圧倒的な運命の前
温かな日の光が差し込む公園で桜が散っている。小さな子供たちが遠くで走っているのが目に入った。ブランコを漕ぐ気には毛頭なくて、ただ鎖に手を添えては泥汚れが一つもない靴を眺めるばかりだった。
ああ、これは夢だ。
気付いた瞬間、靴がローファーに変わった。チェック模様のスカートは制服である事が分かる。やけに鮮明な夢だった。一体これはいつ冷めるのだろうか。早く起きて、学校に行って、君に会いたいのに。焦燥感が襲って、この世界に一人になったかのような孤独感に襲われた。鮮やかな色で溢れていた世界がどんどん色を失っていく。急速に白黒になっていき先程まで走り回っていた子供たちの姿もどこかに消えてしまった。私は怖くて自分の身体を抱きしめた。
風の音が大きくなって雪のような桜吹雪が舞う。伸びる影に人がいなくなった世界で一人ぼっちになった私は恐怖で蹲る。
『一人にしないで』
『お前何してるの?』
突然聞こえた声に顔を上げれば幼い少年が立っている。首を傾げ、こちらを見る少年の髪だけは色を失った世界の中で唯一光輝いていた。
『緋奈』
君が呼ぶ。手を差し出してくる。
『蒼也くん』
私は手を伸ばす。君に届くように手を伸ばす。しかし、それは空を切った。
『待って…待って行かないで』
いつの間にか世界は歪んで君が遠ざかっていく。何度も手を伸ばしては、行かないでと叫んだ。
『一人にしないで』
これは夢だ。理解しているのに私は涙を流している。
嘘をついている。都合のいい嘘をついている。言わない限り、君へ永遠に届かないと心のどこかで理解していた。一人にしないで、何て都合の良い女なのだろうか。
一人にして欲しくないくせに、愛がほしいくせに君に嘘を重ねている。一人で死ぬのが本当は怖いくせに、怖くない振りをしている。初めて会ったわけではないのに、初めましての振りをしている。
『最低』
目を開ければ見慣れた天井が映っていた。机の上に置かれた時計は五時を指している。早く起き過ぎてしまったが、再び寝る気にはなれなくて身体を起こせば、カーテンの隙間から太陽が昇り始めていた。ペットボトルの水を一口飲んで息を吐く。
「最低」
最低だ。
「私が言ったの?それとも君が言ったの?」
夢の中の二人へ問いかけたが返事が返ってくるわけではない。
六月の初めだった。
衣替えの季節はいつも湿度が高く嫌になる。まとわりつく髪、汗ばむ身体はいつになっても好きにはなれなかった。この季節をまだ、十七回しか過ごしていない。そして十八回目は来ないのに、来なくてもいいと思ってしまったのは言うまでもないだろう。
半袖の制服に白いベストを着て胸元のネクタイを締めた。同級生の子のように着崩す勇気は出なくて、結局毎日ネクタイをつけている。そういえば君は毎日着けていただろうか、着けているけれど緩めているのが常だった気がする。折る事のないスカートは膝上で靡いていた。太ももが見えるまで上げる気にはなれないだろう。結局、私はいくつ季節を越しても変わらないのだ。
「行ってきます」
返事を待たずに玄関のドアを開けた。六月特有の生ぬるい風が頬を掠める。前日降った雨がアスファルトを照らして世界はどこか泥臭い匂いに支配されていた。
「雨の匂いだわ」
私は思わず口角を上げる。雨の匂いは好きだなんて周りからは理解されないけれど、土と泥に塗れた水の匂いは何故だか私の鼻孔をくすぐるのだ。
歩きながらその匂いを堪能していれば、鞄の中に入れていた携帯が震えた。
「里香ちゃんからだわ」
画面を見ればメッセージが入っていた。「おはよう、今日のお昼一緒に食べようよ」と可愛らしい絵文字とともに送られたメッセージはついこの前殴られた女の子からなんて想像もつかないだろう。
一か月前の事件から一週間が経った頃、私はまた彼女に呼び出された。今度は一体何だと溜息をつきながら向かえば、そこには君と矢田くんの姿もあった。
『ごめんなさい』
むくれた顔で謝って来た彼女に私は吃驚した。思わず口を開けて数秒固まってしまったのだ。謝ってくるとは思わなかったからだ。プライドの高そうな彼女が自分の非を認めて謝るなんて想像もつかなかったのだ。少しむくれながらも本当に反省している様子の彼女を責める気にはなれなくて、責める資格すらなくて私は彼女の頭に手刀を落とした。
『はい!?』
『痛い!』
彼女の悲鳴と君達の驚いた声が反響する。
『これでおあいこにしましょう』
