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夢観の八葉

浜木綿の咲く海で

作者: 穹向 水透

11作目です。時には童話風なものも書いてみたかったのです。

       1


 彼が目を覚ましたのは昼過ぎのことでした。もう太陽は空の高いところで笑っていて、彼は少し申し訳ない気持ちになりました。

 家のすぐ横を流れる川で顔を洗って、昨日の残り物の芋を食べました。風味が少し落ちているようで、彼は少し顔を顰めました。

 誰かが家のドアを叩きました。

 開けると、友人が立っていました。

「気分はどうかな? えっと、昨日は来れなくてごめんよ」

「ああ、気にしないでくれ。僕の気分は……、晴れやかではないけど、悪くもないからさ」

「えっと、彼女のお墓は何処に?」

「それはね、彼女の遺言に従って、ないことにしたんだ」

「そうなんだ。少し残念だけど……、忘れなければ大丈夫かな?」

「大丈夫だよ。忘れられることが一番悲しいんだから」

 友人は手土産に銀紙に包まれたチーズをくれました。彼は「気を付けろよ」と一言残して帰っていきました。

 彼は家に入り、お気に入りの椅子に腰掛けて、手土産のチーズを開封しました。

「何て良い色と匂いだろう。これなら充分だね」

 彼はナイフでチーズを小さく分けて、袋に包みました。そして、棚からガラスの瓶を取り出しました。

「お待たせ。君の行きたかった海ってところに行こう」

 彼は瓶に語りかけました。瓶の中には灰色の粉が詰まっています。彼はその瓶とチーズとナイフ、そして写真を鞄に詰めました。彼は書き置きを残します。

「親愛なる弟よ。僕は彼女の夢を叶えに行く。この家は君に渡すから、使うなり、売るなりしてくれて構わない」

 彼はそれをテーブルの上に置いて、帽子を被りました。それは彼女のものでした。

 家から出て、小さく「ありがとう」と声を掛けてから、太陽が照りつける夏の世界を歩き始めました。

 途中、近所のおばさんに会いました。

「あら、何処へ行くのかしら?」

「ちょっと、遠くへ」

「あらあら、それはそれは。帰ってくるの?」

「正直、わかりません。弟が来る筈なので、よろしくお願いします」

 彼はおばさんに手を振って、また歩き出しました。

 少し歩くと、空に聳える灰色の塔が出てきました。この石の塔には入り口がなく、用途も不明です。彼は石の塔を一周してから歩きました。

 彼のすぐ傍を巨大な轟音の化物が走り去りました。それも一匹ではありません。止まっている時は静かで恐ろしくも何ともないのですが、一度、動き出すと手に負えません。実はその化物を飼い慣らしている存在がいるのです。彼らが「ホム」と呼んでいるそれは、大きく、彼らにはない技術を持っています。二本の脚で歩き、大地を揺るがす彼らは、畏怖の対象でした。ホムは眠っている化物の身体を開いて、中に侵入すると、化物を呼び起こして操ります。それがどんなに見境のない恐ろしいものか、ホムにはきっとわからないのでしょう。彼らは時々、血塗れになって横たわった犠牲者を目にすることがありましたが、その度に戦々恐々てしていました。彼と彼女の日課であった散歩さえ、気が休まるものではありませんでした。それは化物が原因でもあるのですが、それよりも、彼女の死にたがりというか、怖いもの知らずな性質に由来するものでした。

 彼は壁にくっつくようにして進みます。こうすれば、ホムに踏まれそうになっても回避できます。しかし、ホムの半分ほどは好奇心旺盛で、その発達した身体で彼らを追い込み、最悪の場合は殺してしまいます。故に、遠出は危険極まりないことで通常はしないものなのです。友人も弟も近所のおばさんも、きっと、わかっていて見送っているのです。それは優しいことではあるのですが。

