君を春の日に例えようか
駅前の喫茶店は静かな雰囲気だった。賑やかな外とは異なり店内はどこかで聞いたような洋楽が控えめの音量でかかっている。モスグリーンの壁紙に淡いオレンジ色の間接照明が影を作っている。前々から気になっていたカフェに放課後二人で訪れていた。店の看板商品であるというドーナッツを頼み他愛もない話をした。付き合い始めてから、一ヶ月が経過していた。
甘さ控えめでしっとりとした口当たりのドーナッツがおいしくて、あっという間に食べ終わってしまった。空になった皿の中には先程まで食べていたドーナッツの欠片が転がっている。手持ち無沙汰になってアイスティーのストローを指でつついてみる。浮かんでいたミントがゆっくりと沈んでいった。
不意に、君がまだ一ヶ月しか経っていないのかと口にした。憂いを帯びた目は窓の外に向けられている。
「時間はあっという間だと思うけど」
ストローを数回まわしてみる。氷が小気味の良い音を奏でた。はしたないと言われるかもしれないが、私はこの音が好きだった。
目の前には半円になった食べかけのドーナッツに湯気のないブラックコーヒーが置かれている。視線がこちらに向いたのに気付いたが、目を合わせる気もなく私は伏目がちにストローに口をつけた。
「まあそれは言えてるけど」
「でしょう」
君の視線は再び窓に移る。あれだけ咲き誇っていた桜はいつの間にか跡形もなく消えてしまった。穏やかな風が吹く、新緑の季節になった。眩しい季節に目を細めながらもここじゃないどこかを見ている君の横顔を見て切なくなったのは言うまでもないだろう。
桜が見えなくなって安心した。一週間ほど前君が不意に口を開いた。絨毯のように広がっていた薄桃色の花はいつの間にか消えてしまっていた。視線を下げても、空を仰いでも、桜はもうどこにもいない。世界を埋め尽くしていた薄桃色が全て灰色に見える事実がかなり堪えたのだろう。
私は君を見る度にその髪の色が分からなくて絶望しているけど。なんて心の中で呟いては飲み込んでいく。
「だってもう一か月経ってるのだから一年なんてボーっとしていたらあっという間に過ぎてしまうわ」
「分かってるよ」
頬杖をついた君の横顔を私は見つめるだけしか出来なかった。
「何かさ」
「なに?」
頬杖をつきながらも君は視線は変えずに言葉を続ける。
「実感が沸かないんだよ」
ストローを回していた手が止まる。グラスからは氷の傾く音が聞こえて静寂によく響く。
「見えなくなっていくのは分かるんだ。昨日見えていた色が白くなる、無彩病は今も進行している事は分かる、でも」
「死ぬなんて考えられない?」
「そう、考えられない」
分からなくもない。私自身、一年後に訪れる死はおとぎ話なのではないかと思っているほどだ。しかし、君を見る度、灰色の髪を見る度にそれは間違いだと実感させられる。
「緩やかな死って言うのは、間違った表現ではなかったんだな」
「そう…」
「それと、家族に言った方がいいのかずっと迷ってる」
私はストローから手を離した。
「私の考えを口に出してもいい?」
「どうぞ」
「正直、どちらが正解かは分からないわ。伝えるのも、伝えないのも。どちらも正解だし不正解だと思う」
あくまで君の選択だ。私の意見は参考にもならないだろう。
「俺もそう思う」
でも、と言って顔を上げる。君と目が合う度心臓が高鳴る癖をそろそろ何とかしなければならないと思った。
「私だったら、伝えない。ばれてしまったらもう意味はないけど、大切な人には伝えたくない」
「理由は?」
「だって自分は今から死ぬんだって伝えられても困るだけだし、それに最後までいつも通りでいてほしいもの。さようならを言う最後までいつも通りでいてくれたら、当たり前に自分との明日を信じてくれていたら。もしかしたら目が覚めて明日が続いていてくれるかもしれない」
