咲いて消えろよ真実なんて
慣れない下駄に苦戦しながらも随分と長くなった陽の中を歩いた。隣の彼女は白地に大柄の橙の花が咲き乱れた浴衣を着ている。サイドに編み込まれた髪にも同じように橙の花が咲いていて彼女のイメージによく合っていた。
「ちょっと遅れちゃったね、大丈夫かな」
「大丈夫大丈夫、時間通りに来るやつなんて蒼也以外いないから」
「それも問題だと思うけど」
時間はあっという間に過ぎ夏へと色を変えた。私の視界からは思っているよりも早く色彩が消えていた。夏休みに入る前、約束を交わした花火大会に来ている。浴衣を買ってめかしこんだのは友人と来る花火大会が初めてで浮かれていたのと、君の目に少しでも綺麗に映っていたい欲求からだろう。
里香ちゃんの家にお邪魔して浴衣を着つけてもらってから一時間が経とうとしていた。紺地に水色の花が咲いたこの浴衣は、君が見つけやすいように、君の視界に美しく映るように選んだものだったが隣の彼女を見て少し地味だったのではないだろうかと一抹の不安がよぎった。私自身は落ち着いた色合いなので気に入っているのだが、君の反応が一番気になってしまうのは恋に落ちているからなのだろう。軽くつけたリップも、いつもより上がった睫毛も、ほんのり染めた頬も全部君の為という名の自己満足だ。
「あ、いた」
彼女が声を出して手を振ったそこには君と矢田くんがいた。不意に君と目が合って鼓動が高鳴り耳まで届いてきた。薄手の半袖シャツに七分丈の黒いズボンのシンプルな服装だが、それが似合ってしまう君はやっぱり格好いいのだ。
「立波浴衣じゃん、似合ってるな」
「ありがとう」
彼は笑いながらさらっと褒めた。適当で騒がしく子供っぽい所があるが、素直に女性が貰って嬉しい言葉を口に出来るから人気があるのだろう。
君を見ればこちらを見て固まっていたので、私は君の前でゆらゆらと動きながら声をかけてみる。
「蒼也くん、蒼也くん」
「うわ、はい」
驚いたように声を上げた君に私は首を傾げた。
「どうかしたの?」
上の空だったけどと言葉を続ける私に大丈夫と素っ気ない返事が返ってきた。これは遅れた事に怒っているのだろうか。
「遅れてしまってごめんなさい、準備に時間がかかってしまって」
しかし返事は違っていた。
「先に言ってくれてたら迎えに行ったのに」
その言葉に思わず笑みが零れた。ふとした瞬間に私はどうしようもなくこの人が好きなのだと、何度だって再認識させられるのだ。
「さすがにそこまで手間を取らせるわけにはいかないわ」
迎えに来てもらいたかったのは山々だが、君に迷惑をかけたくはないのだ。
他愛もない話をしていると里香ちゃんが大きな声で胸を張って自慢げに話し始めた。
「女子は浴衣だろということで浴衣着て来てみました!どう?」
「孫にも衣装とはこの事だなと思った」
「調子のんな矢田」
思わず呆れて頭を抱えてしまった。気遣いが出来るのか出来ないのかよく分からない人だ。里香ちゃんに殴られている矢田くんを遠巻きに見ながら思った。私もあんな風に聞けばいいのだろうか、少しふざけたように聞けば何か返してくれるだろうかと隣にある横顔を眺めながら思った。結局、私も君の反応が欲しいのだ。私は君の一歩前に出て一回転してみた。
「どう?変じゃないかしら?」
ちゃんと笑えているだろうか。いつものように余裕そうに、掴み所のない笑顔で、返事なんてどう返ってきても構わないと言わんばかりの顔だろうか。
すると君は突然口を抑えて笑い始めた。
「な、何で笑うの」
私は思わず焦ってしまった。目の前で回ってみるのはさすがに子供っぽかっただろうかと思い君の顔を覗き見れば、君はごめんと言いながら私を見た。
