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14・テレーゼ公爵家



 どれだけ願っても時間は一定の速度で流れるもので、ついにお茶会の日が到来し、例のドレスを着込んだイザベラはジーンとともに馬車でごとごと揺られていた。


 薄々察してはいたのだ。爵位を持てない次男三男に屋敷を与えられることも稀にあるが、たいていが五十地区以降という貴族街でも端の方になるのが普通であり、見た目は幽霊屋敷とはいえ、二十九地区に住んでいるジーンが上流貴族出身だということはイザベラにも容易に想像がついていた。


 だが……。


 十地区を走る馬車の中で、イザベラはほとんど起きたまま意識を失っていた。目だけはカーテンの隙間から窓の外の景色へと向けているが、網膜と視神経が仕事を怠り、なにも頭に入って来ない。侯爵家のある二十五地区を過ぎ、不安が過ぎ去ったはずなのに、別の不安に押し潰されそうだった。


 このあたりに屋敷を持つ貴族。こんな、王城のすぐ近くに屋敷を構えられるのは、ごく限られた名家だけ。臣下に降りた元王族や、王女の降嫁するような公爵家など、王族に近い貴族が住まう地区なのだ。


 そんな場所に足を踏み入れていることにすでに卒倒しかけている。


 ぎこちなく向かいを窺うと、ジーンはカーテンをきっちりと閉めてしまった。


「窓を矢で射られると困るから、カーテンは閉めようか」


 さらっと諭された言葉に内心震え上がる。冗談がわからないところが余計に怖い。


 馬車に乗っていて矢で射られた経験がある人がどれくらいいるのだろうか。物語では馬車がよく襲われたりするものだが、盗賊の武器は切れ味のよくない大きな曲がった刃物だと相場で決まっている。


 イザベラの胃がキリキリとしはじめた頃、ようやく馬車はゆっくりと停車した。


 ジーンが差し出した手を取り、馬車から降りて最初に感じたのは、花のあまい香りだった。


 その芳香につられるように、イザベラはあたりをそっと見渡す。広大な庭園の花壇に可憐に咲き誇る花々は、よく見知ったものだった。香水いらずで髪飾りにもなるという、今流行りの花。さすがは公爵家、流行の最先端をしっかりと押さえている。


 だからこそ、ジーンがぽつりとこぼした苦笑に首を捻った。


「相変わらず悪趣味だなぁ……」


(悪趣味……?)


 特に趣味の悪い雰囲気ではないのに、ジーンにはこの景色が悪趣味に映るらしい。


 もしかしてジーンは、あまり花が好きではないのだろうか。ジーンの屋敷には薬草などが多く、それらは慎ましやかな花を咲かせたりもするが、この手の庭に彩りを添える類の華やかな花々や、芳香を楽しむための花は確かに少ない。


 好みは人それぞれだが、イザベラも、ジーンの屋敷の薬草畑の方が好ましく思う。


 そもそも花がふさわしいのは、イザベラではなくハルベリーのような娘だ。


 久しぶりにハルベリーのことを思い出したら、自然と視線が地面へと落ちていた。イザベラはきっとこの場にふさわしい人間ではない。舗装された石畳の小道をジーンにエスコートされながら俯いて歩いていると、薔薇の生垣の奥から勢いよく女の子が飛び出してきた。


「お兄様!」


 五、六歳くらいだろうか。瞳をキラキラと煌めかせた愛らしい顔立ちの女の子だ。思っていたよりも幼くて驚いたが、彼女がジーンの妹なのだろう。満面の笑みでジーンへと飛びつくその様は、とにかく全身から喜びが満ち溢れていた。


「お兄様ったら、やっと会いに来てくれましたね! セシルはずっと、ずぅーっと、いい子で待っていたのですよ!」


 しっかりとその小さな体を受け止めたジーンは、そのまま彼女を抱き上げ、くるくる回った。


「ちょっと会わないうちに、大きくなって!」


「セシルは立派なレディになりました!」


 そう元気に宣言する小さなレディを地面へと下ろすと、ジーンは揶揄うように言った。


「立派なレディは、こんな風に人に飛びついたりはしないかな」


「今日はいいのです! こうして捕まえておかないと、どうせお兄様はすぐにどこかへ行ってしまうからいいのです!」


「ああ、それは困ったなぁ」


 逃げないようにしっかりと手を握られて、うーん困った困ったと、優しい目をして微笑むジーンも嬉しそうだった。


 イザベラはそんな兄妹の再会の様子を、ただ眩しげに眺めていた。


 こんな風に、帰ってきたことを心から喜んでくれる人がいることは幸せなことだと思う。


 一瞬、イザベラの脳裏に父の顔がよぎり、ぎくりとした。もしも今イザベラが実家に戻ったら、父は喜ぶかもしれない。娘が無事に帰って来たことにでなく、復讐のための生贄が自らのこのこと戻って来たことを。