そう言って私は笑った。
『あなたには敵わなかったな』
『何か言った?』
『何でもないよ』
小さく聞こえたその声に気づかない振りをした。敵わないと言う言葉を聞いて、それは私の台詞のような気がしてならなかったからだ。それからというもの仲良くなった私達は友好な関係を気付いている。分かったわと返信を返し、再び携帯を鞄の中に仕舞った。
何だか嬉しくなって歩く速度を速める。すると後ろから車輪が回る音がした。その音はだんだんと近づいてきてすぐ後ろで止まった。
「立波」
いつもより少し早い時間、朝焼けに光るアスファルト、色を失っていく世界の中で、たった一人輝く君の声だ。
「蒼也くん」
君の名前を呼ぶ。大嫌いな梅雨が、少しだけ好きになれたのは君に恋をした魔法のおかげに違いない。半袖のシャツにボタンを一つ開けた胸元。緩いネクタイ。泥はねを気にしたのかズボンの裾は捲られていて足首が見えている。昨日とは少し違うその姿に胸がときめいたのは私の心の中だけの秘密にしておこう。
「おはよう、今日は自転車なの?」
「あ、まあ」
そうなのと言いながら君に近づく。君が自転車で登校している所を見かけたのは初めてでは無いけれど、隣を歩くのは難しそうだなと思った。自転車を押させて隣を歩くのは悪いからだ。そう思っていた時、思いがけない言葉が降って来て私は驚いてしまった。
「後ろ乗ってく?」
「え?」
「二人乗り」
少し恥ずかしそうに顔を背けながら荷台を指差した君に、私は言葉が出ないほどうれしくて何度も頷いた。
前言撤回。梅雨が大好きになった。
「蒼也ー俺は見たぞ」
教室に入った瞬間飛んできた矢田くんに驚けば、君が彼に強烈な頭突きをしていた。
「痛い!!」
「うっ……いきなり何だよ翔」
お互い頭を抑えながらうめく姿に、失礼ながら笑いそうになった。一瞬の出来事過ぎて理解が追い付かないがこの光景が面白くてたまらないのは理解できた。
「いきなり何だよはこっちの台詞だよ、真面目に痛い」
「ごめんびっくりしてつい」
「お前の防衛本能はおかしいぞ蒼也」
涙目の彼がこちらを向く。
「おはよう立波」
「おはよう矢田くん、痛そうね」
「ええ、お宅の彼氏さんのせいでね」
「で、何だよ」
席につき鞄を下ろして二人で彼に視線をやる。話を戻せと君が言えば彼は机を叩いた。
「朝から!!二人乗りで違反登校していたお二人さん!!」
「うるさい……」
「そういえば二人乗りは違反だったわ」
今まで校則に違反した事なんて無かったから何がいけない事だったのか忘れていた。けれど校則を破ったという事に少しだけ嬉しい自分もいた。君といると私はどんどん悪い子になっていく。良い意味でも悪い意味でも君に影響されて生きているのだ。
「僕と一緒に花火大会に行きましょう!!!!」
「「はぁ?」」
一瞬の静寂の後、君と声が重なった。何言ってるんだと言わんばかりの声だった。意味不明な発言のせいでそれまで考えていた事が頭の中から消えてしまった。
「二人してそんな冷たい返ししないで泣いちゃう」
「ごめんなさい、悪気は無かったわ。ただ心底何言ってるんだこいつはって気持ちになっただけよ」
「立波最近冷たくなったね」
彼は馬鹿なのか何なのか分からないけど、いつも突拍子のない事を言い出す。思わず本音が出てしまったが泣き真似をしているだけなので別に傷ついてはいないだろう。
「何で一緒に行くわけ」
「だからー、俺と蒼也と立波と後里香誘って四人で花火大会行こうぜ」
「つまりは遊びに行こうってこと?」
「そういう事!」
花火大会という言葉に胸が躍った。今まで友人と遊びに行った事などほぼ無かった。花火大会なんて突然過ぎるイベントだ。
「紛らわしいんだよ言い方が。里香誘うなら先に言えよ、てっきり三人で行くかと思ったわ」
「俺そんなに勇者じゃないから」
カップルの間には入れない、そう言った矢田くんをよそに私は思わずつぶやいた。
「友達と花火大会…行ったことないから行ってみたい」
「いぇーい、決定ー」
「えー、本気で言ってる?」
気だるそうな声を出した君にシャツの袖を引っ張った。違うよ、友達とも楽しみだけど、何より君がいるから行きたいんだと思いを込めて見つめて見たが、君は声を詰まらせた後両手を上げて降参のポーズをとりそっぽを向いた。
「あー、はいはい行きます行きます」
「彼女強いな」
「でもテスト終わってからだけどね」