「それ自分にも嘘つくようなものだろ」
「そうだよ。最後に見る顔が、もう別れを知った悲しい顔よりも何も知らず笑っている顔を見る方がいい。でもね、結局自分自身が怖くて仕方ないから相手にも自分にも嘘ついてごまかすだけ」
君に話して初めて、自分自身が思っている以上に恐怖を抱いている事に気付いた。嘘をつき続けていく。自分にも君にも周りにも。私が決めた事だ。いつか重荷になってしまうかもしれないという事も理解している。
「まあでも自分でちゃんと考えた方がいいわ。時間はまだあるから」
「そうだな」
馬鹿みたいだ。自分で自分の首を絞めているだけだ。君が当たり前に明日を信じて生きていたら、その間に治療法が見つかるかもしれない。もしかしたら、死ぬはずの日を越せるかもしれない。都合のいい事ばかりを口にして言い訳を並べる私が滑稽で笑みが零れた。
愚かだ。
***
君と寄り道をした次の日、いつものように学校に登校すれば教室が騒がしかった。大方また矢田くんが騒いでいるのだろうと思っていたが廊下をすれ違う人達はこちらに視線を向けてきている。その視線はいつもの距離を置くような視線ではなく、興味を抱いた目だった。
一体何かしただろうか。全く持って憶えがない。新学期が始まってから二週間ほど、周りの目を惹く存在になっていたのは事実だが、このように好奇の目を向けられる事は初めてだ。あまり気分のいいものでない事は確かだ。
「何かしら」
訳が分からないので気にしない振りをして教室に向かう。そしてドアに手をかけた瞬間、視線の意味が明かされた。
「蒼也、お前いつから立波と付き合ってたんだよ!」
矢田くんの声にドアを開こうとした手が止まった。はて、一体どこから聞いたのだろうか。面倒な事になるのは予想が出来ていたので、私から彼には話していないし、この反応だと君も話していなかったのだろう。
「それ、誰から---」
面倒だと溜息をついて扉を開く。驚いたのだろう、君は肩を跳ね上げてこちらを見た。
「何の騒ぎ?」
君の背から顔を出した瞬間、視線が一斉にこちらに向いた。
「立波さん、新藤と付き合ってるの!?」
自分は言ってないと小声で君が耳元で伝えてくるので私は何度か頭を上下させた。
「付き合ってるけど、何か問題でもあった?」
ここは嘘をついてもしつこく言及されるだろう。高校生とはそういう生き物だ。ならば正直に話す方が楽だと思い付き合っている事を認めた。先程まで騒いでいた教室内は一瞬で静寂に包まれた。
「言ってよかったのかよ」
「事実だし別に隠す必要もないかなって」
面倒だからと言葉を続けたが、半分本当で半分嘘である。君を取られないようにするための、牽制の意味も込められていた。君は意外にも人気があるらしいと前に矢田くんから聞いていたので、この中に少しでもそう言った感情を持つ人が消えればいいと思って言ったが、早速奥の方で半泣きになっている女の子が周りに慰められているので効果はあったらしい。酷いと言われるかもしれないが、これは一種の戦争なのだ。
私は君が好きなので、君が周りに好かれているのは嬉しくもあるが、好意を持たれて下心がある人間が近づいてくるのは許せないのだ。大体の人間が嫌がるだろう。彼女には悪いが、立波さんじゃ勝ち目がないよと言ってる辺りこのまま諦めてくれそうだ。
「そうだよ、付き合ってる」
性格悪いな私考えていると、突然君が私の右手を握り締めて宣言した。驚いた私は一瞬固まってしまったけれど、嬉しくて堪らなくって笑みが零れるのを感じ大きな手を握り返した。
しかし、それは面倒事を招いてしまった。
「付き合ったんだな」
