九頭竜倫人、芸能界引退します。
3月8日。
旧暦では弥生と呼ばれるこの月。その由来は気候が暖かくなり草木がいよいよ生い茂ることからとされているが、ここ近年はそんな名前がつけられていたのかすら怪しいくらい寒い。4月になってようやく暖かいと感じるのが、ここ近年の日本の気候だろう。なんもかんも地球温暖化が悪い。たぶん。
「暑いな……」
しかし、そう考えていたはずの俺の口からは、全く真逆の感想が漏れ出ていた。
暑いと言いまくって気持ち的に寒さに耐える……訳ではなく、本当にマジで暑いのだ。
その理由は俺が今いる場所。目の前に広がる砂浜と海と、そして水着姿の多くの人々がいる場所。
──端的に言うと、俺はハワイにいた。年間平均気温は24℃~30℃を記録し、芸能人やセレブのリゾート地としてもお馴染みの、あのハワイにだ。
海辺のドレスコードを守り、水着一枚となった俺。しかし、容赦無く降り注ぐ日光の強さには日本とのギャップもあり、灼熱のように感じてしまう。
その最中で──
「やったぁー! 遊ぶぞぉーーーっ!!」
「ってコラァShinGenッ!! 準備運動もせずにはしゃごうとすんじゃねェ!! 怪我すんぞオラァァァ!!」
「イアラ君の言う通り、遊ぶにしても準備運動は入念にですね」
「そうだな。一応撮影は終わったとは言え、怪我をする訳にはいかないもんな」
背後から聞き馴染みのある声が聞こえてくる。
愛すべき俺の仲間達──【アポカリプス】の皆だ。
普段は学校生活があり、5人全員が集まる時は仕事の場合のみという俺達がハワイにいるのは、新曲【C.C.C.】のPV撮影の為だ。2月はダンスの練習とレコーディングにそれぞれ充て、残った最後のPVをここハワイで行うことになったのは、やはり俺達の総合マネージャー支倉さんのせいであった。全くあの人の急な予定変更には疲れさせられる……まぁ今回もあの人なりに"ビビっと"来たらしいので、恐らくPVは高評価になるだろう。ヒットメーカーだから、おおっぴらに文句は言えなかった。
「倫人君? どうかしましたか?」
「いや……流石にちょっと疲れてな」
「おや、ようやく自由時間で息抜きが出来るというのに……それだけ今回の撮影に気を張られていたのですか?」
「そうかもしれないな。支倉さんが急に撮影地をハワイにするってなってからドタドタしてたからな……」
「あはははは~ハセッピーってばいっつも急だよね~! でも良いじゃん! こうしてハワイで心置きなく遊べるんだしさ~!」
「てめえ押してやってんのに忙しなく動くんじゃねェッ!! ま、いい加減慣れたモンだろ倫人。撮影だって順調だったじゃねェかァ!!」
「まぁまぁ、自由時間は自由に過ごしてなんぼだ。倫人。休みたいならゆっくり休んでくれ」
「皆……ありがとう」
鬼優……イアラ……ShinGen……東雲……お前らって本当に良い奴らだよなぁ……! 俺は心の中で涙を流す。
だけど同時に……ふざけんじゃねえ、と──甘粕清蘭の顔が浮かんだ。皆の爪の垢を煎じて飲ませまくりたい、本当に。
支倉さんも原因ではあるが、俺が疲労困憊な理由の大半はあのカス女のせいだ。ハワイに行く準備をしていた所に今回は電話ではなくわざわざ家まで来やがったせいで清蘭は俺がハワイに行くことを知ってしまったのだ。
そして「あたしに黙ってハワイなんて行こうとしてたの!? どうしてよーそんな金あるなら連れて行きなさいよー!」と粘りに粘り、まとわりついてきて仕方がなかった。【アポカリプス】の仕事だと言ってもそんなの関係ないとまるで聞く耳を持たず、仕舞いには「連れて行かないならこうしてやる!」と俺のパスポートを奪い去りやがった。
その後何とか奪い返したは良かったものの、清蘭との不毛極まりない争いで体力を消耗しまくった俺は、PVの撮影時から満身創痍だった。あのカス女、マジで体力が半端じゃねえ……そのあり余った力をアイドル業で発揮しろやカスが……。
