腐った彼女はお嫌いですか?
その日、付き合っていた彼女が死んだ。
突然舞い込んできた訃報に、俺・黒羽根智充は思わず耳を疑った。
えっ、何だって?
信じられない、いや、信じたくないあまり、俺はわざとらしく聞き取れなかったフリをする。
だけどそんなの、所詮はただの時間稼ぎだ。どんなに現実逃避しようと、彼女が死んだという事実は変わらない。
彼女は事故死だったらしい。
ボールを取る為車道に飛び出した子供を助けようとして、自分が命を落としてしまったとか。
身の危険を顧みず誰かを助けようとする精神は、相変わらずだった。彼女のそういう優しいところに、俺は惹かれたんだよなぁ。
でも……死んでしまったら、仕方ないじゃないか。残された俺はどうなるというんだ。
それだけが、最高の彼女に対する唯一の不満だった。
彼女は俺にとって、初めての恋人だった。
デートをしたのも、彼女が初めてだ。キスをしたのも、彼女が初めて。様々な初体験を俺は彼女と一緒に経験した。……そういう「初体験」はまだだったけど。
だから最初の恋人であると同時に、最後の恋人にしたい。そう思えるくらい、俺は彼女が大好きだった。
もう一度だけで良い、彼女と会いたい。そんなことは言わないさ。
俺は欲深い男なんだ。彼女ともう一度会ったりしたら、また何度だって会いたくなってしまう。
なので敢えてこう言おう。俺は彼女を生き返らせたい。
その為ならば、どんなに人道から外れたことだってする。例えば……決して使ってはならないとキツく言われている、禁忌の呪文を唱えたりとか。
俺の婆ちゃんは、その道では知らぬ者のいないくらい優れた呪術師だった。その婆ちゃんから昔教わった禁呪を用いて、俺は彼女を生き返らせようとした。
当然ながら、初めて唱える呪文だ。それに他の呪文とは比べ物にならないくらい成功率は低い。
それでも彼女に会いたいという思いの強さは、他の何にも勝る。愛の力で、俺はとうとう彼女を――野中麗美を生き返らせた。
地面の中から、麗美の右手が飛び出してくる。
右手の次は頭、その次は背中といったように、彼女はゆっくりと地中から這い出てきた。
怖い怖い怖い怖い。どこのホラー映画だよ。
完全に地中から出てきた麗美は、ふらつきながらも俺の目の前まで来ると、バッと顔を上げて、こう言うのだった。
「ばあ」
何それ、めちゃくちゃ可愛いな。
顔の横で両手を開く麗美に、俺のハートは一瞬で射抜かれた。
「麗美……お前に会いたかった」
「うん、私も」
どうやら生き返った麗美は、生前の記憶をそのまま引き継いでいるらしい。
だから会話も成立するし、二人の思い出を共有することだって出来た。
俺は麗美を抱き締める。
全身を麗美と密着させたところで……俺は心底驚いた。
……麗美の体が、冷たかったのだ。
「麗美……お前の体から、体温が感じられないんだが?」
「んー? そりゃあまぁ、私は死体だからね。……いや、動いているから、死体っていうのは少し違うか。一番わかりやすい表現をすると――今の私はゾンビなんだよ」
「ほら」と言いながら、麗美は自身の手首を外して見せる。
麗美は死んでいる為、彼女の手首から血は出ない。当然痛みを感じている様子もなかった。
禁呪によって麗美が生き返ったと思っていたのだが、それは勘違いだったのか?
俺の呪文が失敗したのか、それとも婆ちゃんから教わった呪文がそもそも人を生き返らせるものではなく、ゾンビとして復活させるものだったのか。
真相は闇の中だけど、これからも変わらず麗美の笑顔が見られるのなら、どっちだって良いか。
「麗美。明日は土曜日だし、デートをしよう。近場だと知り合いと会う可能性があるから、ちょっと遠くまで足を伸ばそうか」
「構わないけど、ゾンビの私は日光に弱いから、あまり日の当たらないところが良いな」
「そうなると、屋内施設が最適か。……水族館なんてどうだ? イルカ、好きだっただろ?」
「ついでにアシカとペンギンもね」
そうなると、イルカショーだけでなくアシカショーも催される水族館をピックアップするべきだな。
麗美が死んで、もう永遠に叶わないと思っていた彼女とのデート。それが再び出来るだなんて……今から明日が楽しみで仕方なかった。
◇
翌日。天気は気持ち良いくらいの快晴だった。
冬なので寒さは否めないものの、日向に行けば多少体も温まってくる。
ここ一週間では、絶好のデート日和といえた。
元々俺と麗美は同棲しており、ゾンビとなった今もそれは変わらない。
寧ろ一人暮らしをさせるとなると多くの問題が発生してしまうので、都合が良いといえた。
デートは目的地に着く前から始まっている。それが麗美の口癖で。
今日のデートに着て行く洋服選びから、麗美は楽しそうだった。
「じゃじゃーん! こんな服装、どうかな?」
今の麗美は、暑さや寒さを感じない。勿論それが理由で体調を崩すこともないのだが(だって既に死んでいるんだもの)……いくらなんでも真冬にへそ出し&ショートパンツはないだろう?