 彼が後ろを振り返ると、十数本の塔が見えました。どうやら、等間隔で並んでいるらしく、どれも空高く聳えています。近くにいた黒い男に話し掛けました。

「君はあの塔の上へ行ったことがあるかい?」

 男は答えます。

「あるさ」

「どんな景色だった?」

「変わらんよ。ここより高いだけさ。それより、何処へ行くんだ? こんな目立つところを歩いていたら、連中に見つかっちまうぞ?」

「いざとなったら、路地にでも入るさ」

「遠くへ行くなら連れてくぞ?」

「ああ、大丈夫だよ。そんなに遠いところじゃない。それに、僕は高所恐怖症なんだ」

「そうか、それは残念だ」

 黒い男は手に持っていたパンを貪り始めました。何となく、ここから離れなければいけないような気がして、彼は足早に進みました。

 進み続けて、およそ三時間ほど経ったでしょうか。空は少し色が沈み始めました。水色から青色へ変わる、この溺れるような空の色が彼も彼女も好きでした。

 彼は壁に空いた穴を潜りました。その先には、緑が生い茂っており、郁郁たる花の匂いが充満していました。進むと、緑のない開けた場所に彼は出ました。そこにはお爺さんが横になって、花の匂いを嗅ぎながら欠伸をしていました。

「やぁ、どうしたのかね」

 お爺さんが訊ねます。

「僕は貴方の叡知をお借りしたいのですが」

 お爺さんは世界で一番の物知りだと噂されていました。

「叡知……かね。そんなものどうするつもりかね? 君の手に余るものではないか? まぁ、良い。用件を聞こう」

 お爺さんは起き上がりました。

「僕は海に行きたいのです」

「海? また遠いところへなぁ。はて、それは何故かね?」

「妻の生前の夢を叶えるためです」

 彼は鞄の中から例の瓶を取り出しました。

「……遺灰か。それを海でどうする?」

「撒きます。妻の遺志ですので」

「うむ。それは叶えなくてはならぬな。ところで、君、何か美味いものを持ってないかね? 花の匂いに紛れて、仄かな美味いものの匂いが漂っとるんだ」

「これをどうぞ」と彼はチーズを差し出した。

「全部とは言わんよ。儂も老体なのでな。そんなには食べられん」

 お爺さんはチーズを噛み締めて言いました。

「中々に美味いものだ。近頃はこんな奢侈品に巡り会うことはない」

 お爺さんは再び欠伸をしました。

「悪いなぁ。どうやら、死期が近いようでな。この頃は欠伸ばかりで、陽が沈んでいるような気がしているよ」

「……死んだらどうなるのですか?」

「死んだら? そりゃあ、空の上に行くのさ」

「それは、あの灰色の塔の上のような?」

「そんなちっぽけなところじゃないさ。死んだら、もっと、ずっと、高く、太陽の近くに行くのさ」

「それは、幸せですか?」

「苦痛などないからな。儂ももうじき、そこに行くのだ」

 お爺さんは欠伸をします。

「もしかしたら、君が去ったすぐ後かもしれない。だから、君の知りたいことに答えよう」

「お願いします」

「まず、海は遠いぞ。儂も昔、連れてかれたことがあるが、歩いて向かうのは現実的ではない。ならばどうする? 今まで君が歩いてきた道を真っ直ぐ進め。そうすると、銀色の蛇がいる筈だ。そいつの身体に乗り込んで、海に向かうのを待て。それが一番だ」

「海は青いんですよね? 本に書いてあったのですが……」

「ああ、青い。何処までもな。空よりは少し濃いな」

 老人は欠伸をしつつ、お腹を掻きました。

「君の妻はどんな方だったのかね?」

「……明るくて、優しくて、綺麗で、僕には勿体ない女でした。少し、怖いもの知らずなところが玉に瑕でしたが。あと、窮屈が嫌いでした。ずっと、海を見たいとか、あの夜に浮かぶ星に行きたいとかって言ってました」

「じゃあ、大丈夫だ。君の妻は今、そこに限りなく近いところにいる。きっと、君を見守っているのさ。迷わず進め、想えば叶う」

 そう言うと、お爺さんは一際大きな欠伸をして、眠ってしまいました。彼はお爺さんに手を合わせて、壁の穴から出ました。


       2


 外に出るとまるで太陽が世界を焦がそうとしてるような熱気でした。季節を考えると、今は夏の半分。大雨時行(たいうときどきふる)の更に末ですが、今年は雨の記録は乏しいようです。

