93話 聖妃様目覚める
じゃらりと鎖で目の前にぶらさげた、碧の宝石。
ふぅ、と息を吐いて、その宝石を見つめる。
エンリオの言う試験――彼の示す魔王を治す術のためとはいえ、やはり緊張する。
先ほどは髪の色が失われたが……。
さあ、今度はなにが失われる?
それでもこれで助けられるというのなら、やってやろうじゃないか。
息を吸い込み――意を決し、ワタシはそれに触れた。
再び翡翠色の光が溢れ出す。
一瞬の後、突風が吹き出す。爽やかな花の香りが顔に叩きつけられた。
しかし……ふと、ちょっとした、根源的な疑問が頭に湧き起こる。
これ、なんでこんなに光るんだ?
先ほどの光はアスタフェルが発動したのだと思えばこそ、あそこまで光るのにも納得がいくが……。
いや、魔女への毒だということは分かるが。
しかしワタシ程度の魔力にこんなに反応してこんなに光るか?
アスタの時と反応が同程度だなんて。
ただの力なき魔女であるワタシへの反応が魔王と同じ? 有り得ない。
ワタシに魔王クラスの魔力があれば別だが……。
ワタシは……、何に気が付こうとしている?
いや、駄目だ。今はこっちに集中しないと。アスタを助けないと。
碧の光――聖妃の力。
どうか、アスタフェルを癒やしてください。
目をつぶり、風と光の中心であるワタシの掌のなかの宝石に、一心に祈りを込める。
……風の聖妃、スフェーネ。伝え聞くような優しさと、神性な存在とこの世の者とを取り成す力をあなたが持つというのなら。
どうか、アスタフェルをこの世界に留めるために力を貸して下さい。
アスタフェルを癒やして下さい。
彼が自助で治るよう風の幻素を、どうか、消えゆく魔王に与えて下さい。
聖神シフォルゼノによって取り除かれた風の幻素を、再び彼に巡らせてやって下さい。
いや、違うか。
ワタシがこの宝石を発動させているんだから。
ワタシに……、このワタシに、魔王に幻素を与える力を、与えて下さい。
魔王がこの先もワタシと共にいられるように。馬鹿話をしたり、笑い合ったり、一緒に悩んだり、アスタの作る食事を食べたりできるように。
もしも、スフェーネ。あなたにそれができるのならば……。
そのとき――力が……、なんだ、これは。
瞑った目の下の方……手の中から漏れる緑の光とは違う、鮮やかな新緑色の光。それが身体の奥底、腹の下の方から、溢れ出してきた。
暖かく、爽やかで、それは確かに天上を巡る風だった。それにあまりも郷愁を誘われ、思わず鼻の奥がツンとした。そうだ、ワタシはこれを知っている。
その時、悟った。
できるとか、できないとか、そういういう問題ではなかった。
可能だ。
理屈はよく分からないけど、この光を腹に持つワタシならそれができる。
春の風に触れれば心地良いのと同じような常識的なこと……それは当たり前なことだった。
ワタシなら、アスタフェルをこの世界にいさせることができる。
目を開けると、未だ風は吹き荒れ、碧の光は辺り一面を照らしている。
下に目を向けると正体無くワタシに膝枕された風の魔王がいた。
目を瞑る血塗れの魔王。
消えた角と、消えゆく翼。
さあ……、風の魔王、白翼のアスタフェル。
ワタシはそっと、銀色の前髪の下に手を入れる。
……今、オマエに仕掛けられたシフォルゼノの呪いを解いてやる。
再びその身にこの世界の風の幻素を受けてくれ、アスタ……。この世界はオマエを排除したりしない。
このワタシが、オマエを必要としているから。
ワタシの手に新緑の光が生まれ、アスタの白い額に移った。
光は一瞬で魔王の隅々まで行き渡り、そして――。
アスタフェルは、ぱっちりと目を開けた。
治ったのだ。
光が収まっていく――。
アスタは少し、戸惑っているような表情で……。逡巡する空色の瞳がワタシを見つめている。
やがて彼は口を開いた。
「ジャンザ……」
それからまた目を瞑る。
「まだ、こうしていたい……」
「そうはいくか。起きろアホ魔王」
腰を浮かせ太ももを滑り台にして、アスタフェルの頭を強引に地面に落とした。
その動きのついでに立ち上がると、膝がポキッと鳴った。身体がすっかり固まってしまっていた。ずいぶん長い間膝を折って座ってたな……。人間の――魔王の頭って重いしな。
「痛って! もう少し労れよ、病み上がりなんだぞ」
「おい、アスタフェル」
ぐるりんと反周して顔から地面にダイブしぶつくさ不調を訴える風の魔王に、ワタシは低い声で告げた。
「我々はこの現実に向き合わねばならない」
そう、いくらなんだって分かる。
特にね……。
「これ、どういうことかオマエは分かってるんだよな?」
と握った拳から出した親指で、振り返らずに後ろを差し示した。
とはいえ後ろだけではない。ワタシたちの周囲……。
エンリオ、遠巻きに取り囲んでいた聖騎士たち、それに騒ぎを見に来た野次馬たちも含めて。固唾を呑んでワタシたちを見ていた、ここにいるすべての人々が。
ひれ伏して、頭を垂れていた……。
さすがに分かる。これが何を意味するのかくらいは。
自慢じゃないけどこういうことには頭が回るほうなんだ。
エンリオがワタシを『猊下』と呼んだのもいいヒントだった。
「……ジャンザ猊下」
一番近くで片膝を突いていたエンリオが、頭を上げてワタシを見上げる。
深い緑青色の瞳を潤ませ、頬を薔薇色に紅潮させた美青年が、感極まったように声を震わせた。
「もう一度、もう一度言わせてください。私はあなたを信じます、聖妃様。よくぞお出ましになってくださいました。これまでの態度をお詫び申し上げるとともに、心よりの感謝と愛を、あなたに捧げます」
思えば、ワタシとしたことがうっかりしていた。
私はあなたを信じます、という言葉。これは、徒や疎かにしてはならないものだった。
聖職者としてのエンリオの、決意の宣言だったのだ。
「……エンリオ。悪いけど、急なことなんでこっちとしてもよーく話し合わなきゃらならないんだ。この魔王様とな。だから続きはまた後日ってことにしてくれないか」
「かしこまりました」
「ありがとう。……アスタ、ちょっといいか」
転がりながら顔面を擦る魔王。声をかけると、彼はビクッと肩を震わせた。
「なっ、なにか?」
「ワタシを家に連れて行ってくれ。その翼を使って。嫌とは言わせないぞ」
「……はい」
しょんぼりしながら立ち上がり、ワタシの背後に立つ魔王。
その顔にもう傷はなかった。血も綺麗さっぱり消えていて、角も翼も復活している。異国風の黒い長衣の胸に矢が貫通した時の穴が空いているのを除けば、アスタフェルは完全に元通りだった。
……ワタシが彼を癒やしたのだ。真の名を介して彼の魔力を引き出したのでもない。それならば、魔王は発情するはずだから。
魔王は腕でワタシの胸と腹を己に引き寄せ、がっちりと自分に固定し……。
――あ、自分で命令しといてなんだけど、空飛ぶ時ってこれなんだな。墜ちたら大変だしな……。聖妃であっても変わらずか。ああ、ちょっと後悔。
アスタフェルは四枚の白翼を打ち下ろし、ワタシたちはその場からふわりと飛び立った。