プロローグ
「ねえ、あの日のこと、覚えてる?」
ふいに彼女が尋ねた。
「あの日のこと?」
反射的に僕はつぶやく。電話の向こうは驚くほど静かだ。きっと彼女は僕のつぶやきには応えるつもりがない。
目の前を通り過ぎていくたくさんの知らない顔。テレビの中でよく見ていた景色が目の前にある。太陽の光が水面にきらきらと反射している。ゴンドラを漕ぐ船頭が陽気な歌をうたっている。潮風が少しだけべたつく。
ずっと憧れていたこの地に来られたことを喜び、目に焼き付けておくべきなのに、僕はその景色より頭の中の記憶を片っ端からひっくり返すことを優先している。
あの日とは一体、いつのことだろう。出会った日のことか、喧嘩をした日のことか。それとも僕が彼女の作った料理に珍しく異論を唱えた日のことか。
彼女と過ごしてきた日々が僕の頭の中をどんどん埋め尽くしていく。なにかヒントになるようなことはないか、彼女の言動や僕しか知らないであろう些細な仕草も、注意を払って慎重に探す。
そうやってしばらく逡巡するが、彼女の言う「あの日」がいつを指すのか、まったく見当がつかない。
「ごめん、あの日っていつのこと?」
そうして僕は、彼女の求める言葉を探すことをあきらめてしまった。
それを聞いた彼女はしばらく黙っていた。でもそれは、答えるかどうかを迷っている間ではない。
彼女の中で何かを整理するために必要な時間なのだろう。僕はそう解釈した。
「わからないならいいんだ。それじゃあ。さようなら。」
電話が切れる。
僕はもう彼女の中にあった正解にたどり着くことは二度とない。
僕は初めて降り立った憧れの場所で、携帯電話を握りしめながら、今しがた恋人としての関係に終止符を打った彼女、アカリのことを考えていた。