 彼は焼けるような大地を、ゆらりゆらりと柳の葉か幽霊のように歩きます。耳を澄ませると、蝉時雨に紛れて聞こえるのは、彼女でした。彼女の声が彼の脚を先へと進ませるのでした。時折、意識が浮きそうになって、あの怪物に食べられそうになりながら歩いていると、景色が変わりました。正面にあるのはホムが出入りする巨大な門。彼は昔、ここに冒険をしに来たことを思い出しました。攻撃的なホムがいたことを憶えています。

 門を潜ると、ホムがちらほらと見えました。彼は気付かれないように、壁際を歩いていきます。ゆっくり、ゆっくりと進み、大きな階段に出ました。それはホムのためのものなので、彼は慎重に行くことを強いられます。自分が落ちる分には構わないのですが、今は彼女を抱えているので、それを守るために、自然と慎重になるのでした。

 銀色の蛇が走り去って、ホムたちが一斉に消えました。どうやら、ホムはあの蛇さえも飼い慣らしているようです。

 やっとのことで階段を攻略し、銀色の光沢がある床を走りました。ホムに見つからないように、大きな柱の傍に隠れて、次の蛇を待ちます。

 暫くすると蛇が凄いスピードで滑り込んで来ました。轟音の化物と同じかか、それ以上の音を連れています。

 彼はホムに紛れて、潰されないように蛇に乗り込みました。そして、すぐに蛇の肋骨の上に逃げました。ホムは蛇の背骨から吊るされた神経を掴んで立っているもの、横隔膜に座るものなどがいます。みんな下を向いてこちらを向く気配はありません。

 彼は腹拵えのためにチーズを取り出しました。芳しい匂いが彼の周囲の空気に染み込みました。彼がチーズを堪能していると、一体のホムのが不意に立ち上がり、手に提げていた黒いものを肋骨に置きました。その衝撃で、彼の身体が少し浮き、自由になった彼女の瓶が転がり始めました。急いで瓶を回収し、安堵していると、下に座っていた二体のホムがざわめき出しました。原因は、肋骨の隙間から落ちた彼のチーズでした。一体が立ち上がって肋骨を覗きましたが、じっくり探すわけでもなく、すぐに座ってしまいました。彼は、自分の心臓が爆弾のように鼓動しているのがわかりました。

 蛇の身体には透明な膜があり、そこから外の景色を見ることができました。彼はチーズを齧りながら、流れ行く景色を眺めていました。流れて行くのは灰色か緑色ばかりで、海の青色は一向に見えません。彼は少し眠くなってきました。膜から見える空は茜が終わる頃の色になり、少し雲があるようで、彼は雨の心配をしました。うっかりしたことに、鞄には雨具を詰めていませんでした。

 彼は雨が嫌いでした。しかし、彼女は雨が好きでした。「どうして雨が好きなの?」と訊くと、「悪いものが流れるような気がするから」と答え、彼の手を引き、雨の降る灰色の街を散歩した記憶が蘇りました。確か、その後の彼女は風邪を引いていたような気がします。

