1・父との関係
離れにはお姫様が住んでいる。
イザベラがそのお姫様を見たのは五歳の誕生日のことだった。
誕生日といえど誰にも祝われることなく、ひとり寂しく庭先で佇んでいたイザベラは、決して立ち入ってはいけないと言いつけられていた離れの方へと父が歩いて行くのを見かけて、なんとなく、その背を追いかけた。
普段はあまり家におらず、会えばいつも忌々しげにこちらを見下ろすだけの父。叱る以外の言葉をかけられたこともないが、母がいないイザベラにとっては、どれだけ疎まれてもたったひとりの親だ。努力すれば褒めてもらえるかもしれないと、厳しい勉強も泣き言を言わずにこなしているのは、ひとえに父に振り向いてほしいからだった。
完璧な侯爵令嬢となって、この家の後継を産むこと。それがイザベラに課された唯一の使命で、存在意義だった。
懸命に足を動かしたが、侯爵家の庭は広い。しかも大人と子供の歩幅には大きな差があり、イザベラはすぐに父を見失ってしまった。離れには一体なにがあるのだろうという興味もあったが、言いつけを破ったときの父の剣幕を想像すると急に怖くなって、踵を返そうとしかけたときだ。かすかに、子供の声が聞こえた気がして、耳を澄ませた。
きょろきょろとあたりを見渡し、イザベラは逡巡してから、声のする方向へと足を進めた。
道の先は行き止まり。わさわさと伸びた茂みと、子供には乗り越えられない高さの柵が行手を阻む。
幼いイザベラでは越えることはできなくても、幼いからこそ隙間から覗くことはできた。イザベラは小さな両手茂みをかき分け、そして……息を呑んだ。
そこにはまるで絵本の一ページのような、非現実的な光景が広がっていたのだ。
淡い金色のふわふわした髪が印象的な、自分と同じくらいの年頃の女の子が、輝くブルーの瞳で隣に座る大人を見上げ、楽しそうにおしゃべりをしていた。
ピクニック中なのか、芝の上には布が広げられていて、ふたりの間にはバスケットから取り出した焼き菓子やサンドウィッチ、紅茶の入ったカップや、銀のカトラリーなんかが置かれている。
そういえば、今日は朝から屋敷内にあまい匂いが漂っていた。誰かが自分の誕生日のためにケーキを焼いてくれているのかもしれないと思っていたのに……。
これまで一度だって誕生日を祝われたこともないのに、もしかすると今年こそは、と期待していただけに落胆が大きかった。
家族で誕生日をお祝いするなんて、やっぱりおとぎ話の中だけのことなのだ。
そもそも誰も、イザベラの誕生日など覚えていないのかもしれない。
(お父さまでさえ、覚えていない……)
小さな両手で柵をぎゅうっと握る。なにかを握っていないと、泣いてしまいそうだった。
女の子と一緒にいるのは、さっき見失ったイザベラの父だった。
父は見たこともないような笑顔で女の子の話に耳を傾けている。見たこともない優しい表情をして彼女の頭を撫でている。
(あれは本当に、お父さま……?)