朝の澄んだ空気が教室を支配していた。いつもより早く登校した私は教室で本を読んでいた。朝練習があったのだろう、矢田くんは首にタオルをかけ教室のドアを開けた瞬間口を開いた。
「おはよう」
「おはよう、で、いつから付き合ってたの?」
「一ヶ月くらい前かな」
「最近じゃん」
彼は自分の席に向かいこちらを気にすることなく着替え始める。私は次のページをめくった。
「そっかー、蒼也に負けたかー」
「勝ち負けとかじゃないでしょ」
「俺が先に狙ってたのに」
「言ったでしょ、矢田くんとは絶対ないって」
「言ったっけ?」
「言った」
彼の方を向くわけでもなく文章を目で追っていく。
「ええ、何でだよ」
「だって矢田くんの好きは本心じゃない」
「本心だよ」
「嘘ね」
「何でそう思うの?」
私は顔を上げる。ワイシャツの前ボタンを留めている彼は手を離した。後四つほどボタンが残っている。
「本当に好きなら、その視線すらも違うもの」
「例えば?」
「好きで好きでしょうがなくて、その人のためなら何でもしたくて、自分が犠牲になってもいい。っていう熱を孕んだ目が見えないもの」
「蒼也はそうなの?」
「さあ」
「さあって」
視線を再び本へ戻す。君を夏の日に例えようかと始まった文章に、私なら君を何に例えるだろうと考えた。恋愛は美しく愚かな者だ。誰を愛しても、自分は恋をする前とは変わってしまう。この本はそれを教えてくれるいい教材だ。
「少なくとも私は蒼也くんに対してそう思ってる」
やはり春の日だろうか。なんてくだらない事を考えながら、文章を君に当てはめていく。新しい楽しみ方を見つけた。これはいいかもしれない。
「矢田くんは多分、本当に人を愛した事がないのよ」
昨日よりも今日、今日よりも明日、どんどん君が好きになっていく。日常生活の中で君を探してしまう。誰かへの愛を謳った文章の中でさえ、君を当てはめてしまう。これは一種の病だ。無彩病にかかると同時に、私は恋の病も発症してしまったのかもしれない。
静かになったと思い視線を上げれば、不貞腐れた顔で机に座る彼がこちらを見ていた。何か言いたげであったが、言い返す言葉も見当たらないのだろう。彼は大きくため息を吐いた後、この前のと話し始めた。
「付き合ってるの何で知ってるのかって話」
「ええ、そういえばなぜだろうと思ってたわ」
「蒼也の幼馴染って知ってる?」
私は首を横に振る。聞き覚えのない単語だ。
「女バスのやつなんだけどさ、そいつから聞いたんだよ」
女子。その単語に思わずため息を吐きそうになったが堪えて、それで?と聞き返す。しかし、君が話さないという事はそこまで近しい人間ではないのかもしれない。
「蒼也の妹に会った?ゆずちゃんって子」
「ええ、会ったわ。とっても可愛い子ね」
「そう、そのゆずちゃんから聞いたみたい」
一ヶ月ほど前に出会った天使のような女の子を思い出した。髪色は灰色で、君と同じ色だという事が一瞬で分かってしまい切なくなったが、明るく人懐っこい性格で一瞬で虜になった。関係性を聞かれたので君が彼女と紹介してくれた。あの時はとても嬉しくて浮かれていたが、まさかそんな所から漏れているとは思いもしなかった。しかし、彼女に罪はない。
「で、その蒼也の幼馴染なんだけど結構面倒な奴だから気を付けてって話」
「面倒ってどういう事?」
「昔から蒼也の事が大好きで相手されなくて拗ねてるって感じ?」
なるほど。こんな所にも伏兵がいたのかと思ってしまった。教室で宣言したのを彼女は人伝に聞いているだろう。
「あいつ何しでかすか分からないから、一応気を付けて損はないな。悪いやつってほどでもないんだけど、まあちょっと面倒くさいんだよ」
「そう、その子の名前は?」