「似合ってるよ」
行こうと言い出し歩き出した君の背中を見ながら、私はにやける頬を隠すように手で覆いながら頬を膨らませた。灰色になってしまった夕焼けが、少しずつ藍色に変化していった。
「凄い人だね」
一本道の長い通路に軒を連ねる出店、群がる人々の熱気が頬に当たった。久々に混雑した人混みの中を歩く事になりそうだ。私ははぐれないように君の隣を歩いた。
「まず何食べよう」
目を輝かせた彼女にすかさず突っ込んだ彼は馬鹿にした表情で彼女を見ていた。
「食べる事しか考えてないのなお前」
「うるさいわよ」
相変わらず仲がいいのか悪いのか分からない距離感だ。二人の距離はいつも近くて、まるで恋人と勘違いするほどだが、お互いに心を許し合っているのだろう。前を歩き口論する二人が面白くて笑いながら歩く。これが年頃の女の子の普通なのだろう。恋人や友人たちと花火大会に来て、ひと夏の思い出を作る。私には縁遠い世界であったが、それが目の前にあるとは何とも不思議な感覚だ。君に恋してから、私は人の在り方というものを学んでいる気がする。
「あ、あれ食べたい!」
「俺も俺も」
「おい翔、里香、はぐれる!」
前にいた二人が駆けだして、あっという間に人混みの中に消えていった。君の制止の声も虚しく、二人の姿は見当たらない。
「嘘でしょ…」
額に手を当て溜息をつく君が何だか可愛くて、私は大丈夫と声をかけた。
「きっとそのうち電話がかかってくると思うわ」
「だといいけど」
私は巾着から携帯電話を取り出し二人に連絡をする。電話をかけようと思ったが、この人の中では気付かないだろう。もし通じても騒がしくて声が聞こえないかもしれない。メッセージにしようと二人に、気づいたら連絡してねと送ったが再び合流するのは困難かもしれない。
「気付いたら連絡してって言ったわ」
君の唇が開いて何かを言いかけた直後、突然背後から衝撃が走って私の身体は前に倒れかける。転ぶなと頭の中の声は冷静に状況を把握したが、身体は反応出来なかった。
「危ない!」
慣れない靴のせいか踏ん張る事が出来なかった私の身体を君の腕が制止した。引っ張られた右腕のせいでバランスが後ろに戻り、身体は反転し気づけば君に抱き留められていた。
「ごめんなさい!大丈夫?」
驚いた私は君に顔を向けたが意外にも近かった距離に気付き、顔に熱が集まっていくのが分かった。
「大丈夫大丈夫、怪我は?」
「ないわ。人混みには気をつけなきゃ…」
何事もなかったかのように私は君から身体を離す。これ以上くっついていたら、この赤い顔がばれてしまいそうだった。
「そうだ」
「何だよ」
はぐれないようにはどうするべきかと考えた私はこの熱を誤魔化すようにあえて明るい声を上げ君のシャツの袖を少しだけ掴んだ。
「これで離れないわ」
きっと赤い顔は君にはもう見えないかもしれない。もしかしたら頬の部分だけ灰色が集中しているかもしれない。それならそれでいいのだ。今だって眼前に広がる世界は所々穴が空いたかのように灰色になってしまっている。
「行くよ」
「うん」
君の後ろを少し早歩きで着いていく。すると君は突然袖から私の手を振り放した。
「え…」
一瞬宙に投げ出された手は君の手によって掴まれ指を絡められた。
「こっちのほうが歩きやすいから」
そう言って歩き出す君の耳はもうすぐ見えなくなってしまうであろう赤色が集中している。
ああ、好きだ。大好きだどうしようもないくらい何度だって自分の気持ちを再確認させられる。繋いだ右手から伝わるぬくもりに私は今日何度目になるか分からない笑みが零れた。