 彼はいつの間にか転た寝をしていました。

 そして、淡い夢を見ます。

「ねぇ? 君は私が死んだらどうする?」

 ベッドの彼女がそう言いました。彼は彼女の頭に当てていた氷を取り換えている最中でした。

「死ぬことなんて考えないでよ。ただの風邪なんだから」

「違うよ。もしもの話だよ。生きてるんだから、いずれは死んじゃうでしょ? それが何年後かもわからないし、もしかしたら、明日や今日かもしれない」

「僕が突然狂って君を刺したり?」

 彼女は優しく笑って言いました。

「もしそうなったら、私を刺した後、君は自分を刺して。そうすれば、一緒に逝けるでしょ?」

「そうだね」

「たとえ君が地獄に堕ちようと、私は君と一緒だよ」

「じゃあ、僕も天国へ行ける努力をしなきゃね。どうせ一緒なら、幸せな方がいい」

「あら、一緒にいられることより幸せなことがあるの?」

「ないね」

 彼が言うと、彼女は笑いました。彼も一緒に笑いました。

 ある夕方、彼女と散歩をしていました。

「ねぇ、どうして君は僕より外側を歩くの? 危ないから僕より内側を歩いて欲しいんだけど」

「紳士だね、君は」と彼女は笑います。

「私は信じてるよ。もしも、私が死ぬようなことがあれば、君も一緒に来てくれるって」

「夢の見過ぎだよ。僕にそんな男気はないよ」

「いや、それでも、私は信じてるよ」

 ここで夢は途切れました。

 彼が眼を醒ますと、膜から入り込んでくるのは黒い黒い闇でした。ホムの数も減り、視認できる限りでは三体しかいませんでした。

 彼は彼女を抱き締めました。彼女の身体はひんやりしていました。

 彼は荷物を纏めて、肋骨から下りました。そして、蛇が止まったところで身体から

出ました。そこは閑散としていて、一体のホムが座っているだけでした。彼が戻ろうとしたら、蛇は入り口を閉じてしまい、そのまま、走り去ってしまいました。

 彼が唖然としていると、足音が聞こえました。恐る恐る振り返ってみると、そこにはさっき座っていたホムがいました。メスのホムのようで、それは屈んで、彼に手を伸ばしました。彼が躊躇していると、そのホムは指をゆっくり動かしました。どうやら、敵意はないようなので、彼はその手に乗りました。

 ホムの手に乗ると、不思議な感覚が流れてきました。風に靡く夏草、声高に鳴く虫たち。そして、塩の風。それは嗅いだことのない不思議な匂いでした。ホムはゆっくり歩いて、彼を道に降ろしました。彼が振り返ると、そのホムは笑顔で手を振っていました。彼も手を振り返し、塩の匂いのする方へ駆け出しました。

 暗緑の一本道。虫の幽かな練習の音が響いています。空は黒と灰と紫が溶かされたようで、塩の匂いに雨の匂いが紛れ込んでいました。途中に落ちていた鉄の看板は激しく錆に侵されていて、ありのままの姿は判別できません。彼は、天国への道を想像しました。もしかしたら、こんなに殺伐としていて、永遠に続くかのように思わせるようなものなのか、だとしたら……。彼の思考が飛躍して、落ちて、混沌の瀝青で溺れそうになった時、後ろから声がしました。

「青年、何処へ行くのかね」

 声の主は、顔に大きな傷のある巨躯の男でした。威圧的な表情をしていますが、それはデフォルトのようで、敵意はないように感じられます。

「ちょっと、海まで。彼女の望みを叶えるために」

 彼は彼女の瓶を持ち上げて答えました。

「海か。海までは多少だが、距離がある。それに、いつまでも一本道が続くなんてこともない。どうだ、青年よ、私が連れてってやろうか?」

「いいんですか?」

「ああ、散歩がてらだ。どうせ、行く宛などないし、ならば、君たちの望みの行く末を見てみたい」

 彼は「ありがとうございます」と言って、男の背中に乗りました。

「ゆっくり走るが、振り降ろされたりはしないでくれよ」

「頑張ります」

 男が動き出すと、その時点で彼の元の移動スピードよりも遥かに速いようでした。塩の匂いが彼の鼻に直撃します。

「少し痛いか、青年?」

「いえ、大丈夫です」

「ここらの潮風はやたらと強くてな。その所為か、ホムもあんまりここには来ない。だが、海岸は綺麗だ。昼間なら風もないしな」

「あなたはここに住んでるのですか?」

「住んでいるか、と言われると、肯定も否定も難しい。確かに、毎日、この辺りを彷徨いているにはいるが、定住しているわけではないからな。言わば、ホームレスだな。その日暮らしだよ」

「……それも楽しそうですね」

 彼がそう言うと、男は大きな声で笑いました。

「ははは、楽しそう、か。いいじゃないか。君の彼女の望みを叶えたら、その先はどうするかなんて決めてないのだろう?」

「あぁ、そうですね」

 彼は全く考えていませんでした。

「一緒にホームレスってのも悪くないじゃないか。その日暮らしの作法なら私が教えよう」

「……僕は家を捨てた身だからなぁ」

「捨ててしまったか」

「はい。でも、彼女がいる海の傍にいられるなら、それもいいかなって思います」

「君の彼女は何故、死んでしまったのかな?」

「……」

「答えなくてもいいんだよ」

 男は優しく声を掛けます。

「いえ、別によくある病気ですよ。本当は治る病気だったのに、彼女の生まれついた性質なんでしょうね。フラフラになっても、息が苦しくても、笑顔を絶やしませんでした。ただの眩暈だとか、風邪だとか、彼女は本当のことを言ってくれませんでした。いよいよ、彼女が倒れてから、僕は彼女の病気の重さを知ることになったんです。僕に気を遣っていたのかもしれないけれど、嬉しくはありませんでしたね」

