僕とアカリ (1)
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飲み会のとき、僕はアカリと連絡先を交換した。交換したからと言ってもその後すぐにどちらからも連絡をすることはなかった。あの日に彼女と話したあと、特に何も変わらなかった。僕らはすれ違っても相変わらず挨拶をしなかったし、ましてや話すような機会にも恵まれなかった。
そんな日々を過ごしているとき、僕はふと思い立ってメールアドレスを変えた。メールアドレスを変えるとき、僕は携帯に登録されている電話帳に残す人とそうでない人を分別する。そうして残そうと決めた人だけに新しいメールアドレスの連絡をすることにしているのだ。残すと決めた人は僕のなかで明確な基準があるわけではない。だから僕は電話帳の中にアカリの名前を見つけたときも、特に大きな意味はなく彼女の連絡先を残すことを決めたと思う。でもこれは僕自身に対する言い訳だけれど、学校に通っている間は彼女と連絡を取る必要が出てくるかもしれないし、僕はあの日に彼女と交わした会話を気に入っていた。
メールアドレス変更のメールを一斉に送信する。今日は特に予定がない。ストックが少なくなっている文具でも買いに行こうと思い、準備をする。もう秋になろうとしている。でも、まだ真っ昼間と言える時間帯、外は暑いだろうか。念のために薄めの上着を鞄の中に入れ、僕は家を出る。自転車に乗って隣駅までゆっくりと自転車を漕いでいく。
僕が住んでいるこの街は、自分で住むことを決めたわけではない。僕の両親が結婚してからずっと住んでいる街だ。だから僕はここで生まれ育った。近所の小さな商店街のことも、小学校や中学校への道も、一緒に学校へ通った同級生の家の場所もちゃんと知っている。でも、知っている、ただそれだけだ。それらと深く付き合った記憶とか、優しくされたり傷つけられた記憶とかが、あるような、ないような。思い出そうとするとなんだかそれらの記憶に無理やり蓋をしたように、曖昧な記憶しか思い出すことができない。
そしてそれらの記憶をもし正確に思い出せたとしても感傷に浸るとか、そういった心の動きが僕にできるようには到底思えない。ただなんとなく、そのまま時の流れに身を任せて今日までたどり着いた。それが今の僕だ。そう、僕は自転車をゆっくりと漕いでいく。
買い物から帰ってきて携帯電話を見ると何通かメールが届いていた。メールアドレス変更の連絡にわざわざ返信をするマメな人間が僕の友達か知り合いに何人かいるということだろう。ふと、僕はその中にアカリの名前を見つけた。彼女もマメな人間なのだろうか。僕の中で彼女がそちら側にいるとは思えなかった。まあ、これは僕の彼女に対する勝手なイメージだけれど。そんなことを考えながら何の気なしにメールを開いて読む
ナオくん、こんにちは。
メールアドレス変更の連絡ありがとう。連絡先、交換したけれど結局一度もやりとりをしていないね。そう思って返事をすることにしました。
突然だけど来週の土曜日の予定空いていない?それから、美術館に興味はないかな?行ってみたい美術館があるの。もし良かったら一緒に行かない?
アカリ
僕はそのメールの内容に驚いた。まさか彼女からそんな誘いがあるとは思いもよらなかった。僕は休日に友達と遊びに行った経験がほとんどない。休日と言えばひとりで買い物に行ったり、家族で食事に出かけたりするくらいだ。長期休暇は図書館に通って勉強をしたり、時々旅行に行ったりする。振り返ってみても休日に友達と遊んだ記憶が、大学に通うようになってからは特にない。学校が終わったあと、たまたま一緒にいたからその場のノリに合わせてご飯を食べに行ったりゲーセンに行ったりはするが、わざわざ休日に会うような約束はしない。
だから、せっかく誘ってくれた彼女にどう返信したらいいかわからなかった。もし一緒に行くことにしたとして、僕は彼女のことをほとんど知らない。どんなふうに待ち合わせをするのかとか、どんな話をしたらいいのだろうとか、相手は女の子なんだからその隣を歩くことになる僕はどんな服装をすればいいのかとか、そういった知識が僕には欠落している。
そこまで考えてはたと冷静になる。僕はこの彼女の誘いを断るつもりがまったくない。「行きたくない」とは一度も考えなかった。その逆で、すっかり彼女の誘いに乗って行く気になっている。ただ、その日を迎えるまでに準備しなければいけないことの多さを心配しているだけだ。そんな自分がおかしくて、思わず声を出して笑ってしまった。とても愉快だ。たった一通のメールでこんな気持ちになるなんて、浮かれている。頭の中ではあの日交わした言葉を思い出し、もっと彼女のことを知りたいと考えている自分の心を認めた。
そうして僕は、何度も何度も書いては消してを繰り返し、ようやく彼女にメールを送った。
アカリさん、メールありがとう。
次の土曜日、空いています。僕も美術館にはよく行くから、誘ってもらえてうれしい。
ぜひ一緒に行くよ。よろしく。
ナオ