気を入れ直して私が言った言葉に二人が固まった。疑問に思い首を傾げれば二人とも頭を抱えだした。矢田くんに至っては冷や汗を浮かべている。一瞬で勉強をしていない事が分かり思わず苦笑した。これからは放課後、勉強会をやった方がいいのかもしれない。
「テスト」
矢田くんの死にそうな声が教室によく響いたが、皆聞こえない振りをしたので少し可哀想になったが、こうなったのは完全に彼の責任である。
「普段から勉強していれば困る事はないわ」
私の言葉に矢田くんは泣き叫び始めた。君と彼女は苦笑いをしてこちらを見てくる。一体なぜ私が悪いみたいな雰囲気になっているのだろうか。
「緋奈は偉いね、普段から勉強してるなんて」
放課後の教室で集まり勉強会を開いた。勉強会というより、私が教師役の塾のようだった。やる事がなかったからやっていた勉強は、こんな所で活躍する場を与えられた。正直、もう勉強などしなくてもいいのだが、突然生活習慣を変えられるわけでもなく空いた時間は参考書を読んでいた。陽の目を見る事のない知識ばかりだった。
「もう何も分からない、無理」
「矢田くん、そこはそうじゃないわ」
「先生ー里香も無理です」
「里香ちゃん、もう一度始めからやってみましょう」
先程から真っ白なままの二人の問題集に心配する。この二人は大丈夫なのだろうか。私達と違って未来があるのに、まだこれから沢山学ばなければならないのにこの先問題が起きない事を願うばかりだ。
無駄になる知識も、彼らに教える事によりいつか陽の目を見るかもしれない。古文の教科書を眺め唸り声を上げている彼女に訳を教えていく。千年も前の人たちが遺した恋の歌だった。
もしかしたら、私は自分が死んだ後も生き続ける人に何か残したかったのかもしれない。徐々に理解し始め解けるようになった二人に笑みが零れた。問題児二人を見ていたため放ってしまっていた君を見。君は窓の外を眺めていて心ここにあらずだった。
「蒼也くん?」
思わず声をかけた。今、ここで声をかけなければどこか遠くに消えてしまいそうなそんな気がしてしまった。再び唸り始めた二人をよそに、私は君の顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
「ごめんボーッとしてた」
ぎこちない笑顔だった。私が言うのも何だが、君は笑顔が下手くそだ。特に、嘘をつくときの笑顔が一番不格好である。一緒にいるようになって二ヶ月が過ぎ、君の癖を覚え始めてきた私がいる。
基本、笑う時は引き笑い気味。矢田くんといる時は鼻で笑う。里香ちゃんといる時は面倒くさそうにしながらも眉を下げて笑う。妹のゆずちゃんといる時は優しそうに笑う。私といる時も、君は笑う。その全てに当てはまらないような表情で微笑む。目尻に皴を寄せてどこか諦めを孕んでいる表情だった。
「そう」
視線を外して隣にいる彼女の問題を見る。君の事だから、死ぬから勉強なんてしなくていいテストなんて悪い点でいいとは言わないだろう。それをすれば多くの人に勘づかれてしまうからだ。今の君は、周りにばれるのが一番嫌だと知っている。
「そういえば立波ってさ」
無駄口が多かった矢田くんが声を上げる。彼は勉強を投げ出す寸前だ。しかし、矢田くんの成績は最早あってないようなものだった。ここで反応しなければ勉強を止めてしまうかもしれないと思い、私は返事を返した。
「なに?」
「何でそんなに頭いいわけ?ずっと昔から勉強してたの?」
「まぁ…そうね、確かに」
それしか取り柄がないとでも言えば良いのか考えて里香ちゃんの問題集を採点し始めた。赤い丸が連続して、教えたこっちも嬉しい限りだ。
「私の家はね、厳しかったの。小さい頃からひたすら勉強させられて、ピアノ、バレエ、英会話とかとにかく沢山の習い事をさせられていて友達と遊ぶ暇なんて無かったわ」
何となく、問題集から目を離さなかった。君がどんな顔をするのか見たくなかったからなのかもしれない。
「うわあ……お嬢様だ」
「里香うるさい、続きどうぞ」
「ありがとう矢田くん。それでね最初は友達が沢山居たのだけれどいつしかどんどん離れていって。いつの間にか一人になってたの。でも両親が喜んでくれるならそれで良かった、頑張っていけた」
もう思い出のようなものだ。今の私は両親が喜ぶから勉強しているわけではない。ただ、暇つぶしに披露する場のない知識をつけているだけである。