「浅田里香」
まさか言われた通りの事になるとは思いもしなかった。私は頭を抱えたくなった。昼食を終えお手洗いに向かった帰り、見知らぬ女の子に声をかけられた。
「立波緋奈?」
「そうだけれど、どちら様かしら、お会いした事ある?」
後ろを振り向けばショートカットの元気そうな女の子が立っている。しかし、その笑顔からは悪意が滲み出ていた。私の脳内で警報が鳴り響く。これはよろしくない感じなのではないだろうか。目の前に立っている彼女は明らかにこちらに向けて敵意を示している。このショートカットの少女を、私はどこかで見た気がした。
「ちょっと来てくれない?」
有無を言わさず、彼女は数人の友人を連れて私を囲んだ。
本人の口から出た名前が数日前に聞いた名前と一致し合点がいった。
「あんた何なのよ!」
「何なのよって言われても何て返せばいいのかしら…」
場所は変わって体育館裏に連れて来られた。後ろには壁があり目の前には彼女と数人の女の子達が逃げないようにと囲んでいる。まるでどこかの物語のようだと思った。有り触れた少女漫画の場面の一つのようだ。この後ほとんどの場合誰かが助けに来てくれるのだが、私のヒーローは来ないようだ。
体育館裏に呼び出されて文句を言われる。とても不思議な感じがした。自分には縁がないと思っていた事が目の前で起きているため情報処理に時間がかかる。わざと余裕ぶって返した返事は逆に彼女の神経を逆撫でするようだった。
「あたしの方が蒼也の事ずっと好きだったのに!」
「そんな事言われても困るわ。私は彼と別れるつもりはないもの」
そう、悪いけれど別れるつもりは毛頭ないのだ。そこに君の気持ちが付いてこなかったとしても、これは私のわがままだとしても。君から振られるまで、私はこの契約のような恋を続けるつもりだ。
「えっと、浅田さん?蒼也くんとは幼馴染なのよね」
「そうよ、だからあたし…ううん、里香の方が蒼也にふさわしいんだから!」
どこかで見た事があると思っていたが、記憶の中で彼女の影がとある女の子と重なった。彼女はあの子だ。君に着いて回って笑っていた女の子だ。まさか巡り巡ってこんな形で再会するとは思いもしなかった。もっとも、彼女の方は私の事を知らないので再会とは言わないだろうが。
この子は君の事が好きだ。ずっと隣にいたのに突然現れた私が奪ったのが気に食わないのだろう。どんな手口で奪ったのかを言えば激昂しそうだ。しかし、私にも維持がある。彼女が君に相応しいと周りは言うかもしれないが、今君と付き合っているのは私だ。
「でもそしたら貴女は彼ともう付き合っててもおかしくないはずだわ。ねえ」
「何よ」
でも。
「八つ当たりに付き合ってる暇はないのだけれど」
私にだって譲れないものはある。たとえこの想いが醜く歪んでいたとしても君を好きな気持ちは変わらないのだ。
「ふざけないでよ!」
瞬間に目の前の彼女に押し倒されていた。腰を強打した。痛いと悠長に思っていたのもつかの間、左頬に強烈な痛みが走った。殴られた。手を上げられているのにも関わらず私はどこか遠い所で起きている出来事のようにしか思えなかった。
「ちょっと里香手出すのはまずいって」
私は存外冷たい人間なのかもしれない。くだらないと思ってしまった。だって好きなら、大好きでずっと隣にいる事が出来たのならその間、何度だってチャンスはあったはずだ。私が隣に居たかった期間、彼女は君の隣で笑っていた。恵まれた環境にいたのに、何もしなかったのは彼女だ。告白も好きになってもらう努力もせず一方的に気持ちを押し付けようとした結果がこれではないのだろうか。
「里香が!里香が蒼也の一番なの!里香が!」
