一方──881プロでは。
【アポカリプス】がPV撮影の為にハワイに向かい、メンバーの1人である九頭竜倫人が謎の美女のおっぱいを揉んでしまっている頃。時差の関係で19時間ほど時間が進んで3月9日の朝方……ビルの1室にて、1人の男の憂鬱な1日が幕を開ける。
「……あぁ……ヤバいヤバいヤバい……今日が始まってしまった……!」
年季の入ったソファから身体を起こすや否や、男はガタガタと震え出す。それは部屋の寒さもあったが、別の理由の方だ。
男はヤバいを連呼しながらも、日常的な雑務をこなしていく。換気や部屋の片付けをしたり、眠気覚ましのコーヒーを準備したりなど。
特に、掃除は入念に行った。元から綺麗好きな性格ということもあるが、それ以上にこれから来るであろう所属タレント達の為に。
「……ふぅ。やっぱり朝一番のコーヒーは美味しいなぁ」
部屋の浄化を一通り終え、一服のコーヒーに舌鼓を打ちながら男──矢場井雄和太はようやく安堵のひとときを満喫する。
20代前半にして都内某所に本社ビルを構える881プロの社長であり、そのルックスも控えめに言っても2枚目、コーヒーを飲む姿がカッコいいと専らの評判だ……もしも、女性社員がいたのなら。
「あぁ……いつかはちゃんと淹れたコーヒーを飲んでみたいなぁ……っていうか……ちゃんとしたビル……持ちたいなぁ……」
そんな愚痴がふと口から零れる。缶コーヒーを見つめる目には虚しさが漂っていた。
都内某所には確かに本社ビルがある。だが……それは雑居ビルのほんの一部屋のスペースを賃貸しているだけに過ぎないものだった。事務所兼所属タレントの休憩所兼社長室という、芸能事務所としては異例のスタイルを取らざるを得ない881プロは──つまりはド貧乏だった。
「はぁ……やっぱり実績もなくて若輩者の僕に……芸能事務所なんて無理だったのかなぁ……」
深々と溜息をつき、お馴染みのネガティブモードに突入する矢場井。そんな弱音を聞いて励ましてくれる誰かがいればまだ良かったが、コーヒーメーカーを買えないように従業員を雇う金は無かった。
実績なし、人手なし、そして金もなし。ないない尽くしの崖っぷち零細芸能事務所……それこそが881プロの実態だ。一般人は知る由もないが、芸能関係の仕事に従事している者の間では、その弱小っぷりから逆に有名なくらいだった。
「いや……僕の悪い癖だな。今日はあの2人も来るし、ネガティブ発言は控えとこうっと……」
何とか自分で自分に喝を入れると、ゆっくりと腰を上げる矢場井。そこでふと新聞を取り損ねていたことを思い出し、事務所の出入り口ドアにのろのろと向かって行く。すると──
「ふげっ!?」
突如扉がひとりでに動き、顔面を強打。呻き声を上げて鼻を押さえる。鼻血が出て来てしまっていた。
「おっはよーーーっ!! 今日も来たよしゃちょーーーっ……って、何してんの?」
「おはようございます……。あれ? どうしたんですか社長?」
じーんとした鼻の痛みに苦しむ中で2つの声が聞こえてくる。明るく元気に溢れるものと、優しく思いやりに溢れるものの2つが。
その2つの声に矢場井は痛みを我慢しつつ、何とか顔を上げて挨拶をした。
「お、おはよう……。甘粕清蘭さん、能登鷹音唯瑠さん……」
「なるほど……鼻を打ってしまったんですね」
「あっははー何やってんの! 朝からドジだなぁしゃちょーは!」
「いやはは……情けない所を見せたね」
先ほどまで自分が眠っていたソファに清蘭と音唯瑠を座らせ、自身はお茶を用意する矢場井。なお先ほど勝手に動いたドアの原因は清蘭だったのだが、遠慮しがちな性格の矢場井は敢えて言及はしなかったのだった。
「……改めてありがとう、甘粕さん、能登鷹さん」
「ん? どしたの急に?」
「どうしたんですか、社長?」
湯気の立つお茶の入ったコップを置くとおもむろに感謝の言葉を述べる矢場井に2人は疑問符を浮かべる。そんな2人に矢場井は笑顔のまま続けた。
「もちろん【第1回フラッピングコンテスト】のことだよ。甘粕さんは10位入賞だったよね」
