発火
ゆるやかな下り坂の途中、男はポケットから和紙を取り出しザラつく表面を撫でる。
「カサリカサリ」
和紙をくしゃくしゃに丸めていき、そして燃やしてみる。
3グラムの興奮と驚きは重圧から解放してくれた。
リビングを母親の部屋に変えたのか、母親の部屋をリビングに変えたのか、
あるいはそんな部屋最初から存在していないのか。
布団から抜け出して居間にやってくると、
革張りソファに座り、しばらくして横になった。
ぼうっと呆けていると春は無人の居間に抱きすくめられた。
左手はぶらんと空中に垂らされ、両足は折り畳まれ、膝頭はお腹辺りまできた。
一体、何があったのだろう。
「悪い子」春は呟いた。
パパは嘘吐きの名人だけどママの居場所を知らないのは本当みたいだ、
それはなんとなく分かる。
けれども春には把握できないことや分からないことだらけのこと、
まだそんなことはたくさんあって、
こういった悩みは日を追うごとに増えている。
「カサリカサリ」
春は吊り下げ灯を見上げた。吊り下げ灯は明かりなく消えていた。
「カサリカサリ」
夢中になってしまい、陽が昇るまで春は居間の吊り下げ灯の空間が出す音を聞いた。
この音が自分をどこかに連れ去っていきそうだ、と春はおもしろく空想した。
「ただいま」
散歩から帰ると春はもう起きていた。
「早起きだね」
「眼が覚めちゃった」
「二度寝すればいいよ」靴をゆっくり脱ぐ。
玄関に腰を下ろし振り返る。
黄色い大きめサイズのパジャマを着て、娘とパジャマはカサリカサリとお互いの肌を触れさせ合い、そして背伸びしたり軽快な動作で手足を伸縮させておどけていた。
屈託のない笑顔。
「腹が減った」お互い笑いながらリビングに向かう。
二人暮しの生活。
「パパの料理は美味しい」という。
見栄えの悪い不器用な形の野菜が入った料理。
男は苦笑いするとスープをすすった。
妻が不義を犯してつくった春は可愛かった。誰に会ったってそう言える!
子供をつくれない体質。
産まれたのはそのおかげ、というのは随分皮肉だ。
冬の寒い日、眞子は春を抱いて戻って来た。パパを喜ばせた春。
眞子の役割は終わった。
煙草を燻らせながら、寂しそうに、夜中一人で眞子がうな垂れているとき、
春のパパは声をかけなかった。
その横を忍び足で通り過ぎ、春の寝顔を見守る。
血の繋がっていない娘に火を見せて、
揺れる瞳を眺めるのが男の唯一の幸せだった。
眞子は悪い女だ。そう言った近所の人間達。
不倫相手の男をとっかえひっかえする悪い妻に耐える家庭を愛する健気な夫。
「あんなに良いご主人」の噂話。
シビックを洗車しながら我が家を仰ぎ見て、こんな愉快な家はない、と思った。
ローン返済済みの固定資産税付きの家。
家の窓や扉から春がでてこなければ、こんな家燃やしてしまっただろう。
かつて眞子もこの家から顔を出した。
何時だったか眞子は窓から身を乗り出すと、こちらを幸福そうに眺めてパパと呼んだ。
黄色いエプロンを身に着けて笑いながら春を抱いていた。
男をつくったよ。パパのために、子供をつくれないパパ。
眞子も泣くときはある。それはパパが「子供をつくってくれ」と頼んだ時だった。
何度も何度も頼んだ後、やがて眞子は妊娠して帰って来た。
男も眞子も春を待ってた、歓喜で震えた二人。
パパは眞子を失望させたんだ。眞子は春と一緒に愛されると考えてた。
それは現実じゃなかった。眞子は愛されなかった。
でも眞子はパパが特異な体質なのを知っていて、それでも愛してくれたのに。
愛していたんだけど眞子は春を抱かなくなった。
ある日、眞子は消えてしまう。その前に夫婦は話し合った。
パパはママを引き止めるべきだった?
