小さな亀裂
ふと壁に掛けられた時計を見、景雪は「ああ」と声を上げた。
「すみません。貴重な練習時間だったのに、中断させてしまって」
「いえいえ、今日はそろそろ引き上げる頃でしたので、お気遣いなく」
景雪は舞台上で颯汰に支えられている小羽にチラリと視線を送ると、団長に向き直って一礼し、今日のところはお暇させてもらいますと告げた。
「えぇーっ、もう帰っちゃうんですかぁ? じゃあ……」
「本番も楽しみにしています。ご成功をお祈りしていますよ」
梨々香がなにか言いかけたのを遮り、景雪は団長に微笑を向けて一礼した。
「ありがとうございます」
「では」
景雪が劇場を去ると、梨々香はスッと笑顔を消して舞台に上がり、小羽の正面に立った。
「ホントなら梨々香がヒロインだったのに……団長の娘ってだけでヒロインになれただけのくせに図々しいのよ。皆だって、贔屓されてるのウザいって思ってるんだから」
憎しみのこもった目で睨みながらそう吐き捨てると、小羽を力一杯むしり取る勢いで押しのけ、颯汰とのあいだを大股で抜けて、舞台袖へと消えて行った。残された団員たちは梨々香の後ろ姿が見えなくなったのを確かめてから、潜めた声で話し始める。
「よく言うよ。援交やらかして降ろされただけのくせに」
「あれだけ和を乱しておいて、除名されないだけ感謝してほしいくらいなのに……」
「小羽が大根なら、うちに演技出来る人間はいないっつーの」
梨々香の態度と団員たちの様子を見て、団長は難しい顔をして暫し考え込んだ。問題を起こした団員は、その内容によっては即除名も有り得る。以前小羽をストーキングした男性団員のように、直接実害を被る場合は謹慎なしで除名される。
だが梨々香は一度援助交際をしただけ。しかも彼女は未成年ではない。二十八歳だ。成人女性が異性とどんな付き合いをしようと勝手だと言われれば、なにも言い返せない。相手男性が訴えでもしない限りは、個人の付き合いを劇団全体の問題にすることは出来ないのだ。
ヒロイン役を降ろした理由は、万一子供やその親に目撃された場合、ヒロインのイメージを崩す恐れがあるためだ。この劇団の主な客層は子供とその親である。幼児向け番組のお姉さんほどではないにしても、それなりに外での過ごし方にも注意が必要になる。
団長は切り替えるために一度手を叩くと、皆の視線と意識を集めた。
「さあ、今日は解散としようか。次から通しに入るから、そのつもりで」
「はい」
バラバラと、団員たちが袖へ散っていく。颯汰も小羽に一言「また明日な」と言ってから楽屋に下がっていった。
「小羽。私たちも戻りましょう」
「……うん」
楽屋の前まで来ると、丁度梨々香が帰るところだった。梨々香は、肩にかけた大きな鞄が小羽に当たるようわざと大袈裟に振り返る仕草をし、蹌踉めいた小羽を横目に口元を笑みの形に歪めた。
セミロングの黒髪を自慢げにかき上げ、付け睫毛で飾った目で睨み付ける。格好だけなら清純派アイドル風なのだが、意地の悪い表情がそれを台無しにしていた。
「あ、ごめーん。存在感ないから気付かなかったぁ」
そして嘲笑を隠しもせずにそう言うと、足早に劇団をあとにした。