「でしょでしょー! もっともっと感謝してくれても良いのよー?」
「あはは……本当にありがとう。甘粕さんはウチに所属してくれたタレントさん1人目だけど、やっぱり俺の見込んだ通りのポテンシャルの持ち主だったよ。それから……能登鷹さんにも、感謝しかないよ」
「私……ですか?」
「能登鷹さんはあのコンテストで優勝して、一躍有名人になった。だけど、数々の大手事務所の誘いを蹴って、881プロに来てくれたからね。こんな凄い可能性を秘めた2人に来て貰えて僕は……僕は……うぅ……!」
「しゃ、社長!? なっ、泣かないでください!」
「あはははなんで泣いてるのしゃちょーってば! おっかしー!!」
おろおろと音唯瑠は狼狽え、げらげらと清蘭は笑う。その2人に囲まれて、矢場井はずっと涙を流していた。
事務所を立ち上げてから2年が経ち、所属タレントが0人のままただただ時間が流れていった。その期間に染みついてしまったネガティブ癖は簡単には治ることはない。
だが……甘粕清蘭に能登鷹音唯瑠、2つの希望が傍にいる今。2人の前では──決してネガティブな面は見せない。それが矢場井の社長としてのプライドだった。
「今日……来て貰ったのには理由があるんだ」
涙を拭うと声色を変えて、矢場井は2人に真剣な顔を見せる。普段は小馬鹿にしたような態度で接する清蘭も思わず黙り込む程の気迫だった。
「僕はこれまで、2人を今後どういった方向性で芸能界の舞台に立たせるか、考えて来た。2人はお互いが強烈な"個性"を持っていて、それぞれがソロ活動をしても十分やっていけると思う」
「おぉー! やっぱ見る目あるわねしゃちょーっ!」
「それじゃあ、やっぱり私は歌手で、甘粕さんはアイドルという感じになるのでしょうか?」
「そうだね。そうするのが良いって僕も思ったんだ。……でも、それはあくまでもベターの範囲に収まる話だよ」
「ベターの……」
「範囲……?」
「そう……。売れる。その確信はある……。でも、最初にここに入った時に聞かせてくれた、君達の目標、それが何だったか忘れた訳じゃないだろう?」
矢場井の言葉に、清蘭と音唯瑠は同時にハッとする。
お互いに顔を合わせ、またも同時に笑顔を浮かべると……矢場井に向かって、揺るぎない瞳で答えた。
「もちろん──"日本一のアイドル"九頭竜倫人を超えることよ!!」「もちろん──"日本一のアイドル"九頭竜倫人さんを超えることです!!」
三度目の同時も2人は息ぴったりだった。
口にしたのは芸能界の中で燦然と輝く圧倒的な存在の名前。さらにはそれを超えるという、関係者からすれば限りなく、いや間違いなく不可能だと思われる答え。だがそれを2人は、何の臆面もなく疑いもなく言い切ったのだ。普段から勝気で向こう見ずな清蘭は元より、穏やかで謙虚な性格の音唯瑠までもが。
「……そうだよね。うん、良かった。目標は変わってないままで」
2人の決意を再確認し、矢場井は嗤わなかったが笑っていた。無理だ、諦めろと周囲の賢い大人達のように諭すのではなく。何でも出来る、諦めてたまるか、と叫ぶ馬鹿な子ども達のように、同じ目線に立っていた。
それでも、前者の目線も当然持っており、冷静に矢場井は話した。
「だけど、相手はあの九頭竜倫人だ。このまま2人ががむしゃらに、本気で突っ走って、それでやっとその背中が見えてくるぐらいの凄い人だよ」
「そんなの分かってるってば!」
「それでも、私は……いや私達は、彼を超えたいんです!」
「2人の気持ちは分かってるよ、落ち着いて。今の2人と九頭竜倫人との距離は、途方もないくらいに遠い……だけど、それを一気に詰められる方法が、1つだけある」
矢場井がもし2人にはないアドバンテージがあるとすれば……、根拠のない自信に1つの可能性を提案出来ることだった。
「彼はたった1人でも凄いアイドルだ。でも、彼は【アポカリプス】の九頭竜倫人として、自身の輝きを最大にしている。それだったらこっちも──グループを組もう。【アポカリプス】に、九頭竜倫人に負けないくらいの個性を持った5人で」




