雨曝の希望
恋をしている。今この瞬間も、世界が輝いて見える。灰色に染まっていく世界の中で、記憶に残る僅かな色彩を必死に手繰り寄せて君の髪色を想像する。記憶の中でその色は鮮やかに輝いていた。これは意地だ。人は記憶を美化するため、本来の髪色は別段輝いているわけではないかもしれない。日本人はほとんどの人が黒なのだから、君だってそうだったのかもしれない。ただ、あの日太陽が差し込んで、綺麗な色に見えただけだったのかもしれない。
それでも、私の世界を変えたその色は記憶の中で永遠に輝き続ける。この命が燃え尽きるその瞬間まで、私は見えもしない君の髪色を美しいと言うだろう。
季節はあっという間に色を変えた。降りしきる雨の中見た紫陽花は綺麗だと思えたのが嬉しかった。小さな花が集まって大きく魅せるその様が美しいと感じていた。薔薇のような華やかさはなくとも、人々の目を惹きそこに儚く存在している。
色を失っていく世界だった。紫陽花は様々な色が存在しているため、全てが全て色鮮やかに見えるわけではないのも理解していたがそれでも雫を纏い反射している姿は美しかった。
いつの間にか一緒に帰るのが普通になった放課後はお互いに口数が少なかった。元々お互いにお喋りではないため一緒にいれば自然と静寂が生まれるのだが、私にはその静寂すら心地よいものに思えた。例えば珍しく折り畳み傘を忘れて、突然降り出した雨に二人して濡れて廃れた建物の屋根の下立ち往生しているこの瞬間でさえも嬉しくてたまらないなんて君には言えないだろう。
「ゲリラ豪雨…」
「そう聞くと一気に気分が下がるわ」
「じゃあ何て言えばいいんだよ」
「夕立」
「そんな綺麗な感じの雨じゃないだろこれ」
相変わらず淡々と話す二人の間には打ち付ける激しい雨が降っていた。帰り際、雨雲があると話していたらこの有様だ。頭からつま先までビショビショになった私たちは顔を見合わせてため息を吐いたが、あまりにもずぶ濡れのため面白くなってきているのは言うまでもないだろう。今も君の口角が少し上がっている。
雨は嫌いだった。桜が散ってしまう原因だったからである。しかし、君といるなら雨も悪くはないのかもしれない。鞄からハンカチを取り出し拭こうとするが、それすらも濡れていて諦めて絞った。ノートや教科書が濡れていないかを確認していると鬱陶しい長い髪が顔や服に張り付くからこれを機に切ってしまおうかとも考えたが、君の好みを聞いてから実行に移そうと思った。
「寒くないのがせめてもの救いだわ」
「本当にな」
初夏の始まりだった。ずぶ濡れになった身体に当たる風は暖かい。いや、暖かいというより暑いの間違いだろう。高くなった湿度のせいで全身がべた付く感覚に陥る。これだから梅雨も夏も好きになれないのだ。
雨に降られた君の横顔を盗み見た。いつもはセットされた髪がしなっと落ちていてストレートになっていて視界を邪魔していた前髪を掻き揚げて、気怠そうな表情をした君と目が合って思わず視線を逸らした。雨は人の魅力を上げると誰かが言っていたが、例に漏れず私もその魅力にやられてしまったらしい。いつもと違う色気のある姿に胸が高鳴って誤魔化すように私はしゃがみ込んだ。
君は何してるの?と問うてきたが私は何でもないと返すだけだった。冷静になれと自分に言い聞かせてから顔を上げる。下から見る君も相変わらず格好良くて、雨がその精悍な顔つきをより一層磨き上げているような気がした。君がいつもよりずっと魅力的なら雨も悪くないと思ってしまうのだ。
そして今、この姿の君を見る事が出来るのは世界で自分だけなのだという事実に心が躍ってしまっている。私は随分と乙女思考になってしまったようだ。
また来年もこんな事があればいいのに、不意にそんな考えが頭に浮かんで固まってしまった。
今、何を考えた?