「でもそれは長く続かなかったの。だけどそうも出来ない事情が出来ちゃって」
上手く笑えているだろうか。
「その時に思ったの。私は親の敷いたレールだけを走ってて、友人も恋人も、何もかもを犠牲にして歩いた道に意味が無かったって事。じゃあ何の為に我慢して今まで生きてきたんだろうなって思って」
数か月前まではそれで良いと思っていた。けれど君の最期を知って、自分の最期を知ったから、こんな終わりは嫌だと思った。最後くらい、自分の手で自分の願望を叶えたかった。
「だから、今我慢して諦めていた事を沢山やってるの。友達とお話して遊んで、恋人と歩いて笑いあって。今まで出来なかった寄り道もお出かけも。全部が全部とても楽しいの、だからありがとう三人とも。一緒にいてくれて」
これは本当だ私はもう二度と来ないこの時間を最後にしたくないと思うくらい幸せな時間を過ごしている。
「緋奈ー!!!」
隣の里香ちゃんが突然抱き着いてくる。
「友達だからね!沢山沢山遊ぶんだからね!」
「うん」
涙目で言う彼女の言葉が嬉しくて、私は笑いながら頷いた。
ねえ、二人は私がいなくなった時に悲しんでくれますかなんて、私が見る事の出来ない未来の話をしたくなって口を閉じ笑った。君はまた、ぎこちなく笑った。
テストはいつも通り、特に変わった事も無く過ぎていった。解答用紙は全て埋まっていて、問題用紙に分からない問題はひとつもなかった。このまま行くといつも通りまたトップかもしれない。順位なんて最初から何の意味も持たない。全て埋まった解答用紙を裏返してひとつ、息をついた。静寂に包まれた教室からはシャーペンの音しか聞こえない。何も考えずに済むからこの音はとても落ち着くいた。時計を見ればまだ二十分も時間が余っているので何をすべきか迷い目を閉じて最後に控えるテストに諦めを抱いた。
今日はテスト最終日だった。この後の色彩テストで今回のテストはおしまいだ。
パソコンに向き合ってデータを入力していく。最早見えない色でも適当にクリックをする。結局この結果が行きつく先は父だ。ふざけても問題はないだろう。だって私はこれを受けなくても無彩病だと分かっているのだ。しかし、思ったよりも見えない色が増えていて感心する。日常生活ではあまり意識していなかったからだ。
「分かるわけないだろ…」
隣から君の小さな呟きが聞こえた。灰色に染まる画面を見て思った。私も君も死の足音が聞こえるらしい。焦る君の表情が視界の端に映って、私はクリックする手を止めてしまった。
「終わりです、画面の終了ボタンを押して」
チャイムの鳴る音が聞こえなくて、いつの間にかテストは終わっていた。画面は最後の数問を残したままだったがこれも全て灰色だ。
「やっと終わったー!」
騒がしくなったクラスの中で、ひと際大きな声が聞こえる。これはきっと矢田くんのものだろう。
「大丈夫?」
立ち上がって先に部屋を出ようとした君を捕まえて後ろから声をかける。
「大丈夫」
その下手くそな笑い方に、私は居ても立っても居られなくなって君の手を取って歩き出した。
「え…立波?」
歩く速度を速めて目指すはあの場所だ。
「立波、どこ行くんだよ」
一か月前、抱きしめられた階段裏で、私は座り君に向かって両手を広げた。
「はい」
「いや、全然分からないんだけど」
首を傾げながら座った君を抱きしめる。
「は、え?」
戸惑う君の頭を抱えて腕に力を入れた。少し硬い髪が指に絡んでいく。
「大丈夫」
言いたかった事はこれだけだった。
「大丈夫だよ」
頭を撫でながら私は大丈夫だと何回も繰り返した。まるで自分に暗示をかけているみたいだった。君の頭が、ゆっくり遠慮がちに私の肩に沈んでいく。私は手を止める事なく撫で続けていた。
これ以上もこれ以下も言えないのだ。かける言葉も見つからない。
「嘘が下手くそだなあ」
ああ、下手くそだ。笑ってしまうくらい、君は嘘が下手くそだ。嘘という言葉が似合わないくらいに下手くそだ。どれだけ変わってしまっても、どうしたって下手くそだ。
私は上手に笑えているだろうか、この嘘をつき続けられるためこの先も笑えるだろうか。大丈夫と言い続けられるだろうか。死は着実に私たちの影を侵略し始めている。
「ありがとう…」
不意に小さく聞こえた声に、礼を言いたいのはこっちだよと思ってしまった私がいて、また乾いた笑みが零れた。
どうしようもない運命の前で、何も出来ない未熟な私たちがただ立ち尽くしていた。