似た顔の別人ではないか。そう思わないと心がずたずたになって死んでしまいそうだった。
がんばれば父が振り向いてくれる。笑ってくれるかもしれない。そんな淡い期待は、この瞬間粉々に打ち砕かれて散った。
あの子は誰なのか。父とどういう関係なのか。そんな疑問すら思い浮かばず、イザベラは瞬きすることも忘れて、目に映るその光景を焼きつけるように眺め続けて、ふと、気づく。
ぺたんと座る女の子の膝の上には、ぬいぐるみ。それはもこもことした白いうさぎで、首にワンポイント、ピンク色のリボンが結んであった。
(あ……)
それはイザベラがこの間まで持っていたぬいぐるみによく似ていた。もらった瞬間からお気に入りになったぬいぐるみ。だけど、侯爵家を継ぐ人間には不要だと父に取り上げられたぬいぐるみ。イザベラが結ったのは、赤いリボンだった。
けれど。
似ているのではなく、そのものなのだろうか。わからない。世界にひとつだけのものでもなかったし、新しく買ったものかもしれない。
だけどきっぱりと言えることは。
イザベラは許されずに、あの子は許されている、ということ。
勉強漬けで息苦しさしかない自分とは別世界で生きている彼女を見つめ、一種の自己防衛が働いた。
(……ああ、そっか)
あそこにいるのは、きっと本物のお姫様なのだ。
物語のお姫様は誰にでも愛される。動物たちだってお姫様のことが大好きだ。だから父は別人のように微笑んでいるし、イザベラには許さないぬいぐるみを持っている。
そう思うことで無理やり自分を納得させた。そうすることで幼い心を守った。
彼らの間に風が吹く。青々とした木の葉が揺れて、さわさわと葉音を立てる。ふたりの楽しげな笑い声が今にも届いてしまいそうで、イザベラは慌てて駆け出していた。
あのおとぎ話のような現実離れした世界から目を背けて、二度と迷い込んでしまわないようにと願いながら。
後で知った。
あのお姫様はイザベラと半分血の繋がった、同い年の姉なのだということを――。
*
「イザベラお嬢様?」
侍女に声をかけられて、イザベラは返事の代わりに少しだけ視線を上げた。薔薇の香りを乗せた涼やかな風の通り抜けるこの木陰は、屋敷の中でもイザベラが好んで過ごす場所のひとつだ。
正確には、好んで過ごす、と周りに思われている場所、だが。
「先ほどからページが進んでいないようですが、どうかされましたか?」
「……いいえ、別に」
イザベラは侍女の探るような不躾な視線を受け流して、再び、巷で話題の恋物語を読み進めた。正直おもしろさはよくわからないが、王子様との身分違いの恋愛は、十五の娘が読むにはちょうどいい本だろう。周囲に反対されても障害を乗り越えてふたりの絆はますます深まっていく。感動すべき場面でヒロインの感情を理解できずに、イザベラはまた文字を追うのをやめた。
そもそも愛がなにかもわからない。イザベラは心の底で自嘲する。
だけどこうしていれば、きっと今日あたり、父がこの本を取り上げて、明日にはまったく同じ新品の本を離れのお姫様へと持っていくことだろう。お姫様はきっとこういう話が好き。古来より相場で決まっている。
イザベラから取り上げたものではなく新品を買うと断言できるのは、長年の検証実験の結果だった。イザベラは父が取り上げそうなものに、あらかじめ仕掛けを施していた。本ならば重要な場面を切り取っておくとか、髪飾りなら金具を緩めておくとか、小物入れには芋虫を入れておいた。今日までその件で問い詰められていないということは、そういうことなのだろう。
だからなんだという話だが。
(捨てられるからと言って、買わないわけにもいかないもの……)
定期的にこの茶番を繰り返さないと、よほど面倒なことが起こる。
つまるところこれは、父の鬱憤晴らしと言う名の恒例行事なのだった。
父に愛されることを期待するのは、あの日、五歳の誕生日に卒業した。今はもうなにも期待していない。父にも、周りにも。自身にさえも。
今イザベラにつけられている侍女はふたりいるが、どちらも父の手先だ。この屋敷には二種類の人間がいる。祖父の代から仕える古参の者と、父が新しく雇い入れた者。
祖父と父の折り合いが悪いように、使用人たちもまた不仲だった。
祖父は引退して領地で暮らしているものの、未だその影響力は強く、屋敷の使用人たちの勢力図は拮抗している。
