91話 えげつない魔女によるえげつない行為
結論からいうと、『使う』。
エンリオは勘違いしているが、アスタフェルはワタシにとっての毒と言った。それを自分に使うなとは言わなかった。
つまり、魔王にとっての毒ではないのだ。
使うことにより魔女であるワタシは不利益を被るが、風の魔王である彼は被らないということ。
おそらくあの宝石は力が強すぎてちっぽけな魔女では制御が難しいとか、そういうことなのだろう。
神に近い風の聖妃の力を使おうというのだ、それもむべなるかな。
だが、ワタシにだって考えがあるんだ。
さあ聖騎士様、ワタシに未来を選ばせたことを生涯にわたって悔やむ人生の幕を開けようか。
「くれ、エンリオ」
手を差し出すと、エンリオは宝石を引っ込めた。
「貸すだけだ。きちんと返せよ。そして貸している間は細心の注意を払って大事に扱い、傷一つ付けるな」
すまんな。返したいのは山々なんだけど、たぶん返せないと思うよ。
「おいアンタ、ワタシたちの自滅を見たいんじゃないのか?」
「聖妃様。どうか、このものたちに正しき愛の鉄槌をお与えください……」
「ジャンザ……」
祈りの言葉を口にしつつ宝石をワタシに渡すエンリオ、観念したような声でワタシの名を漏らす魔王。
宝石本体には触れず、鎖を持って受け取った。
目の前にぶら下げてみる。そういえば、これをこんなに間近で見たことはなかった。
全体の大きさは、拳より少し小さいくらいだ。
くすんだ白銀の土台はかなり細かな彫刻でできており、それらはすべて小さな羽だった。
その中央に、羽の巣に囲まれる小型の鶏卵のような大きさ、形の――翡翠色をした半透明の宝石が、淡い光を放っていた。
内側から常に発せられるその光はあくまでも優しく、淡い。
聖妃の涙を核としているというだけあって、どこか物思いに耽っているようなぼんやりとした、奥深い趣きもある。
この控えめな淑女のような美しい緑の宝石に、ワタシはなんとなく懐かしさを覚えた。これはもともとワタシのモノであり、ようやくこの手に返ってきた……ような。
まあでも気にしても仕方ない。この宝石自体すぐにこの世から無くなると思うから、この感覚ともすぐにおさらばである。
文句でも飛んでくるかと膝を見下ろせば、アスタフェルは薄眼を開けて、黙って宝石を見上げていた。表情がなく、そこから読み取れるものはない。
だが長い睫毛のなかで翡翠の光が映る空色の瞳は、とても美しかった。
あまり余裕はないように見える。急ごう。
「アスタ……」
ワタシはそっと、彼の胸に宝石を置き、鎖を手放した。
そして彼の顔のに上半身をかがませた。宝石の本体は触らないよう注意しながら。膝枕をした恋人にキスをするように。
この体勢は辛いから早いところ用を済ませよう。
「オマエが崩せ」
「……?」
「風の幻素を取り出すんだ、剣みたいに。それで傷を治すなり、魔方陣を作るなりしろ。早く」
アスタにだけ聞こえるよう小さな声でそれだけ言って、ワタシは身を上げた。
そんなワタシに、エンリオはなにも言わない。よかった、聞こえてない。
これがワタシの策だ。
といっても何も特別なことはない。魔女たるワタシは宝石を使わない。使うのは魔王だ。ワタシは一切触れず、すべてを魔王に任せる。
実に簡単な策だが、これなら魔女への毒は発揮されないだろう。
だいたいワタシは物質を幻素に崩すやり方なんか知らない。
宝石が跡形もなく消えて無くなっても、アスタが魔力を取り戻しさえすれば何も心配ない。エンリオなど――聖騎士団など、この国の軍など。完全な魔王が恐れるような存在ではない。
なんといってもアスタは風の魔王だ。
それに魔界に高飛びしたら、ワタシたちを追う術などただの人間にあろうはずもない。
問題があるとすれば、エンリオに勘づかれたら計画のすべてが失敗する、ということだけ。
一応、ほら。この宝石はエンリオの宝物らしいから。
アスタフェルは呆気にとられたように空色の瞳でワタシを見つめてから、少し笑った。
「え、えげつない……好き……」
「どういたしまして」
真顔で応じた。
自覚はある。何とでも言うがいい。
彼は震える手を自分の胸に――宝石の上に置いた。
アスタは目をつむる。一拍あり、宝石の放つ翡翠の光が強くなる。剣の時はこんなことなかったから、やはりこの宝石は特別らしい。
それともこれは聖妃の最後の抵抗か……?
同時にアスタの手のなかから、素晴らしい風の魔力……いや、風の神の力があふれ出した。
宝石の底の底まですべての力を開放するような、ありったけの爽やか、かつ軽やかな魔力が中空に勢い良く放出された。まるで天上の空気のように済んだ空気、匂いが突風となり、吹き荒れる。
嗅いだこともない新種の花の香りまでした。これは聖妃の涙の匂いか?
なんにせよ。
あと少しでオマエのもとに風が戻る。それで力強く羽ばたけ、アスタ!
「これは――待て、やめろ!!!」
大声が、すべてを鮮烈に照らし出す緑の光を遮った。
それどころか陰になった長身痩躯がアスタフェルの手を強引にどかし、強い風と光を放つ宝石を取ろうとする。
エンリオだ。くそっ、勘づいたか。
けどな。
ワタシも咄嗟にアスタフェルの胸に手をやった。
間一髪、エンリオより早く、光と風を放つ風の聖妃の涙に指が届く。
素早く宝石を風ごと胸の前で握りしめ、体をひねってエンリオから遠ざけた。
「悪いなエンリオ。これはもうアスタのものだ!」
「あ、お前……」
当のアスタフェルの間の抜けた声。
え?
――あ。
いけない、素手で……。
その瞬間。
より一層の猛風と緑の光が溢れ出し、ワタシたち全てを飲み込んだ。