「と、とにかく……俺は休んでくるよ……また後でな皆……」
「分かりました」「分かったぜッ!!」「分かったーー!!「あぁ、分かった」
親愛なる仲間達に別れを告げ、俺はまず日陰を探した。こんなギンギラギンな日光、さりげないなんてもんじゃない。ジリジリと焼かれ続けたら回復するものだって回復しない。
ベストはヤシの木のある場所。市販のビーチパラソルじゃ、この容赦ない日光を防ぎ切ることは叶わない……なんてことはないのだが、この時の俺は疲労のあまり正常な判断力を失っていた。
「うぅ……どこだ……ヤシの木……ヤシの木……」
ふらふらと、まるでゾンビのように彷徨い歩く俺。不幸中の幸いはこんな状態の俺をファンが発見しなかったことだろう。とは言え3月のこんな時期に、しかもハワイに来るセレブなファンもいるはずがないので、これも当然と言えば当然だった。
「あぁ……あった……!」
"日本一のアイドル"らしからぬ枯れ切った声を上げながら、遂に俺はお目当てのオアシスを発見する。ヤシの木が並び、影が折り重なり合って避暑地と化しているエリアを。
さらには、そこには誰も使用していないと思われる白のロングチェアまである。僥倖に次ぐ僥倖に、俺は覚束ない足取りのまま理想郷を目指す。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
なんということだ。足が鉛のように重い。あのクソ幼馴染にどれだけ走らされたというんだ……フルマラソンくらいはあるんじゃないかとさえ思える。
しかしここで倒れると、砂浜に顔面から倒れ込んでしまう。それからは恐らく指一本も動かせないだろう。下手すると窒息死するかもしれない……駄目だ……俺はこんな所で死ぬ訳にはいかないんだ……!
「俺は……俺はぁ……"日本一のアイドル"……九頭竜……倫人だ……!」
俺が死ねば、一体どれだけの人間が悲しむことだろうか。事務所に迷惑をかけるだけでなく、【アポカリプス】の皆もファンの皆も泣かせる……そんなことは絶対に嫌だ……!
「うぉぉぉおぉぉおお……!」
俺は最後の力を声と共に振り絞り、ロングチェアの前に辿り着くとそのまま身体を預けた。
「……あぁ……なんていう……気持ち良さなんだ……」
口から心からの感想が漏れ、目からは涙が溢れ出た。
カス女に振り回され、しかし【アポカリプス】としての仕事を全うした俺に向けて、神が用意してくれたご褒美にさえ思える極上の気持ち良さ。よく見えないが、恐らく最高級羽毛クッション的な何かを敷いているのだろう。
「……顔の部分のこれ……凄いな……気持ち良すぎる……」
特に、顔を包み込むその感触はこの世のもとは思えない心地よさで、見る見るうちに俺は眠気に誘われる。
よく頑張ったよね……もう……ゴールしても良いよね……。
神から賜りし極楽浄土を前に、俺という1人の人間は無力だった。しょうがないんだ。九頭竜倫人だって人間なのだか……ら……。
程なくして、俺はほんの少しの抵抗も見せることなく眠りの世界に入っていったのだった。
「……んぁ……」
背中に感じる熱に、俺は目を覚ます。眠ってから時間が経過したことで影の位置がずれ込んだのだろう。
しかしヤシの木の日陰に極上のクッション付きロングチェアのおかげで、俺の疲労はかなり回復した。全快とは言わないが、身体は楽に動かせるようになっていた。
さて、しっかりと眠気を覚まして起きないと。そして、皆とたっぷり遊ばないとな──両手を支えにして、俺は身体を起こそうとした。
「あんっ《・・・》」
……?
あれ……何だ……今の声……俺……じゃないよな……?
俺は片手を使い、ぼやけている視界を拭ってクリアにする。
「…………」
そして、次に瞳に映ったものに、俺は芸能界引退を覚悟した。
端的に状況を説明すると──俺は見ず知らずの女性の上に寝転がっていて。
さらにその上で──右手でその女性のおっぱいを揉んでしまっていた。