周りから「何考えているんだ、こいつ?」と奇異的な視線を向けられるのは確実である。
「どう? 可愛い?」
「可愛い可愛い。だけど見ているこっちが寒くなるから、もうちょっと温かい格好をしてくれれと嬉しいな」
可愛いと言われて満足したのか、麗美は俺の言う通り温かい服装に着替え直した。……露出が減ったのが、少し残念だ。
「それじゃあ、出発しようか」
「うん!」
俺と麗美は手を繋いで、水族館を目指す。
麗美の手の感触は、確かにある。だけど体温がない分、本当にそこに彼女がいるのか不安になってしまって。俺はひたすら彼女に話しかけることで、その存在を証明していた。
土曜日ということもあり、水族館はそれなりに混雑していた。
入場券を買うのに券売機の前で並び、入場するのにまた並ぶ。
このまま入場ゲートで一日を費やしてしまうんじゃないかと、そんなあり得ないことを考え始めてしまう程だった。
しかし混んでいたのも入り口までで、中に入れば来館者が分散されて特に圧迫感を抱くこともなかった。
目玉の巨大水槽の前は流石に人集りが出来ていたけれど、なにぶん近くからでは一望出来ないくらいの大きさなので、そこまで困らない。……あっ、今マンボウと目が合った。
水族館を半分程回ったところで、麗美が楽しみにしていたペンギンの水槽が見えてきた。
「ほら、麗美ご所望のペンギンだぞ? 種類は、えーと……フンボルトペンギンだってよ。……って、おい麗美。どこを見ているんだ?」
ペンギンが見たいと言ったのは麗美だというのに、彼女はペンギンそっちのけで明後日の方向を見ていた。
麗美の視線の先に、海の生き物はいない。いるのは恐らく友達同士であろう少年二人。
麗美は彼らを血走った目で凝視しながら……よだれを垂らしていた。
「ぐふふふ。あの二人って、カップルなのかな?」
……何を言っているんだ、この女は?
確かにあの少年二人はじゃれ合っているが、そのじゃれ合いはカップルというより友達同士のそれだ。
二人とも男ということを考慮すると、真っ先にカップルと思うことはないだろう。
だというのに二人がカップルだともうしてしまうのは……腐女子くらいである。
生前の麗美は、腐女子ではなかった。
俺の知る限り、謂わゆるBL本というやつを持っていなかった筈だ。
つまり麗美は、禁呪によって腐女子になったということか?
「禁呪を使うと、予期せぬ副作用が起こることもある」。そういえば、婆ちゃんがそんなことを言っていたっけ。
ゾンビになる上に、腐女子になること。それこそが、禁呪を使ったことで麗美に生じた副作用だった。
◇
麗美がゾンビとなって、半月が経過した。
心臓が動いていなかったり、体温がないことを除けば、麗美は生前となんら変わらない。
朝俺より早く起床して、朝食の用意をしてくれる。因みに今朝のメニューは納豆だった。ゾンビなだけに。
仕事へ向かう俺を玄関先まで見送りに来て、行ってきますのチューをする。……この光景を近所に住む女児に見られた時は、死にたくなったらしい。悲しいことに、その夢は叶ってしまったわけだけど。
禁呪を用いて麗美を蘇らせたことで、取り戻した俺の日常。以前同様幸せなわけだけど、ただ一つ変わったことといえば――
「ぐへへへへ。男同士で、くんずほぐれつ」
我が家にBL本が、めっちゃ増えたよね。
蘇った麗美は、身も心も腐ってしまっていた。
「お前、ゾンビになってから本当にBLが好きになったよな」
「一度死んで、新たな扉が開けたってところかな? 世の中の男のほとんどは、男と恋に落ちるべきだよ」
この腐女子、趣味嗜好を優先して世界から人間という種を絶滅させる気か?
「……って、世の中の男のほとんど? 全員じゃなくて良いのかよ?」
「全員は困るかな。だって……智充には、ちゃんと私を好きでいて欲しいし」
ゾンビとなった麗美に、体温はない。それなのに彼女の頬がどこか赤く染まっているように見えるのは、俺の気のせいだろうか?