まるで子供の駄々だ。ああ、くだらない。くだらない。くだらない。こんな事に時間を取っている場合じゃないのに、私には一分一秒が惜しいのに、彼女なんかに構っているくらいなら君の隣で笑っていなくてはならない。体制を変えて座り口元を拭えば鈍い痛みが走った。口の中が切れているようだ。面倒だ。舌で口内を一周し歯がちゃんとある事を確認する。だって十七の少女が葬式の時に歯が欠けていたら切なくなるだろう。
彼女の拳はさほど強くはなかったので歯が欠けるまでには至らなくて助かった。
「殴られて血が出たのって初めてかもしれないわ」
私は初めての経験に驚きを隠せずにいた。そうか、殴られるとこんなにも痛いものらしい。
「里香が!!」
振り被った拳がスローモーションに見えた。避ける事は出来たが身体は動かなかった。その拳を受け止めなければならないような気がしてしまったのだ。卑怯な手で君を奪った贖罪故だろうか理由は分からない。こんな時、物語の世界では主人公が助けに来てくれるけれど私の物語にはそんな存在がいない。襲い来る痛みにせめて歯は欠けないようにと噛みしめてゆっくり目を閉じた。
「え…?」
世界が静かになった。落ちてくるはずの拳が来ない。ゆっくりと目を開ければそこには君の姿があって安堵と共に頬が緩んだのが分かった。
「遅いわ」
来てくれるなんて思わなかったのだ。その背中はいつもよりずっと大きく感じた。
「悪い」
「蒼也…」
振り被った拳を止めた君の大きな手のひらが彼女から離れた。彼女の存在を無視するかの如く君は私に近づくものだから、何だか落ち着かなくて冗談を言ってみた。
「ヒーローは遅れてやってくる?」
本当は来るとは思っていなかったからとても安心した。私はまだ世界に捨てられていないらしい。いつの間にか恐怖で身体が震えている事に気付いた。本当は怖かったのだ、口には出さなかったけれど身体にはしっかりそのサインが現れていたらしい。
「遅れてごめん」
「いいよ、来てくれた」
君の首に手を回し抱きしめた。ねえ、ありがとう。来てくれてありがとう。助けてくれてありがとう。あの子じゃなくて、私を守ってくれてありがとう。そしてごめんなさい。言いたい事が沢山思い浮かんでは消えていく。君は私の背に手を回してきつく抱きしめ返してくるので抵抗する事無く肩に顔をうずめた。優しい手が頭を数回撫でた瞬間涙腺が緩んだ気がした。
「あ、血がついちゃうわ」
私は顔を上げ口元を抑えた。君は気にした様子もなく眉を下げて笑った。
「いいよ、別に」
口元を抑える手をはがして君は制服の袖で血を拭うものだから少しばかりの抵抗の声を上げて君を軽く叩いてみたが効いてないらしい。顔を傾けてされるがままにする。
「何で…」
君の肩越しに聞こえた声の方向を見れば、そこには彼女がたった一人で立っていた。遠くに矢田くんが見える。他のメンバーはどうやら彼が帰らせたのだろうか視線が合った。彼は何故か、寂しそうに笑っていた。
「何でその子なの!里香はずっと隣にいたよ?蒼也の隣にいた!」
「里香…」
叫びだす彼女を見て君は手を離し私を庇うように立ち上がった。
「何で、何で!」
「里香」
彼女は君を殴る。何度も何度も、力の籠らない手で君の肩を殴り続けた。
「俺里香の気持ちに気づいててずっと気付かない振りして逃げてた」
彼女は君を見て黙った。
「俺、里香の気持ちにはこの先もずっと答えられない。ごめん」
ひゅっと。息を呑む音が聞こえる。私はただ眺めているだけしか出来なかった。
「里香は確かに大事な存在だよ、でも。これまでも、これからも。俺にとって里香は幼馴染でしかないんだよ」
「何それ…」
糸が切れたようにその場に座り込む彼女が涙を流しながら下を向いたまま呟いた。
「蒼也は…本当に立波さんの事好きなの?」