そしてそのどちらも、イザベラの味方ではなかった。
祖父派の者はイザベラが侯爵令嬢としてふさわしい教養や立ち居振る舞いを身につけているかに目を光らせ、父派の者はイザベラを蔑み、弱みを握るために監視している。これでずっと、日常的にそばにいる者が一番信用できないという、常に窮屈な生活を強いられてきた。
しかしもう、慣れた。
どう足掻いても現状が好転することはない。ただずぶずふと、緩やかに心がどこかに沈んでいくだけ。少しずつ心が死んでいくだけのこと。
「――そんなところでなにをしている」
温度のないその低い声に、イザベラは感情を消して、教え込まれた通りに優雅に立ち上がった。
「読書です、お父様」
父――グラヴィス・ルーゼット侯爵の目元がわずかに鋭くなる。きっとイザベラにお父様と呼ばれたことに苛立っているのだ。
(それほど嫌なら、話しかけなければいいのに……)
父と呼ばれたくないのなら、ほかになんと呼べばいいのか教えてほしい。そうしたらその通りに呼ぶのに。そもそも近寄らなければ嫌な思いをしなくて済むのだ。……お互いに。
父は不愉快そうに、イザベラの持つ本の表題へと素早く目を走らせた。
「娯楽本などおまえには必要ない。今すぐ捨てなさい」
おもしろいと思って読んでいた本ではなかった。だが、捨てろと言われると悲しい気持ちになる。これまでずっとそう生きてきた。いつも。最後まで読めた物語はない。
「さっさとしなさい!」
イザベラが動かないことに痺れを切らしたのか、本が強引に取り上げられた。
「あ……」
「王子との恋愛話など、馬鹿馬鹿しい。おまえはこの家のためにそれなりの婿をどこかから取って、侯爵家の血を引く子を成せばいい。いいか? 余計なことは考えるな」
まるでイザベラを子供を産むためだけの道具とでも言うように吐き捨てると、もう顔など見たくもないとばかりに足早に去っていく。
言われ慣れ過ぎていて、もう傷つきもしない。
実際、その通りなのだ。父は余計なことを考えたせいで……叶わぬ恋をしてしまったせいで、今なおもがき苦しみ続けている。
身分さえつり合っていれば、叶うはずの恋だったのに、と。
結局最後は祖父によって、愛する人と引き離され、政略結婚を押しつけられた。
だから父は祖父のことを今も深く恨んでいる。
父がイザベラに言う言葉は、つまりは父本人が祖父から言われ続けてきた言葉なのだ。
政略結婚の相手として嫁いできた母も、はじめからそのつもりだったのか、イザベラを産むとさっさと愛人と出て行った。その子が女児だったことなど、もはや自分とは関係ないとばかりに。
本の重みのなくなった空っぽの手のひらを、きゅっと握る。湧き上がる衝動的な感情を抑えるように、こわばった手を反対の手で包む。
(そんなに憎いのなら、いっそ、捨ててしまえばよかったのに……)
イザベラを娘として養っているのは、親の情があるからなどではない。離れのお姫様をこの家よりも格上の家へと嫁がせるという父の野望のために、侯爵家がつつがなく存続していなければならないからだった。
お姫様の幸せのために生かされているのだ、イザベラは。
少なくとも、父にとってのイザベラは、それくらいの価値はある。無価値ではない。
それを喜べばいいのか、悲しめばいいのか、もうなにもわからない。
ずくん、とお腹の奥が痛んで、わずかに顔を顰める。
「お嬢様、顔色がよろしくありません。お部屋に戻りましょう」
父にひどい言葉を投げかけられたせいで血の気を引かせていると思われているのだろう。本当の弱みを見せるわけにはいかない。イザベラは痛みを押し殺して笑みを作る。大丈夫。寝室まで行けば横になれる。この屋敷で唯一、安心していられる場所。唯一の避難場所。寝台の上。
部屋についても誰もイザベラの不調の原因に気づくことなく、安堵するのと同時にまっさらなシーツの上へと倒れ込んだ。
ここのところ、下腹部がひどく痛むときがあった。医師に診てもらわなければと思っていても、その話が父に伝わるのも、祖父に伝わるのも、恐ろしかった。
しばらく寝ていればそのうち治る。
(大丈夫、これ以上悪くはならない……大丈夫、大丈夫……)
そう自分に言い聞かせて、イザベラは腹を抱えるような姿勢のまま、ぎゅっと目を閉ざした。
痛みが去るよう、祈りながら。