 それとも、もう用なしだろうか。


 瑕疵のついた娘など、戻って来られても迷惑だろうか。


(わたしにはもう、帰る場所など……)


 つい逸れた気持ちをどうにか振り払い、目の前のことに意識を集中した。招待を受けたからには、最後までジーンの家族に悪印象を与えずに完璧に振る舞えるようと努力しなくては……。


「セシル。お客様にごあいさつは? 立派なレディになったところを見せてくれないのかい?」


 彼女はジーンの腕から降りると、イザベラの前に立ってスカートの裾をちょんと持ち上げ、かわいらしくカーテシーをした。幼いながらもさすが公爵令嬢と思わせる所作だったが、その声は元気いっぱいだった。


「わたしの名前はセシル・テレーゼです! そしてわたしは、あなたを知っています! セシルのお義姉様になる方ですね!?」


「うん、違うね」


「あれっ!?」


 ジーンにさらりと否定されて大きな目をさらに丸くしているセシルは、小リスのようでかわいらしい。


「お義姉様ではないけど、僕の大事な人だよ。名前はベラ。仲良くしてくれると嬉しい」


(大事な人……)


 思わずジーンの横顔を見た。その視線に気づいているだろうに、彼はこちらを見ることなく、腰を屈めてセシルに向き合っている。


「お兄様の大事な人なら、セシルにとっても大事な人です! 仲良くしましょうね、お義姉様!」


「だからお義姉様じゃないって言っているのに。……まぁ、いいか」


 ジーンは早々に否定するのを諦めた。彼が諦めてしまったら、口を挟めないイザベラにはもはやなす術はない。


「セシルがエスコートして差し上げます! お姉様も首を長ーくして待っているのです。早く早く!」


 楽しげなセシルに手を引かれ、たどりついたのは温室だった。


 中へと足を踏み入れると、お茶会の準備が整ったテーブルに、装飾の少ないシンプルなドレスを纏ったひとりの女性が佇んでいるのが見えた。彼女はこちらに気づいたのか、ふわりと微笑む。


 意外と小柄な女性だ。もしかするとイザベラの方が背が高いかもしれない。


 イザベラは元々あまり人と接する機会を与えられていなかったが、彼女よりも美しい人はいないだろうと断言できるほどに、美しい人だった。


 顔立ちを見ても、華美すぎないほどよさで整っており、驚くことにすべてのパーツが完璧に配置されているのだ。絶世の美女というのは身内の贔屓目ではなく、真実だった。


 そして容姿もさながら、ひとつひとつの所作の美しさは、厳しい教育を受けてきたイザベラだからこそわかる一切の隙のなさ。見る者を惹きつける圧倒的な魅力が彼女にはあった。


 イザベラはこれまでずっと、お姫様とは、ハルベリーのような子のことだと思っていた。だけどそれは、違ったのかもしれない。目の前にいる女性こそ、お姫様と呼ぶに相応しい存在なのだと、これまでの固定観念そのものを真正面からぶち壊されたような衝撃を受けていた。


 微笑みひとつとっても、内心どうであれ、本当に歓迎されているかのように思わされる不思議な説得力を持っている。


 祖父の求める完璧な淑女を体現したかのようなその姿を前に、かつて自分の演じていた中途半端な淑女のふりが急速に恥ずかしくなって萎縮してしまった。


 若々しさと大人の落ち着いた雰囲気が混在しており、年齢はまるで読めないが、ジーンの姉ということは二十代半ばくらいだろうか。彼女の年齢になれば自分もそうなれるのだろうか。無理な気がする。


「お姉様! お客様をお連れしました!」


「ありがとう。いい子ね」


 それはよく通る凛とした声であり、それでいて優しい響きを持っていた。


「ですが、セシル。きちんとお客様の反応を見ながら、丁寧に案内をしなければなりませんよ」


 セシルは振り返り、どう見ても強引に引きずって来られましたという状態のジーンとイザベラを眺めて、あれ? と、目をぱちくりとさせていた。


「ごきげんよう。久しぶりですね、ジーン。そして、はじめまして。わたくしはリリーベル。よろしくね」


 格下のイザベラが先に挨拶しなくてはならないのに、先を越されてしまった。内心慌てながら青くなったイザベラを気遣うように、ジーンがそっと背を撫でてくれた。


「姉上、無作法ですよ」


 揶揄う口調のジーンに、リリーベルは似たような含み笑いで返す。


「公式の場ではないからいいのですよ」


 そのときようやく気づいた。彼女はイザベラが話せないことを知っていて、堅苦しい場でないことを示しつつ、あいさつひとつまともにできないイザベラが気後れしないようにと、あえて目上の彼女が作法を無視することで気を遣ってくれたのだ。