「そうね」
君は私がどんな顔をしているか分からないでしょう。どうしようもなく嬉しくて緩む頬を抑える手立てもなくその背に飛びついてしまいたいなんて分からないでしょうと思いながら、私は君の手を握り返した。
全部、全部、初めての事ばかりだった。君の足取りは、いつもゆっくりと、私の歩幅に合わせてくれていた。輝かしい屋台に目移りしている私の視線に気が付いたのか、君は何気なくそちらに引っ張って足を運んでくれた。
二人で分けたたこ焼きは熱く一口かじって溢れる湯気に苦戦させられた。君は勢いよく口に放り込むから、悶絶して舌を出しながら涙目になっていた。その姿がおかしくて、心配をしながら笑ってしまった。
初めて買った綿あめは、幼い頃に妹が食べていたけれど自分は食べたいと言い出せなかった事があったなと頭によぎった時、君が隣から綿あめにかぶりついて大きな塊を攫って行ったので怒ってしまった。
君が食べたかき氷は鮮やかな青色で舌が真っ青になっていると大袈裟に口を開いて見せてきたので私も真似して舌を見せて見た。すると君は楽しそうに腹を抱えていたので二人して青に染まった。歩いている時、真っ赤な林檎飴に一目惚れをした。口にするのがもったいないくらい鮮やかで宝石のようだった。結局それは君の一口によって崩壊してしまったので諦めて食べ切った。
取れもしない金魚すくい二人して夢中になって、君が射的で撃ち落とした景品を見て、凄いと声を上げながらハイタッチした。
まるで夢みたいな時間を過ごしていれば、時刻は八時前になっていた。すっかり夜の帳が降りて空には星が輝き始めている。君に手を引かれてやってきた高台の公園で、遊具に腰掛けた君の右隣に腰を降ろす。
後五分で花火が打ち上がる時間だ。
「何か、右隣に座られるの新鮮」
「学校ではいつも左隣だから」
膝の上に乗せたぬいぐるみを撫でた。射的で君が取ってくれた小さなぬいぐるみは白いウサギで毛並みがとても心地よかった。
「…楽しかったね」
「…そうだな、まさか金魚すくい二人とも取れないとは思わなかったけどな」
「あれは難しかったわ、金魚すくいなんて久々にやったから」
「立波一瞬で破けたし」
笑い出した君が少し腹立たしくてその手を叩いた。言い訳をするつもりもないが本当に久し振りだったのだ。最後にやったのは十年くらい前だったかもしれない。
「痛くないですよー」
笑いながらも私のした事に怒らない君は偉く上機嫌だ。
「もう…、自分だって駄目駄目だった癖に」
「それを言われたら返す言葉がないじゃん」
見返した君と目が合って笑ってしまう。
「たこ焼き熱かったね」
「ああ、舌やけどした」
「綿あめ、蒼也くんの一口大きかった」
「それは何回も謝ったじゃん」
「かき氷、面白かったね」
「舌冷やせたのはよかったけど今度は真っ青になった」
「林檎飴、美味しかったなあ」
「立波林檎飴似合ってたな」
「何それ」
「何となく」
空を見上げながら今日の思い出を話した。まるで夢のようだ。今日あった事が全部都合のいい夢のようだったのだ。この時間が少しでも続けばいいと思ってしまったくらい輝いていた。
「射的上手でびっくりした」
「ああ、それは昔から弟に景品せがまれて取れるように祭りの度に練習したんだ」
「毎年?」
「毎年」
また二人、空を見上げたまま笑った。
「楽しかったね」
「…そうだな」
少しずつ笑い声が消えていく。花火が打ち上がるまであと三分、私達の間に静寂が流れた。
「終わらなければいいのにと思った」
「俺も思った」
心から出た本音だった。
「今日蒼也くん会った時から目を合わそうとしなかったから」