「愛してる」と言えば、それが本当になることを眞子は信じたかもしれない。
雨上がり、塵や埃の落ちた庭木。
眞子は立ち止まって門に手を置き何かを待っていた。
どうしてか妻が前後に揺す振る門の音はカサリカサリと聞こえた。
男は子供の頃を思い出していた。
本宅の側にある離れに祖母と寝泊りしていた頃。
幼児期はまだうまく発火をコントロールできないので、
代々、男の血筋の人間は発火を思い通りに操れるようになるまで
離れに住むことになっていた。
寝込んだある日、祖母に顔を叩かれ強引に起こされる。
祖母に抱かれて目を覚ますと、物を焼いた時のあの臭いが部屋に充満していた。
知らず知らずのうちの全身発火。
放っておけば自分自身も焼いてしまっていた、
と祖母は驚く男の頭や背中を優しく撫でながら言って聞かせた。
大人でも寝たまま死ぬことがある、本当に気をつけなければいけない。
ケラケラ、こんなことなどはたいしたことでもない、
そんな風に祖母は笑い飛ばしてみせた。
安心させたいのか怯えさせたいのかわからないような、
老人特有の死の迎え方、あの死を笑いにしてしまう逞しい感覚。
それは無知のままの男をなんとはなしに勇気づけた。
離れから本宅に移ってからすぐのこと、
祖母は布団のなかで焼け死んだ。
発火は祖母の細く痩せた脂肪のない肉体でも見逃さなかったらしい。
最初に祖母の死を発見した男は、悲しく、
それでも笑い、微笑しながら祖母の死体を眺めやった。
まじまじと燃焼した枯れ枝を観察しているうちに「ああ、こんなふうになるのか」と
何か感慨深いものがこみ上げてきた。
それは後に自動車組み立て工場を見学したときの、あの単純な感心に似通ったもので、
いつも家族を乗せて走る「こいつ」はこんな仕組みだったのか、と驚嘆するような。
製造から実用されて廃棄されるまでの一繋がりの工程。
何かの一部を見せて全体像を予測させるなぞなぞを見事解いたときの満足感。
そういう実感が湧いた次の瞬間、
この仕掛けは感動よりも一段と強い恐怖を男の体に織り込んだ。
右手で祖母の身体に触れると耳になにか乾いたものが聞こえてきた。
急にその場に居るのが怖くなり、男は離れの窓を開け放ち、
本宅に駆け戻って祖母の死を家族に知らせた。
「火が出てる」
「得意技なんだぞ、これ」
火が現れると男の掌の上で踊る。
自然発火により出現した火は春の眼前で息づいた。
「すごい!」
レースカーテンを閉じたままの部屋。
目の荒いレースから漏れ出る光は遮光しきれず居間を泳ぐ。
「新聞燃やしたい!」
「ダメだよ」
「つまんない」
春は騒音の化身となって2階へ駆け昇る。
「怪我するよ!」
なんて元気なんだろう! 男は自然に笑みがこぼれてしまう。
しばらくすると騒音が降りてくる。
描きかけのラクガキ、紙とクレヨンで武装する春。
「何が描けたんだい?」
「パパ!」
おいおい頭がやけに大きいじゃないか。これは抗議しなきゃな。
「もういっかい」
電話が鳴った。誰にも頼まれないのに春は電話を取る為に飛び出した。
知らない誰かと話すのが楽しくて仕方がない時分だ。
男は呼ばれるのを待っていた。
いつまでたっても呼ばれない。立ち上がって移動しようとする。
春が戻ってきた。
「ママ帰ってくるって!」
眞子に抱き上げられる春。
春は眞子の鎖骨や首筋に頬を押し当てている。半年ぶりの再会だった。
眞子は帰ってきた。
「ママ」と泣きながら不明瞭に喋る。
春が寝静まった後。
「ただいま、なんて言えない」
「そうか」
眞子は少し太ったようだ。
「心配しなくてもすぐ帰るわ」
「助かる、いや、その、すまない」
「可愛くなったわね春」
「ああ」
それは当たり前のことで今更言うような事ではない。
眞子は一寸躊躇った後「自分の娘でもないのに?」と訊ねた。
「関係ない、そんなことは」荒い声。
「でしょうね」
皮肉を隠して納得した振りをする。
眞子は何のために来たのだろうか。金策でもしたいのか。
「血が繋がってないのはあなたの方なんだけど、春に会われるのが嫌?」
沈黙が過ぎる。
「君には謝らなきゃいけない、と思ってた」
「どうでもいいわ。やめましょ、終わったこと。たまに春に会えればそれでいいし」
離婚届がテーブルの上に広げられた。
「やっと決心が着いたから、私のね。あなたはとっくに決めてたでしょうけど」
「君が出て行くのを見てたよ」
「そう」
見てなかったと思ったけど見てたのね、という表情。
「こっそり出て行ったつもりなのに」
「分かってくれ」
軽蔑した目で睨まれると男はすぐに視線を逸らした。
「何を?」
視線を戻してもう一度お互いを見つめ合う。両肘をついて二の腕をさすりながらテーブルを凝視する。
「いつ死ぬかわからないんだ、これのせいで」
人差し指からの発火。
「苦しんできたんだ、ずっと。寝て起きる前に、
コントロールしきれないほどの発火が発生して、
黒く焼け焦げ、もしかすると、
躯の一部だけゴロンと残したまま死んでるんじゃないかって」
静かに観察される男。
「どうにもならない。こういった体質を持つ血筋なんだから。
何時それが起きるか特定できないし分からない。
曾爺さんは起きてるとき灰になったらしいが、だが大抵は寝てるときだ。
君にも話したが、俺の母親も祖母も布団の中で灰になった。
余程の燃焼温度じゃなければ俺は火なんて何も怖くない。
しかし寝てるときだけはどうにもならずに、何かのキッカケで自然発火とくる。
めでたく不明の焼死事件になる。もうたくさんなんだ!