好きと言わなくてもいいよと言いたくなった。正直であるべきだ。例え歪んでいようと、彼女は君が好きなのだ。ならば正直に答えるのもありだ。だってこれは契約だ。君の言葉を逆手に取って願望を叶えた偽物の関係だ。
しかし、返って来た言葉は予想と大きくずれた。
「好きだよ」
声が漏れそうになった。
「緋奈のことが、好きだ」
好きと言われた。
「次こんな事があったら、俺は里香を許さない」
手を引っ張られ立ち上がる。君はそのまま私を連れてその場を後にした。振り向き様に見えた彼女は酷く歪んだ顔で静かに泣いていた。
「蒼也くん?」
控えめに、それはもう控えめに声を発した。君の顔色をのぞき込むかのように首を傾げてみれば視界に入った横顔が見た事もない顔で怒っていたからさすがの私も怖気づいてしまった。
君の足が止まる。辿り着いたそこは校舎の一階の階段裏だった。掃除用品が散乱している人気のない場所を君は足で乱暴にどかしスペースを作り上げた。そして手を離した瞬間、しぼむ様にしゃがみ込んだ。
「良かった…」
聞いた事のない声だった。君は両手で顔を覆う。私は立ったまま君を見下ろしていた。
「ごめんな」
「何で謝るの。貴方は何も悪い事してないじゃない」
「いやあれは俺のせいでしょ」
項垂れる君の目の前にしゃがみその額を軽く小突いた。君のせいじゃないという事を教えるためだった。
「あなたは、何も、してない!」
三回軽く小突いた後、私は笑ってありがとうと感謝を述べた。責められるのは私の方だ。あの日私が自らの願望を叶えたいがためにこの恋を始めたのだ。狡猾な人間にはお似合いの報いだった。
「ナイスタイミングだったわ」
「一回やられた後だったじゃん」
「それでも、二発目は食らわずに済んだ」
何食わぬ顔で淡々と、未だに迫る恐怖を隠すように笑った。君の前では何を考えているか分からない女の子でいたい。死の影すら見えない存在でいたい。掴めないままでいなければならないのだ。
掴まれたらきっと、この嘘さえ崩れてしまうから。
「怒ってないのかよ」
「どうして?」
嘘だ。本当は怒っている。だって理不尽ではないか、無抵抗の女の子を捕まえて集団で囲んで手を出すなんて愚かにも程がある。腹が立つに決まっている。
「だっていきなり呼び出されて殴られてるんだぞ、そんな平然としてられるかよ」
なるほど、と納得したかのように手を叩き君の右手を取った。そうされても良いような事をしているのだ私はと口に出来るはずもなく飲み込む。
「確かに腹が立った所もあったし、怖いとも感じた」
「だったら」
「でもね、私彼女が怒った理由、分かる気がするから」
「え?」
君の手の指に自身の指を絡ませたり両手で握りしめたり、私を守ってくれた大きな手に触れながら話を続ける。
「ずっと小さい時から好きだったのでしょう?確かに人に当たるのは良くないと思うけど、ただ、もっと早くに自分と向き合って答えを出してほしかった。でも自分と向き合う前に他の子と付き合ってしまったからやりきれない気持ちが爆発しちゃったのよ、そうじゃなかったらあなたが来た後でも彼女は私に当たってたと思うし」
「……」
「それにね、本当はやっぱり怖かったの。あんなことされるの初めてだったから。でも」
君の手を両手で包み込み自分の胸元に連れていきそれを抱きしめた。これは本心だ。
「あなたが来てくれた」
君が来てくれた。私の味方でいてくれた。
「あなたが助けにきてくれたから、怖いのもなくなってしまったの。まるでヒーローだわ」
もう一度、ありがとうと言って笑った。上がった口角に塞ぎかけの傷が痛んだが気にしなかった。君のおかげで私は彼女を嫌いにならずに済んだ。許せないけれど、理解が出来なくもなかったからだ。もし、あのまま一人でやられるだけだったらもっと凄惨な仕打ちをして返さなければならないと思っていた所だ。