もしかしたら楽しめないかもしれないと思ったと私は言葉を続ける。
「えっと、それは」
「なに?」
私達の視線は未だ星の輝く空に向けられていた。
「あー、あのさ、その、浴衣が似合ってたから。何ていうか思わず視線をそらしたっていうか」
私は君の方を向いた。君の視線は未だ空へと向けられたままだ。
「ありがとう」
私がそう言った瞬間花火が打ち上がった。大きな音に、私達の身体は跳ね上がって心臓が痛いくらいに鳴った。
「「びっくりした…」」
全く同じタイミングで同じ事を口にしたので顔を見合わせる。
「ハモったね」
「ハモった」
耐えきられなくなって私達は声を上げて笑った。
「面白いねえ」
「本当にな」
笑いが収まった私は空を見上げた。そこには大輪の花たちが暗闇を鮮やかに色づけていた。見えない色が交いくつもあったが、灰色でも、私にとっては人生で一番の景色だった。君の見える青色の大きな花が咲いて、私は嬉しくなって君の方を向いた。
「見て蒼也くん、今の青色の花火凄い大きか--」
言葉が止まった。正確には君の唇に遮られた。
四月、君に初めて口づけた日が蘇ったが訳が違っていた。今日のキスはそういうのじゃない。
ゆっくりと離されていく唇。ゆっくりと開いていく君の目。私の目に映る君の顔は、確かに赤い色をしていた。
「好きだ」
耳に届いた後、空にまた花が咲く。
「本当はずっと言うつもりなかった。言ってしまったら、絶対に最後は悲しませるから言えなかった」
たどたどしく、目線を外しながらも言葉を続ける君は目じりを下げた。それがどうしようもなく切なかった。
「でも、このまま隠せるほど器用じゃないんだよ俺」
嘘みたいだ。
「好きだよ緋奈。俺と契約のような恋じゃない、本当に付き合ってくれませんか?」
涙が出そうだった。これは夢なのだろうか。嘘から始まったこの恋が報われて良いわけがないだろう。良いはずがないのだ。君は私に向き合ってくれた。隠さずにいてくれた。けれど、私は君に言えない事がある。もう言ってしまおうか、感情に駆られ開いた唇からは、また嘘の言葉だった。
「遅いよ」
嘘だ。遅いよなんて思ってもいない。
「夢みたい」
全部嘘だったら良かった。無彩病なんて存在しなくて、死なんて程遠い世界であれば良かった。嘘なんて必要のない世界であれば良かった。
「夢かもよ」
「夏夜が見せた?」
「そう、一回限りの夢」
「なら二度と覚めない事を願うわ」
君の腕の中に飛び込んだ私は泣きそうだった。全部、全部嘘だったら良かったのだ。私も君も、死なない未来があればよかった。ようやく聞けた愛しい人の言葉はこんなにも私の心を苦しめた。
「俺も冷めない事を願っていいかな?」
「いいわ、きっと覚める事はないから」
だからこそ、私は君より先に死んではならないのだ。君が最後まで夢を見続けられるように、明日が当たり前に来るものだと思っていて欲しい。死から遠ざかって欲しい。覚めないままでいてほしい。
「それはOKって事でいいの?」
「うん、私もあなたが好き」
空には大輪の花が咲き誇り、視界の端には灰色になってしまった輝く君の髪があって、私たちは抱きしめあいながら口づけを交わした。どうしようもなく苦しい胸は変わらない現実を突きつけられた気分だった。
ああ、神様がいるならどうか君だけを救って欲しい。嘘を重ねすぎた私は殺してもいいから君だけは生かしてくれ。言ってしまえ、心の中でもう一人の私が囁いた。けれど言いかけた唇は君の肩に押し付けて漏れ出しそうになる真実を飲み込ませた。
ねえ、好きよ、大好きよ、でも、だからこそ。
「ごめんね」
一生涯君に言う気はないのだ。