 そういうところはジーンとよく似ているかもしれない。


「さあ、おかけになって」


 促されてジーンの隣に腰を下ろすと、目の前のカップに紅茶を注がれる。とてもいい香りだ。イザベラが淹れるものとはまったく違うので、少々自信をなくす。


 ジーンは優しいのでなんとか侍女の真似事ができているが、よその屋敷で侍女になるのは厳しそうだった。


 そんなことを考えながら、久しぶりに再会した姉弟の会話を遮らないよう聞き役に徹し、せめて愛想だけはよくしようと微笑みを浮かべると、横からジーンにふにっと頰を摘まれた。


「無理しなくていいから」


 貼りつけた笑みは封じられてしまい、いつもの黒板を使うのはさすがに場にそぐわないからと馬車の座席に置いて来てしまったので筆談もできない。


 聞き流していればいいよと言われているが、そういうわけにもいかないのではないか。


「あっ! お兄様、女性のほっぺを触るのはマナー違反ですよ!」


「僕はいいんだよ。ほかの男はだめだけど」


「そうなのですか?」


「うん。セシルに触れてもいい男も、今のところ父上と僕だけだろう? それと同じだよ」


「なるほど!」


 ジーンは適当なことを言って純粋な妹を丸め込んだ。


 リリーベルは少し呆れたようにふたりのやり取りを眺めている。笑いを堪えているジーンにか、簡単に人の言うことを信じてしまったセシルになのか、どちらもなのか。


「確かに、未婚の女性に触れていいのは、家族か婚約者だけですものねぇ? その理屈でいくと、あなたは彼女の婚約者、ということになりますね」


 イザベラを意味ありげにちらりと見て言ったリリーベルの指摘に、ジーンが、うっ、と呻いた。


「あっ! やっぱりお義姉様はセシルのお義姉様になる方だったのですね! セシルは綺麗なお義姉様ができて嬉しいです!」


「わたくしも嬉しいですよ。ふらふらしていた弟が、やっと結婚してくれるのですもの?」


 イザベラが慌ててふるふると首を振って否定するが、彼女たちはこちらに気づかない。


「姉上……」


 額を押さえるジーンのげんなりした声に、リリーベルが、ふふ、と笑う。


「冗談よ」


「冗談なのですか?」


 きょとんとするセシルをリリーベルがひと撫でする。


 冗談ということで場が収まって安堵したが、婚約者でもなければ頰に触れたりしないことに今さらながら気づかされて戸惑った。


 彼に触れられることはこの頃は当たり前となっていて、それがあまり褒められた行為でないことを知っていても、やめてほしくないと思ってしまった。……今のままでいてほしい、と。


 それでもいつかは、彼も誰かと結婚する。


 そのとき隣にいるのはイザベラではないのだ。


 はじめて、いつか来る未来を見据えて怯えた。


 彼は優しいから、イザベラを追い出したりはしないだろう。望めばずっと保護者の立場でいてくれるに違いない。


 だけど、彼がほかの女性と仲睦まじく暮らすそばで、それを眺め続けることが、自分にできるのだろうか。


 想像しただけで、胸の奥がずきりと痛んで体がずしりと重くなる。


 こんなことを思うのはお門違いだが、裏切られ、見捨てられたような気分だった。


 その優しい眼差しが、自分以外に注がれるのを黙って見ているのは、つらい。


(……依存している)


 そのことにぞっとした。


 身勝手な独占欲を振り払えずに、気を紛らわせるためにお茶に口をつけたが、カップの中で揺らぐ紅茶に、不安げな自分の顔が映っていて動揺した。


 こんな顔に気づかれたら、ジーンに心配をかけてしまう。迷惑をかけてしまうのに、洞察力の優れた彼から隠し通すことができない。


「ベラ? 顔色が……大丈夫?」


 顔を覗き込まれて、慌ててこくこくとうなずいたが、あまり信用していない様子でイザベラの背を撫でながら、彼はリリーベルへと声をかけた。


「姉上、彼女を少し休ませて来てもよろしいですか?」


 イザベラはすぐにジーンの腕を掴んで、必死に首を横に振った。


 彼女たちが本当に会いたかったのはジーンなのだ。だからイザベラはいいとしても、彼を中座させるわけにはいかない。きっと話したいことがたくさんあるだろうし、むしろ自分がいない方が話が弾むはず。


「だけど……」


「それならお義姉様は、セシルとお庭のお散歩をしましょう! お外の空気を吸いながら休憩しましょう? ね?」


 セシルに手を取られて、つられるように席を立つ。


「待って。本当に無理していない? 大丈夫?」


 自分は大丈夫だから話を続けてほしいと伝わるように強めにうなずく。


「心配だな……」


「お庭のお散歩が終わったらお部屋でお休みするから大丈夫です! その代わり、後でたくさん遊んでくださいね!」


「わかったよ。ありがとう、セシル。彼女のことをよろしくね」


「イエッサー!」


 軍人のように胸に拳を当てて返事をするセシルに、ジーンの、「立派なレディはどこへ……?」という愕然としたつぶやきが聞こえてきたが、幼い手にぐいぐい引きずられていたイザベラには、彼がどんな顔をしていたのか結局わからずじまいだった。



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