「そりゃいい女だったろ? 君は私と似たような境遇のようだ。私の妻も、そんなズレたところで気を遣う女だったよ」

 男は立ち止まって、ひとつ、大きな呼吸をしました。

「少し苦しくなるな。思い出すものじゃない」

「……」

「残された者は、忘れることも思い出すこともダメなのさ。忘れたら悲しい。思い出したら苦しい」

「思い出さずになんていられません」

「じゃあ、それも今日までだ。彼女を海に眠らせてやったら、そこからの君は新しい君だ」

「新しい僕……ですか」

「そう。新しい君だ」

 男はまた走り出し、背の高い草原の間を駆け抜けて行きます。青い草の匂いが過ぎて行く風と一緒に後方へ吹き抜けます。次第に地面が形を失い始め、小さな欠片が散らばるようになりました。公園の砂場のようですが、それよりもきめ細かいようで、男の脚が緩やかに沈みます。

「砂浜だ」

「海が近いんですね?」

 道が終わり、広い場所に出ました。辺りは暗くてよくわかりませんが、砂浜の真ん中らしいようでした。少し見渡すと、道のあった方に咲いている白い花を見たことがありました。

「あの花は?」

浜木綿(はまゆう)の花だ。綺麗だろう? あんなに可憐な見た目をしておきながら、毒があるんだ」

「そうなんですか……」

「そんな花でも、私は妻の墓に供えているよ。彼女が好きな花だったからね」

「……僕の彼女も、浜木綿の花が好きだって言ってました。花火みたいだって……。海に行ったら見たいもののひとつだって、浜木綿と海月と珊瑚……」

 急に過去の記憶が鮮明になりました。埃が薄く積もっていたような青い脳内写真に潮風が吹いて、その色が蘇ったのです。

「君はどうする?」

 男が彼に問います。

「どうする?」

「そうさ。時間だよ。こんなに真っ暗な夜に流すのかね? 雨の匂いがするが、明日は晴れるよ。私が保証する」

「……そうですね。明日の朝にしましょう」

 彼は鞄を、彼女を強く抱き締めました。

 彼女の声が幽かに聞こえた気がしました。


       3


 空が不思議な色に流れていきます。それらは朝の訪れを告げるための哨戒班で、夜の帳を回収するために空を飛び回っていました。

「眠れないのか、青年」

 男が横に座って言いました。

「いえ、眠ってはいたんですけど……、やっぱり、眼が醒めてしまって。仕方がないので、空を眺めてました」

「綺麗だろう?」

「はい。何だか心が澄んでいくようで……」

「それは、朝だからだ。朝の空気と光は万人を解放する。私も、よく夜明け前の空を眺めるんだ。何だか、生きているって実感が湧いてくるし、生きてみようって決意が出来る」

「死にたかったんですか?」

「まぁな。しかし、誰しも死の欲求は抱えているんだ。それの加速する時間と触れ幅が異なるだけさ」

「なるほど。確かに僕もそういう時があるかもしれません。幸せなのに、どうしてか、死にたくなっている。そんな時が……」

「幸せってのは、不幸を内包してるんだ。表裏一体だからな。逆に言えば、不幸には幸せが内包されてるんだ」

 紫の雲が段々と薄く淡くなって、遠くで白い光が静かに広がり始めました。哨戒班による夜の回収は済んだようでした。

 彼は立ち上がって、鞄を手に取りました。

「場所はどうする?」

「ここから真っ直ぐ行った場所に」

「一緒に行こうか?」

「いえ、ひとりで大丈夫です」

 彼は砂浜を静かに進んでいきます。自分の足音と波の砕ける音しか聞こえない透明な空間。彼は蹌踉めきながら歩きました。視界がぼやけていきます。

 何で泣いているんだろう。

 彼は自分の心の奥、彼女の記憶が保存されている部屋のドアに凭れ掛かって、その涙が流れる経緯を探ります。ドアを開けようとしましたが、何故か開きません。どうやっても、ドアは動く気配を見せません。

