世界を紡ぐ
次の土曜日。紗夜は小羽が所属する劇団星湖座を訪ねた。
劇場は立派だが、劇団の規模自体はミュージカルなどを演じるには人数が足りない、子供向けのお伽噺が精々なところだった。大道具や小道具なども団員たちが手分けして作製しており、書割を作れる専門の裏方は一人しかいないという。
練習用の部屋は四方の壁の一面が鏡になっていて、バーが取り付けられている。此処はバレエの教室ではないが、演目によってはダンスを踊ることもあり、柔軟や姿勢の確認などに使うらしい。
「団長さん、今日は見学を許可してくださり、ありがとうございます」
「此方こそ。興味を持ってもらえてうれしいよ」
紗夜は壁際に置かれたパイプ椅子に腰掛け、シーン練習を見せてもらうこととなった。
小羽はヘンゼルとグレーテルのグレーテル役で、シーンは森に捨てられたところのようだ。部屋中央にヘンゼル役の少年と座り込み、準備が整う。
団長がシーン名を宣言し、一つ高く手を叩いた。そのときだった。
「お兄ちゃん……わたし、こわい。もうおうちにはかえれないの?」
小羽が――――グレーテルがヘンゼルに縋り付いて、震える声で不安を口にした。演技としてはただそれだけだというのに、その瞬間、明るいはずの練習部屋が暗闇の森に変じたように感じた。古いラジカセから聞こえる鳥の声と木々のざわめき。動物がどこかでパキリと枝を踏んだ音に体を強ばらせ、グレーテルは涙を見せまいと俯いた。
其処で、ヘンゼルの目つきが不安げなものから、妹を守ろうとする兄のものへと変わる。
「大丈夫。僕が絶対にグレーテルを守るから。一緒に帰ろう」
「でも、どうやって? お父さんはかえっちゃったわ。きっと、おむかえにだってきてくれない」
「ここにくるまでの道に、白い小石を落としてきたんだ。それをたどれば帰れるはずだよ。さあ、行こう。帰ろう。僕たちの家へ」
手を取り合って立ち上がり、白い小石を辿って行く。グレーテルが「あっ」と声を上げた。森の出口が見えたのだ。グレーテルの瞳は、暗闇の中に灯る橙の光を見つめている。
一気に表情を輝かせ、兄妹は森の外へと駆けていく。其処で、シーンは途切れた。
「……すごいわ」
思わず漏れた呟きは、心からの感嘆だった。
幼心にもわかる、小羽の才能。彼女は演じるために生まれてきたような子だ。切り替えと同時に世界を作る。観客にも、演者にも、彼女が見ている世界を見せる。その影響力の副作用だろうか。先のヘンゼル役の少年は、練習が終わってからも兄のように振る舞い、小羽の世話を焼いている。他の団員も、彼らを本当の兄妹を見守る眼差しで見つめている。
兄妹ならまだ微笑ましいが、これから成長するにつれて役柄も変わっていくことだろう。例えば恋人、ライバル、仇敵。そういった役を演じたとき、相手は世界に飲まれずにいられるだろうか。
「どうだったかな、うちの劇団は」
隣に団長が立ち、紗夜に訊ねる。紗夜は半ば反射的に、こう言った。
「私も、此処に所属させて頂けませんか?」
小羽の作る世界を誰よりも間近でたくさん見られるのは、出資者でも常連客などでもない。同じ舞台に立つ演者だ。




