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13・屋根裏で



 眠ってしまったイザベラを、ジーンはしばらく目を細めて眺めていたが、そろそろ中へと戻らないと夜風で体が冷えてくる頃合いだ。風邪をひいてしまうと大変なので、起こさないようにそっと彼女を抱き直すと、足音を立てずに屋根裏部屋へと舞い戻った。


 片隅にひっそりと置かれている寝台までとりあえず運び、彼女を寝かせて、ひと息つく。ここに寝台があってよかった。昔からの癖でどうしても一箇所で落ち着いて寝続けることができないジーンのために、邸内にある寝台という寝台のすべてを、ディノとクレアがいつでも使えるようにと綺麗に整えてくれているのだ。まめな彼らに感謝しながら、隙間風が入らないよう、きっちりと天窓を閉めた。


 今でこそ寝室できちんと睡眠を取ってはいるジーンだが、その日の気分で休む場所を変えることもまだあって、実際さっきイザベラと鉢合ったのも、ちょうど寝場所を探していたからだった。


 しかし屋根裏に足を踏み入れたのは、なかなか久しぶりのことではないだろうか。……まあ、この屋敷に長く滞在すること自体が稀なのだが。


 なんとなくジーンはそのまま彼女の隣に転がり、肘をついてその無防備な寝顔を見下ろした。


 透き通るような白い肌を指の節でくすぐってみる。目を閉じていると本当に、精巧な人形のように綺麗な娘だが、ジーンにいたずらされてくすぐったかったのか、ちょっとだけ眉根を寄せる仕草をしたのを見てほっとする。


 額にかかる髪を梳いて耳の方へと流してやると、瞼の落ちた寝顔が晒された。月光で揺らぐその陰影すらも美しい。


 一番綺麗なのは癖のない紅い髪だが、ジーンのお気に入りはなにより瞳だ。濁りのない、まっすぐな眼差しでジーンを見つめるあの瞳。彼女の中で唯一感情が溢れ出るのもまた瞳だった。


 ジーンの贔屓目を抜きにしても、目を引く美少女であることに違いはない。本人にその自覚はないようだが、何事もなく社交界デビューしていたら多くの求婚者が彼女の前に列を成したことだろう。


 若く美しく、控えめで従順。もれなく爵位もついてくるとあっては、爵位を継がない次男三男からしたら、是が非でも手に入れたい存在だ。もしかするとデビュー前からすでに、引く手数多であった可能性もある。


 それなのに、どんな運命のいたずらか。


 こんな物置のような屋根裏なんかで、婚約者でもない男に添い寝されながら眠っているのだ。


 こういうとき、縁とは不思議なものだなとしみじみ思う。


 もし彼女が予定通りにデビュタントを迎えていたら、ジーンと彼女はどこかですれ違うこともなく、お互いに名前すら知らず、決して交わることのないまま人生を終えていたことだろう。


 もし彼女に出会っていなければ、ジーンは今頃、ひとり屋根裏の天窓から夜空を見上げ、つまらない過去のあれこれを思い出してはため息をついて、飴でも転がしながら生産性のない時間をだらだらと過ごしていたに違いない。


 今も別の意味ではため息がもれるが……こちらは悩ましい類のものだ。


 彼女はジーンのことを安心安全な聖人君子のように思い込んでいる節があるが、普通に健全な男である。自制しているだけで、まったく無欲なわけでもない。


 本人が気づいているかはわからないが、好意の中にちらちらと見え隠れするその淡い感情に、動揺するなという方が無理な話で。


 だがこれほど信頼されていては期待に応えるのが筋ではあるし、そもそも彼女はジーンからするとまだ子供の年齢だ。


 それに、彼女の精神年齢は見た目よりずっと幼い。そうでなければ男の腕の中でこうもすやすや眠れないだろう。


 しかしだからこそ、彼女があまりにも無垢だからこそ、ジーンも安心して添い寝などしていられたりするのだが。


 実は寝たふりで、ジーンの心臓の真ん中にナイフを突き立てるべく今か今かとチャンスを窺っているのではないか……などと、彼女に対してそんな警戒心を持たなくてもいいのは、イザベラ自身がジーンに全幅の信頼を寄せているからで、それが手に取るようにわかるからこそ、ジーンも彼女を信用していられた。


 家族ではない誰かとふたりきりでいて、これほど心が穏やかでいられることはめずらしい。


 それが異性となると、はじめての経験と言っても過言ではなかった。


 警戒心の強いジーンは、これまで女性と深い関係になったことが一度もない。


 男所帯の軍にいたので知識だけは人並み以上にあるのだが、あくまで知識。実地で試したことはなかった。


 人は誰かと愛し合っているとき、驚くほど無防備になるものらしい。肉体的にもそうだが、なにより心。肌を合わせるくらい相手のことを信じて、もし裏切られたらと考えると、リスク回避するのは当然の帰結で。


 愛する相手だという油断や、行為にのめり込んだその隙で、人の命など簡単に奪い取ることができるのだと考えると、一生女を知らなくてもいいか、と、あっさり割り切り娼館ですら利用しなかった。