これで終わりだ、俺の血縁は。春にこんな苦しみを持たせられるか?」
「そうね」
むかし「おまえに何がわかるんだ?」と罵ったことを思い出す。
いま、またそれを言いそうになる。
眞子もまた何か言いたげな顔で黙っていた。
妻の無言の反抗に気づくと、男は面倒臭そうな顔を浮かべて視線を逸らし、
二度と戻さなかった。
なろうと思えば理想の家族になれるのか。
家族はテーマパークの出し物の海賊ショーを楽しんでいる。
大きなプールに沈んだ船。水面から顔を出す岩。
本物そっくりに反復運動する波。夜空を一瞬照らす爆発。
閃光のなかに浮かび上がる役者の影。
よく知られた信じられないショー。
交差する照明は多様な色彩で夜を幻想的に仕上げていて、
人の中に眠る冒険心を脳の奥底から引き出すような音楽が流された。
徐々に、名前も知らない脳内物質が放出されていき、
血液中を駆け巡っていることだろう。
足元は暗くて、たまの照明と花火の助けを借りなけれればちっとも見えてこない。
闇の中に無数の家族が潜んでいて幸せそうにしている。
男と春と眞子はその家族を構成する重要な一員に組み入れられた。
春の思い切ったおねだりは大成功だった。
楽しかった家族皆のお出かけを覚えている、昔に戻りたい春。
それはよくわかった。手に取るようにわかる。男にとって春は宝物だから。
誰でもそうだ。春を挟んで座る両親、
ずっと春が大好きな両親の手を握ったままでいられるように無言の内に配置が決まる。
朝、男と春はテーマパークで眞子と待ち合わせた。
眞子は銀行で野暮用を片付けてから二人と合流した。
開園から遊びっぱなし、たくさんの乗り物を制覇し続けた。
園内での食事。どこにいても始終聞こえてくる歓声と悲鳴。
暗闇に顔だけを浮かばせている。そんな風に見える春と眞子を間近に感じながら、
男は過去を振り返っていた。様々なアクション。
ワイヤーロープ、バク転、華麗な乱闘、剣術、鉄砲、緻密に計算されたスタント。
水のなかでドラマが不器用に再演され落ちていく中で。
恋人時代の幸福な日々。深刻な問題を境界線の向こう側に、
一歩分だけ置き去りにして過ごしていた。
飾り立てた行事を真剣に楽しんだ日。
海賊船の船長は会場を注目させた。高笑いしながら敵と互角に渡り合う悪漢。
目的の為には手段を選ばない狡猾なやり手。
だが船長の溜め込んだ財宝は奪われ、隠され、貯め込まれ、
使われずに終わり腐り果てる。
劇がクライマックスを迎える頃。男は変身する。
愛される夫。それだけでは足りない。大丈夫だ。眞子のことはよく知ってる。
本当に何もかも。妻は愛されるべきだ。しかしそうしてこなかった。
結婚してから、そんなものは飼い殺しにされていた。
いつのまにか春のことも飼い殺しにしてしまっていたに違いない。
不幸な環境に陥り、母親の居なくなった理由を正直に教えてもらえず。
ただ戸惑うだけだった春。パパと二人。きっとパパの居ない所で泣いていたに違いない。
ようやく気づけた。春は寂しかった。パパが居るから寂しくないとか、それはただの嘘だった。半分だけ正しい嘘だ。欠けている分はママの分だ。
家族は完成されなければいけない。
海賊船を後にして、家族は歩いていた。
春は大喜びで懸命にいまさっきの素晴らしい出来事についての感想を喋りたてた。