君は知らないだろう。私は誰よりも冷たくて浅ましくて愚かな人間だと。太陽のような君の隣に居るのがおかしいくらい最低な人間だ。出来た人間から程遠い、普通の人からも程遠い、君の前で格好つけているだけなのだ。
その瞬間君が私を抱きしめたから、歪み始めた笑顔を崩さずに済んだ。身体から温かな熱が伝わってきた。
ああ、好きだ。大好きだ。今この瞬間も、過去も、きっとこの先の未来も永遠に君が好きだ。君が初恋で君が最後の恋だ。一秒経過するたび、この胸に残る鼓動の数が減っていく。君と一緒にいるとより早く寿命が縮んでいく。それでもいいと思えるくらい、好きで好きで仕方がなかった。この嘘をどうか最後まで気付かないで欲しい。もし、奇跡が起きて二人で生き延びれたのなら話す予定だから今は知らないままでいて欲しい。
恋は私を狂わせた。
いや、狂っているのだ。今、この瞬間。目が閉じる最期の時まで。
死ぬ間際になって思った事はたった一つしかなかった。
363/365日。午後三時四十分。春の風がカーテンを揺らした。
机の上、ティーカップに入った紅茶はいつの間にか冷めてしまっていた。元々物の少なかった部屋はもう何もない。最低限の家具と最低限の着替え。最低限の筆記用具。段ボールひと箱にも満たない私物は覚悟の証だった。引き出しの中、大事にしまってあるもの数個の物は君から貰ったものだけだ。
君に残す言葉は何もない。
伝えたかった言葉は残り少ない人生で伝えきれない事も分かっている。愛の言葉はいつだって言い足りないくらいが丁度いいのだ。
書きかけの真っ白なノート、一番上の段に書いた365日という文字に二重線を書いて消す。そして366日と書き換えた。
机の上に置かれている透明な液体が入った小瓶を手に取り中の液体を揺らす。これは神様が私に残してくれた最期まで嘘をつき続ける証だ。一縷の望みをここにかける。当たり前に過ごす日常が、後少しでいいから伸びてくれる事を望んでいる。
「もう、永遠に届かないね」
自嘲染みた笑いを浮かべた。
「ねえ、好きよ」
好きはいつの間にか、愛に変わっていた。もしかしたら、初めから愛だったのかもしれない。君がこの先生きてくれるのなら私が死んでもいいと思っていた。しかし、他の誰かに獲られたくない辺り、まだどうしようもない欲が残っているのかもしれない。
「君の好きと私の好き、どっちの方が大きいかなあ」
間違いなく私だろう。君の想いは充分すぎるくらいに伝わった。例えるなら二人で雨宿りをしたあの初夏の夕立のように、絶え間なく降り注いでこの身体に染み渡っている。
「一瞬でも同じ重さになった事はあるのかなあ」
それでいいのだ。私ばかりが重いままでも構わない。
「嘘つきなの私」
瓶の蓋を開ける。迷いはなかった。
「最期まで君に未来を信じていて欲しい。私まで終わるのだと言う事を知らないままでいて欲しい。一緒に心中みたいな考えをして欲しくなかったから。君にこの一年を初めましての時のように無邪気に過ごしてほしかったなんてただのエゴね」
そういえばまだ、君を夏の日に例えようかの文章を、君に変えていなかった。残りの時間で考えてみるのもいいかもしれない。文章にしなくてもいい。私の心の中に留めておけばいい。ただの自己満足だ。
瓶が、傾いた。
「見届けるから。その後、追いついてしまう事を許してね」
一瞬の苦みと共に、液体は喉元を通り抜けていった。喉が音を鳴らし液体が完全に胃の中に入った事を確認する。一瞬目眩がしたがすぐに収まった。視界はまだ、灰色のままだ。
今この世で、さよならを言わないために、最後の嘘をつこうと思う。