守られた記憶
ランチボックスが空になってからも、二人は食休みも兼ねて、木陰でゆったりと過ごしていた。秋の穏やかな光に照らされた芝生は青々と茂っていて、爽やかな風を受けて静かにそよいでいる。
小羽が一面に広がる芝生広場を見るともなく眺めていると、ふと視線を感じて隣を見た。
「日月さん……?」
見れば雪男は広場ではなく、小羽を見つめていた。目元は見えないはずなのに、真っ直ぐ視線が注がれているのを感じる。不思議に思っていると、雪男の手が小羽の手をそっと握った。
「……もし、良ければですが……」
「……? はい……」
形の良い、大きくて指の長い手が、小羽の小さな手を包む。大人と子供ほどのサイズ差があり、小羽の手はすっぽりと覆われて見えなくなった。
「名前で、呼んで頂けませんか……?」
いったいなにを言われるのだろうかと緊張しながら待っていた小羽の耳に飛び込んできたのは、そんなささやかな願いだった。
「……雪男、さん……?」
「はい」
怖ず怖ずと名前を呼び、表情を窺う。
口元しか見えない雪男の顔だが、それでもうれしそうに綻んだのがわかった。
「……意外と、うれしいものですね」
「でしたらこれからは、雪男さんとお呼びしますね」
「ええ、是非」
呼び方が変わっただけなのに不思議と距離が一歩縮まった気がして、小羽は胸が温かくなるのを感じた。
はにかみながらしあわせな気持ちを噛みしめていると、不意に力強く肩を引き寄せられた。
「危ない!」
すぐ頭上で、雪男の叫ぶ声となにかがぶつかる音がして、体を強ばらせる。なにが起きたのかと反射的に閉じてしまっていた目を怖々開けると、視界の端にサッカーボールが落ちるのが見えた。
「ボール……?」
何故こんなところにサッカーボールが、という小羽の疑問は、すぐ飛び込んできた「すみませんでした!」という男の子たちの声で判明する。依然肩を抱かれたまま視線を声のほうに向ければ、小学校中学年くらいの少年が三人、並んで頭を下げているのが見えた。
「これは、あなたたちの……?」
「はい……ふざけてたら飛んで行っちゃって……」
「お姉さん、けがはしてないですか……?」
「え……ええ、わたしは大丈夫だけど……」
視線を雪男に向けるが、相変わらずその表情は読めない。ぶつかる音がしたのに、小羽には何の衝撃も来なかったということは雪男が受け止めたかぶつかったかしたはず。
「……私も、大丈夫です。が、飛んでいった先にもっと小さい子がいたら、怪我ではすまなかったでしょうね」
「ごめんなさい……」
「もう人のいるところでふざけたりしません……」
すっかり落ち込んでしまっている子供たちに、雪男はサッカーボールを手で押して転がした。
「行きなさい」
「はいっ、すみませんでした!」
最後にもう一度お辞儀をすると、少年たちはボールを抱えて走り去っていった。
「………………」
遠ざかる背を見送る小羽の脳裏に、ある光景が蘇っていた。
頭に響いた衝撃音と、逃げるようにして遠ざかっていく足音。それから……大きな腕に抱かれたぬくもりの記憶。落ちていく意識の淵に残されたのは、手がかりというにはあまりにも頼りない、たった一言だけ。
ドキドキとうるさい心臓の音すらも遠く感じるほど、小羽は暫し呆然と固まっていた。