 彼は水に触れる場所までやって来ました。夜に冷やされた海水が、彼の脚に纏わりつきます。彼は鞄から、彼女の瓶を取り出しました。中の灰がサラサラと音を立てます。

 ドアを何度も何度も叩いて、何度も何度も蹴りましたが、それでも、開くことはありません。

 彼は瓶の蓋を開けました。静寂の中を風が幽かな音を立てて空を揺らします。彼女が飛ばないように、彼は瓶をしっかり抱えます。そして、彼は海に歩みを進めました。脚の半分まで浸かり、腰まで、胸まで、そして、首まで浸かった時、彼は瓶を海に浮かべました。

 その時でした。心の奥のドアは勢いよく開き、中にあった記憶が溢れ出しました。

「ありがとう」

「ごめんね」

「おやすみ」

「おはよう」

「はじめまして」

 彼の視界がどんどんと歪なものになっていきます。彼が眼を擦って直しても、すぐに歪んでいきました。

「ねぇ? 君は私が死んだらどうする?」

 彼女の言葉が頭を駆けました。

「君が死んだら……」

 彼は呟きました。

「私が死んだら、その灰は海に撒いてね」

 どうして?

「だって、そうすれば、世界中を見に行けるもの。何にも邪魔されずに、何処へでも。でも、君がいないのは悲しいことだけど……」

 瓶に海水が入り込み、彼女の身体を連れていきます。涙が海に零れて、ひとつになります。

「忘れないでね」

「忘れるもんか」

「でも、そんなに思い出さなくてもいいよ」

 ドアがゆっくりと閉まり始め、溢れ出た記憶が少しずつ中に戻っていきます。極彩色の記憶が、少しずつ青くなっていきます。

 灰はもうすでに半分が海に流れていました。

 彼が空を見上げると、ひとつだけ輝く星が見えました。海の向こうからは、太陽が昇り始めています。

 波の音に合わせて、彼女がいなくなります。

「泣かないで」

 彼は眼を擦ります。しかし、止まることはありません。

「泣いてないよ」

 彼は言いました。精一杯の大きな声で。

「またね、バイバイ」

 最後の灰が瓶から流れ出ていきました。

 それと同時にドアも閉じました。閉じる寸前に滑り込んだのは、真っ青な海のイメージでした。

 太陽が彼の顔を照らしました。

 海はキラキラと煌めいていました。

 彼はそこに立ち尽くしていました。

 失くしたものが二度と戻ることはないことくらい、わかっているつもりでした。けれども、受け止めることは出来ませんでした。


       4


「青年、これからどうするんだ?」

「しばらくはここにいるつもりです」

「そうか」と男は彼の頭を優しく撫でました。

 彼の眼に、もう涙はありませんでした。

「泣かないからね」

 彼は独り言のように呟きました。

 彼は彼女の言葉を思い出します。

「私は信じてるよ。もしも、私が死ぬようなことがあれば、君も一緒に来てくれるって」

 まだ、まだ、待っててくれ。

 彼は静かに倒れました。

「どうした、青年? 大丈夫か? ん?」

 男は彼の顔を覗き込みました。そして、安堵の溜め息をしました。

「お疲れ様」

 男は彼の横に座って眼を閉じました。横からの小さな寝息と静かな朝の波の音を聞きながら、男はまだ白い空を眺めていました。



 浜木綿の根元の小さな部屋。

 眩しいのは朝の光。

 棚にある色褪せない写真。

 今は小さな花が活けられたガラス瓶。

 静かに軋んで開くドア。

 湿った雨の匂い。

 草の匂いと、風に揺れる音。

 誰もいない砂浜を歩く音。

 誰もいない渚を歩く音。

 波が砕ける音。

 鼻を啜る音。

 海水は冷たい。

 雲は白く高い。

 空も白く高い。

 誰もいない海を歩く。

 巡るのは言葉。

 約束の言葉。

 それは、きっと本意じゃない。

 怒られるかもしれない。

 ごめんね。

 手にしているのは毒。

 浜木綿から抽出した毒。

 こうすれば、世界中へ行けるらしい。

 誰にも邪魔されず。

 何処へでも。

 毒が消える。

 視界がぼやけ始める。

 滲み始める。

「泣いてないよ」

 暗くなる。

 暗くなる。

 そして、いなくなった。

 海岸では浜木綿が咲いていた。

 そんな夏の真ん中の頃の小さな話。

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