくするのは打算なんだ。誰だって親切な人を害することには少なからず罪悪感を抱く。それがたとえ仕事なのだとしても、いざ目の前にすると躊躇いが生まれる。その一瞬さえあれば、僕は危険を回避できるし相手も手を染めずに済む。それだけだよ」
自分を殺しに来た相手のことまで慮っている時点で、彼の優しさは振り切っている気もする。
イザベラならば、相手のことなど考える余裕はないだろう。なぜ自分が狙われなければならないのかと嘆き悲しむことしかできない気がする。
彼は優しい。
そして意思が強い。
イザベラならとっくに心が折れてしまっている。
理由があって、信念を持って王都から離れているのなら、それを他人が否定できるものではない。
彼がここに居つきたくない理由はわかった。長引かせれば、きっと離れ難くなるから。
ならばイザベラには、行かないでと引き留めることなど、できるはずがない。
だけどイザベラは、彼の家族ではなく赤の他人だ。
(だったら……)
連れて行ってもらうことも、できるのではないか。
その淡い期待はすぐに打ち砕かれた。
「今すぐ出立するわけでもないし、屋敷にはディノもクレアも置いていく。ベラが不自由なく暮らせるようにしておくよ。だから……そんな顔、しないで」
自分がどんな顔をしているのかはわからない。側から見たら相変わらずの感情のない人形のような顔だろう。
だがきっと、彼の目には、納得できずに縋りつこうとする子供のような自分が映っているのだろう。
*
ジーンの実家、テレーゼ公爵家と王家との間には、血で血を洗う深い因縁があり、それはこの国の一定年齢以上の貴族ならば誰でも知っている公然の秘密でもあった。
ことの発端は先々代の国王の暴挙。孫ほども歳の離れたテレーゼ家の娘を、婚約者との仲を引き裂き無理やり寵妃に召し上げた。
それがテレーゼ家の悲劇のはじまりだった。
そこから二代に続く長い水面下での争い。王家と公爵家の関係は最悪で、取り繕った表面上でさえも殺伐としたものだった。
ジーンは物心ついたときには、自分が両親の本当の子供ではないことに薄々気がついていた。
なんとなく察するものがあったのだが、周りが隠そうとしているので気づかないふりをしていた。その頃から人の感情の機微を感じ取るのに長けていたわけではなく、幼ながらに、余計なことを言って両親からの愛情が失われてしまうことを恐れていたのだ。
もちろん今ならば杞憂だとはっきりと言えるが、小さな子供がそんなことを理解できるはずもない。
今でも両親のことを本当の親だと思って慕っているが、彼らは実際には伯父夫婦。本来の続柄は甥なのだが、それを感じさせないくらいに、彼らはジーンを分け隔てなく愛してくれた。
優しい両親と実の母。そこで完結できていればよかったのに、子供が産まれるためには、もうひとり、親の存在が必要で。
自分の実の父親が誰なのか、知ったときの衝撃は今でも忘れられない。
実の父と母が、純粋に想い合った結果ならば、どれほどよかっただろう。
だけど現実は残酷すぎるほど無情で、後に悪王と伝わる王らしく、悍ましい事実しかそこには存在しなかった。
先々代の国王に無理やり寵姫にされた孫ほども歳の離れたテレーゼ家の娘。
それがジーンの実の母親だった。
娘を人質同然に拐われた祖父は真っ向から王に立ち向かい非難したことで、不敬罪としてその場で王の手によって切り伏せられたらしい。
重臣であったテレーゼ公爵を、なんの躊躇いもなく殺したことで周囲は怯えて保身に走り、その件について誰も触れることはなく内々で処理された。
表向き祖父は心臓発作で倒れた病死とされたが、死に至るまでの出来事ごと秘匿されたことで、テレーゼ家の人間が連座に問われることはなかった。
祖父が急死したことで父が爵位を継いだが、当時まだ十代の青年。爵位があるだけでなんの力もなく、名家だったテレーゼ家は王城から締め出され、人質のように拐われた妹の安否もわからぬまま。
それでも父は臣下としての忠誠心を見せ、憎悪と屈辱を殺して信頼を回復し、ようやく王城への出入りを許可された頃には、実母はジーンを身籠っていたらしい。
その子は……ジーンは、おおよそ望まれない子だった。
王妃には子はひとりしかおらず、しかも、王となるにふさわしいとは到底言い難い男だったこともあり、まだ正式に立太子されてはいなかった。
実母は王妃の生家と遜色のない家柄の娘であり、産まれて来る子が血筋的になんの問題もないとあれば、本人たちが望まずとも担ぎ上げる勢力は必ず出て来るものだ。
これ以上王妃の反感を買えば母子ともに殺されると危惧した父は、実母に病を装わせてどうにか療養の名目で屋敷へと連れ帰ることに成功した。実際彼女は王妃からの度重なる嫌がらせで弱っていたらしく、それこそ、装う必要もないくらいに、憔悴し切っていた。
実母は妊娠を隠し、逆に育ての母は周到な準備をして妊娠を装った。だからジーンは公式にはテレーゼ公爵家の嫡子となっている。
危険な賭けだっただろう。
発覚すれば全員処刑台行きだったはずなのだ。
もっと簡単に、物事を収める方法が、ひとつだけあったのに。
憎い仇の血を半分も引いた子供など、見捨ててしまえばよかったのに。
なのに彼らはそうしなかった。
ジーンが生きる道を選んでくれた。
実母の記憶はほとんどないが、愛情深い人だったのだと思っている。
王妃の手の者に暗殺されるその日まで、彼女はジーンを愛してくれた。
今ではなにひとつ彼女のことを覚えていないことが、悔やまれてならない。