「確かにBLは好きだよ。でもそれ以上に、私は智充のことが大好きなんだ」
ゾンビになって、腐女子になって。それでも麗美は俺のことが一番好きだと言ってくれている。
そしてそれは、俺にとっても言えることで。
麗美への想いが色褪せることなんて、絶対にないのだ。
「麗美……」
「智充……」
麗美はBL本をテーブルに置く。今の彼女の目には、俺しか映っていない。
二人の唇がゆっくり近づいていき、まさに重なり合おうとしたタイミングでーー俺のスマホにメッセージが届いた。
「……ったく。空気読めないのは、どこのどいつだよ?」
急用かもしれないので、俺は渋々スマホの画面を見る。メッセージの送り主は、婆ちゃんだった。
メッセージには、たった一言【どういうことだ?】と書かれているだけで。顔が見えないし声も聞こえないから確かなことは言えないけど、この一言の中に怒気が含まれているように感じた。
「誰から?」
「婆ちゃんから。何か俺に聞きたいみたいなんだけど、その内容が何も書かれていなくて……あっ、今写真が送られてきた」
俺は送られてきた写真を開く。写真を見た俺は……身の毛がよだつ思いに陥った。
写真に写っているのは、腕を組んで歩く俺と麗美の写真。俺と麗美はラブラブカップルなわけだし、それ自体に何の問題もない。
問題があるとしたら、写真の撮られた日時。この写真が撮られた日付はーー昨日になっていた。
【死んだ筈の麗美さんが、どうしてお前と腕を組んで歩いておる? 他人の空似と言っても、通用しないぞ」
畜生。丁度「他人の」まで打ったところで、先に封じられてしまった。
続けて婆ちゃんは、こう送ってくる。
【お主、禁呪を使ったな?】
……どうやら俺が禁忌を冒して麗美を蘇らせたことが、婆ちゃんにバレてしまったようだ。
◇
翌日。俺と麗美は、婆ちゃんに呼び出された。
客間で向き合う俺たちと婆ちゃん。
婆ちゃんは麗美をじっくり観察した後で、大きく溜息を吐いた。
「この術はまだ未完成でな、使えば十中八九ゾンビが誕生してしまう」
「そうだったのか?」
「うむ。人は時の流れに逆らうことが出来ん。そういう意味でも禁術と言われているんじゃが……まったく。本当になんということをしでかしてくれたんだ」
生前の麗美と婆ちゃんの関係は、良好だった。俺も交えて三人で食卓を囲んだ思い出も、一度や二度じゃない。
婆ちゃんは麗美のことを大層気に入っていた。「いつになったら麗美さんは嫁に来るんだ?」と、毎月のように言われていた。
だからこそ、婆ちゃんとしては複雑な心境なのだろう。
麗美とまた会えたことは、純粋に嬉しい。しかしそれが禁術を用いた結果だとしたら、到底看過することは出来ない。
婆ちゃんはやはり、麗美の復活に否定的だった。
「禁術には、それに対抗する術もある。ワシならば、時の流れを正常に戻すことが出来る」
「それは……もう一度麗美を殺すということか?」
「……」
婆ちゃんは答えない。沈黙こそが、答えだった。
「また死ぬなんて嫌だ。もう二度と、離れたくない」。そう言うかのように、麗美は俺の服の袖をギュッと掴む。
「お前の気持ちはわからんでもない。麗美を再び亡き者とするのは、ワシとて本意ではない。じゃが、仕方なかろう? 死した者を蘇らせるなど、人として間違っておる」
「人として、か。なら聞くけど婆ちゃん、人間って何なんだ?」
「何?」
「心臓が動いているから人間なのか? 血が流れているから人間なのか? 体温があるから人間なのか? 違うだろ。誰かを思いやったり、誰かと愛し合ったり。そういうのが人間なんじゃないのかよ? もし違うって言うのならーー人間なんてやめてやる。俺もゾンビになる」
俺にとって大切なのは麗美で、婆ちゃんにとって大切なのは呪術師としての掟だ。だから話し合いが平行線を辿ることは、薄々予感していた。
……用意しておいて正解だったな。
俺は懐に隠し持っていたナイフを取り出すと、自分の喉元に突き刺そうとする。
「待て!」
いち早くそれを止めたのは、麗美ではなく婆ちゃんだった。
「もしお前が死んだなら、ワシはお前を蘇らせる為に禁呪に手を出すじゃろう。ワシにとって麗美さんよりも呪術師の掟の方が大切で、呪術師の掟なんかより孫のお前の方がずっと大切なのだから」
「それと同じだよ。麗美が蘇るなら、呪術師の掟も人間としての道徳もクソ喰らえだ」
「頑固な男じゃ」。そう言う婆ちゃんの表情は、寧ろ穏やかだった。……どうやら、認めてくれたみたいだな。
「そりゃあ、婆ちゃんの孫だからな」
俺は麗美を抱き締める。
突然の抱擁に、麗美は驚いていた。
「え? いきなり何?」
「きちんと温かいなと思って」
「そんな筈ないよ。だって私は、ゾンビなんだもの」
「いいや。温かいよ」
多分麗美の言う通り、体温のない彼女の体が温かい筈なんてない。
麗美と触れ合っているから、ドキドキしてしまって自ずと体温が上がっているだけだ。
だけどそんな理屈はどうでも良い。俺は麗美を愛していて、麗美に愛されていて。だからこうして胸が高鳴っている。
彼女が人間である定義付けなんて、それで十分だろう。
麗美を生き返らせる呪文を、俺は知らない。だけど麗美を幸せにする呪文なら、ずっと前から知っている。
「麗美、愛してる」
腐った彼女はお嫌いですか? いいや、世界で一番大好きだ。