 もしジーンが誘惑に弱く、快楽に負けて女性に手を出さずにはいられない堕落した暮らしをしていたのなら、きっとどこかの段階で殺されていただろう。


 イザベラが寝返りを打ち、ちょうどジーンの胸へとすっぽりと収まった。頰を緩めながらその背へと腕を回す。無意識にぬくもりを求めてきた彼女の体が冷えてしまわないよう、体温を分け与えるようにあたためた。


 この傷ついた心が癒えますようと、星に願ってみたものの、そう簡単な話でもないことは彼女を観察していれば明らかで。


 彼女には、本来自分を傷つけた相手に抱くべき『憎悪』という感情がまるでないのだ。


 悲しい、寂しい、つらい……そういった感情はあるのに、恨みや憎しみというものが少しもないのは、ジーンからするとやはり歪んで見えた。


 それはこれまで彼女の世界は家族だけで完結していて、愛情を注いでもらえなくても、ほかに求める先を知らなかったからだ。満たされることのないまま自分を傷つける相手からの愛情を必死に求め続けるしかなかったのは、もちろん仕方のないことだったとわかってはいる。


 どれだけ傷つけられても、父親の愛情を一心に望み続けてきたイザベラ。


 ただ、愛されたかった。


 きっと本当に、それだけだったのだろう。


 だけど、声を失うほど傷つけられたのに、恨みひとつないというのはあまりに切なすぎた。


 逃げるという選択はできるのに、捨てるという選択は未だにできていない。きっと思いつきもしないのだろう。


 家族に対してうまく見切りをつけることができれば、少しは彼女の気持ちも軽くなるかもしれないが、それが難しいことも理解していた。

 

「どんな声をしているんだろうね、きみは」


 骨格や相貌でおおよその想像はつくのだが、やはり、実際に彼女の声で聞きたいと思う。


 声に関しては精神的なものによるので、このまま原因から遠ざけていれば治る可能性が高い。


 治ったとしても、できればこのままずっと引き離しておきたいところだが……。


(このまま、ずっと……か)


 ジーンの心に翳りが落ちたそのとき、かすかに板敷の軋む音が聞こえ、ふ、と感情を消して顔を階下に続く階段の方へと意識を向けた。警戒したのはほんの一瞬で、すぐにそこにいるのが誰か察してジーンはゆるやかに気を緩める。


「ベラならここにいるよ」


 起こさないよう囁き声でそちらへと伝えると、下から安堵したようなクレアのため息が聞こえてきた。


 見回りに行って彼女がいなかったので、慌てたのだろう。あの暗闇では転んで怪我をしかねないし、声の出ない彼女は助けを呼ぶこともできないのだ。焦る気持ちもわかる。イザベラがいる間だけでも、廊下に明かりを灯すべきかもしれない。


 念のため、身の潔白も伝えておく。


「連れ込んではいるけど、なにもしていないから」


「ええ。承知しております」


 概ね状況は察しているのだろう。


 なにかあったのだとしても、わざわざ申告するかはわからないが、今は本当になにもない。


「おやすみなさいませ。くれぐれも、順序を間違えませんように」


「わかってるから。……おやすみ」


 クレアが去り、息をつく。


 念押しされなくてもちゃんとわかっている。


 わざとなのだろうか。あまり釘を刺されすぎると、逆らいたくなるのが人のさがだ。


「本当に、きみをどうしようね?」


 どうすれば最善なのか、自分でもよくわからない。


 家族から完全に引き離すためには、やはり結婚してしまうのが一番早い。


 後継を産むために婿を取るはずの娘を嫁に出すことに難色を示すかもしれないが、丸め込む自信はある。


 ジーンが娶ってしまえば、家族とはいえ簡単に手出しできないだろう。


 彼女のためにはおそらくそれが一番いい方法。


 形だけなら、彼女を救い出すことは可能だ。


 ただ……。


 イザベラが望んでも得られなかった、家族愛。


 できればジーンが溢れるくらいに注いであげたいとも思うのだが、ジーンの知る家族愛も残念ながら普通とは言い難く。


 そしてジーンの愛し方もまた、人とは違っているのだった。


「……ごめんね」


 きっとジーンでは、彼女の望むような理想的な夫には、なれないだろう。


 それがわかっているから、あと一歩踏み切れずにいる。


 だからいつも試すように彼女に選択させようとしてしまうのだ。


 彼女が選べないと知っていても、自分ではなにひとつ、決められないから。


 いっそ強引に奪ってしまったら、なにか変わるだろうか。


 しかし眠るイザベラの顔を見たらなにもできるはずもなく、ジーンはもどかしげに嘆息した。


「……おやすみ」


 せめて彼女が起きるまでの間だけでも、このままで。


 腕の中にある柔らかなぬくもりをしっかりと抱きしめながら、ゆっくりと瞼を下ろした。



明け方、ベラが起きる前にきちんと部屋へと送り届けたジーン

添い寝の件は知らないベラです

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