これは本当の笑顔だ。三人の笑顔。男は春の為に決めた。
家庭を支え直しやりなおす覚悟を。春も眞子もきっと決めてくれるだろう。
背後で打ちあがる遊園地の花火は別世界の景色のように光だけが動く。
「パパは捕まった海賊よ! ママ手伝って」
「乱暴なのは嫌よ」
春と眞子はクスクス笑いながら海賊になったパパを縛る。
眞子は縄に見立てた布を軽くグルグル巻いた。
パパが動けるのを見てご機嫌斜め。
「ダメー! もっと縛らないと」
何度も何度も、軽い、まだ、軽い、春は王女様みたいに命令した。
「口も? ダメよ。パパが苦しんじゃうわよ」
「だって口もしないとらしくないわ」
なんて素敵な我がままなんだろう? 娘の拗ねたような声に感動を覚える。
「ああ、やってくれ! 悪い海賊だからね」
「知らないわよ」
春とパパの催促に負けて困惑気味の声があがる。
「目隠し、猿ぐつわ、足を拘束、腕を縛れ! まだ足りない?
もういっちょカーテンでも剥いでふんじばるか!」
男は興奮気味にまるで歌でも歌うように海賊遊びを牽引する。
頭の中、脳裏に黄色い家族の映像が流れる。
家族は戻ってきた。春は喜んでる。
春の為だけではないパパのためにも家族は必要なのかもしれない。
背中に圧し掛かってきて、パパに抱きついて勝どきをあげる春。
少し離れた所から私の楽しそうな笑い声が聞こえる。
幸せな家庭。少しずつ、何かやり直せないのか。一昨日、離婚届を書いて判子も押してしまった。いや結婚関係なんていつでもくっついたり離れたりできる。夫婦である必要はゆっくり考えればいい。
皆が幸せになれる、妥協できる場所があるんじゃないか。
そんな所があるかもしれない。
「キャー!」
「なんてじゃじゃ馬だ! 水をかけられた。やったな春! 凄い悪戯だ!」
リビングが台無し、と叫ぶこともできないような笑いが吹き出てきた。
男の笑い声は猿ぐつわのせいで歪に聞こえる。
芋虫みたいに体をよじる。それでやっと。
「畜生、水攻撃を甘んじて受けるしかないな!」
キャッキャッ、と春の声が広がり、水攻めはまだまだ止む気配すらない。
私の笑い声も一際大きくなってきた。
「キャー!」
「二人とも同時に歓声をあげてるな。ああ、道化もいいものだ。水が布を浸食し眼や鼻に染みるよ」
ドンドンと春は力いっぱい飛び跳ねた。鈍い音、床が随分揺れてる。
3千グラムは大きく成長していた。家は地震に支配されたみたいだ!
「しかし、やけに水が染みて苦しいぞ。それにどこかで嗅いだような臭いが漂ってる」
「キャー!」
もう堪らないというような笑い声が一つ。
「今のはなんだ?」
さらに鼻にツンとしたキツイ臭いが届いてくる。
「狂った恐竜のように暴れてるのは、春か? 抱きつかれたぞ、春?」
滅茶苦茶に踊り壊れる肢体。
何かのネジや関節が軋むような音。
熱風が強引に咽と気管をこじ開けてくるので春は苦しんだ。
「おい! この縄を解け! 解いてくれ! 頼む!」
悲鳴と笑い。居間は炎上して、火は伸びて天井まで届き、
黒い煙や灰色の煙の生地が伸びると同時に陰は広がっていく。
彼は猿ぐつわに邪魔されながら必死に声を飛ばす。
眞子は、何故、春は家族と血が繋がっていないのだろう、とカサリカサリと言う。
男はどこかで焼かれて転げまわっている春を捜し求め、彼女の目の前で火傷すら負わない体を方々に投げ出している。