目の前のアスファルトには雨が打ち付けて飛沫を上げている。その様子がスローモーションのように見えて目を離せなくなった。来年なんてないだろう。分かっているだろう、そんな事自分が一番理解しているはずだ。そして未来の話は、君を一番傷つける言葉だ。来年、私たちはまた同じように、軒下で雨宿りをする事が出来ない。色鮮やかに咲く紫陽花も、葉に零れる雨露も、あの塀にいるカタツムリでさえも見る事が出来ないのだ。
君と生きる未来を想像してやまない自分がいる事が、私にとって一番残酷な事実だった。どれだけ希望を捨て去ったとしても、人間はもしもを考えてしまう。希望を、期待を抱いてしまう。どれだけ死ぬと分かっていても、この視界から色彩を失おうとも、君と手を取り合って季節の移り変わりを見るという希望を抱いてしまうのだ。
「雨が止むのと同じように、無彩病も治ればいいのにね」
これは願いだった。いつもは神頼みなんてしないくせに、信じてもないくせにこんな時だけ奇跡に縋りたくなった。
「いきなりどうしたの」
君が隣でしゃがみ込んだ。まるで小さな子供の駄々を聞くみたいに言ってくるものだから、この胸に溜まった不平不満を言ってしまいたくなった。君が面倒見が良くて優しい人だなんて再確認して勝手にまた好きになるのだから私の恋は最早病気だ。
「だって無彩病に治療法がないなんて絶対嘘よ、あるに決まってる」
「でも現段階ではないだろ」
「まだ実用は不可能だとしてもきっと出来るはずよ」
父の研究の事はよく知らない。けれど一つくらい救いがあっていいはずだ。そうでなければ私は君より先に死んでしまうのだ。これを何とかしないといけないのに、何も手立てがないなんてそんな事あるはずないだろう。
「今日どうしたの、そんなに焦って」
だってまた来年も同じ時間を過ごしたいじゃない、口にする事が出来ない言葉は喉奥に引っかかったままだ。君が死んでしまうまであと何日だ?私達の間にどれほどの時間が残されている?来年も同じ季節を君と送れないのだ。桜が散るのと同じ時期に、私達の命も散ってしまうのだ。
「蒼也くんこそ焦ってないの」
「これでもかなりメンタルにきてるよ」
君は笑いながらもう一度髪を掻き揚げた。君が死へのカウントダウンと戦っている事なんてもうずっと前から分かっていた。本当は泣いて叫んで理不尽だと声を大にして、何もかもを壊して自殺したいくらいには恐怖していると理解している。
雨は止む気配を見せない。私は立ち上がって君の手を取った。
「どうしたの」
君は腰を上げて鞄を手に取る。私は空を指差した。
「走ろう」
「正気?」
怪訝そうな君の顔を見て、私は笑った。悟られないように、悲しみから遠ざけるように笑った。
「一度やって見たかったの。雨の中を走るってやつ」
「本気で言ってる?止むまで待とうよ」
「さっき携帯で天気予報を見たけど、今日はもう止む気配はないみたいよ」
「本気じゃん」
だから、行こうと言って君の手を引っ張って走り出した。雨は私たちを濡らしていく。諦めた君は私を見て呆れながら笑みを浮かべた。その笑顔を見て、どうしようもなく口に出したい言葉がある事に気が付いた。好きだとか愛しているとか、そんな単純な言葉じゃない。これはもう願いだ。
『世界がどうなっても良い。私が死んでも構わない。だからどうか、君だけは生きていて』
そう思っていた私が辿り着いた答えは、どちらかが死んでどちらかが生きていても意味が無いという答えだった。隣に君がいなければ息すら吸えないくらい依存し合った。たかが十七歳の分際で何を大それた事を言っているのだと周りは笑うかもしれない。しかし、今だからこそ言うのだ。私は君がいなければ生きてはいけない。それはただの高校生のカップルが一生一緒だとか死んでも守るだとか下らない嘘を並べているわけではない。
私の中で君が最初で最後の人で、君の中で私が最初で最後の人なのだ。この短い生の中で、最後まで一緒に寄り添って朽ちるのだ。まるで呪いのように縛られた関係みたいだ。
恋は私を怪物に変え、そして君を怪物に変えた。私達は怪物のままで、このまま二人で眠るのも悪くはないかもしれない。
明日はどんな顔で会おうか、お互い色なんて分からないけれど出会った日と同じように桜色のワンピースでも着ていこうか、それとも君を想って空色のワンピースを着ていこうか悩み所だ。冷蔵庫に眠らせた少し不格好なケーキを持って、そして最高の笑顔で君に挨拶をしよう。そして沢山、愛の言葉を囁こう。
惜しげもないこの気持ちを、あの日の雨のように君に降り注ごう。