86話 ジャンザから見た魔王の危機
魔王を迎え撃つべく風の聖神の聖騎士たるエンリオが華麗な全身鎧で疾走し、ワタシもそのあとを追って現場へと駆ける。
そこに着くなり、ワタシの肌にさーっと鳥肌が立った。
意識外が、何かを感じ取っている。
妙な空気だ。
そこに堅牢な壁があるような断絶感が空間にあった。高い壁に遮られて空気が反発している、というか。
確かに現場は建物と建物の間という、特に広くもない場所だが……。
そこで二人の男が対峙していた。
一人は銀の長髪に白い翼、黒い長衣という魔王姿のアスタフェル。もう一人は白い騎士服を着た、おそらく下っ端の聖騎士……。
「魔王はどこだ!?」
共にここまで駆けてきたエンリオが焦った声をあげた。
「あそこにいるだろ!? しっかりしろよ!!」
ワタシは指さしつつエンリオに叫び返した。
なにをとぼけてるんだこいつは。急に目が見えなくなったとでも言うのか?
そんなことをしている間にも、世界の果てを見るような感じの向こう、まるで……透明な壁の向こう側を見るような、そこで……。
その下っ端聖騎士は、見たこともないような魔方陣を展開していた。
彼を中心として空間自体に水色に光る魔方陣が現れ、しかもその中にはおびただしい数の翼の形に線が刻まれていた。まるで多弁の花びらが一枚一枚開いていくように、その翼が魔法陣の外に開いていく。
圧倒的な魔力……風の力そのもの。
いや、これは神の力……!
ワタシは知らないが、シフォルゼノの加護による秘術とかなのだろう。下っ端聖騎士らしきあの男が行使するには行きすぎた加護のような気もするが……。
高位の聖騎士であるエンリオなら何か知っているかも知れない。と彼を伺ってみるが、相変わらずきょろきょろとあたりを見回している。
その場にいた部下の聖騎士がエンリオの近づいてきた。
「エンリオ様!」
「魔王はどこだ?」
「先ほどまで確かにいたのですが、急に姿が消えて……」
エンリオはワタシの顔をちらりと見て、すぐに部下に命令する。
「この魔女には見えている。そこにいる筈だ、矢を射ろ!」
「やめろ、あれは――」
言いかけてやめた。
見えてない、ということは当然魔王がワタシの付き人兼婚約者のアフェルだということも見えていない。魔王は魔王という一個の存在だと思っている。
ワタシが魔王と親しいことも、魔王がアフェルだということも知らない。ならばわざわざ知らせる必要もない。
彼は明確に魔王の敵、つまりはワタシの敵なのだから。
かわりにワタシは脅すことにした。
「やめておけ、見えないものに撃ち込んでどうする。矢が無駄になるぞ!」
「だからといって何もしないわけにはいかない。魔王アスタフェルは我らが神シフォルゼノの仇敵、それは我らシフォルゼノ教聖騎士団がまずもって第一に仇とすべき相手ということだ!」
その通りだった。
くそっ、言うんじゃなかった。
どうすればアスタを守れる!?
しかし、何故見えていないんだろう? あそこにいる白服、あれも聖騎士だろうに。エンリオの言うとおり、まさに主たる神の敵である魔王と対峙しているじゃないか。
あれはエンリオの部下ではないのか?
……うん、これは。使える!
「待て、エンリオ。見えないのに矢を射れば、あそこにいるあんたの部下にも当たるぞ!」
「なに?」
「見えてないみたいだけど、ちゃんと魔王と戦おうとしてるのがいるんだよ。ああいう勇敢な部下を守るのもあんたの役目じゃないか? だから無闇矢鱈と撃たせるんじゃない!」
「なっ――本当か!?」
そんなことをしている間にも、アスタフェルは華奢な細身の剣を構え――。
下っ端聖騎士に突進した。
「アスタ!?」
何故咄嗟にアスタを呼び止めたのか、自分でも分からない。
魔王が人間を殺そうとするその行動が、この世界に生きるワタシの人間としての禁忌感を呼び覚ましたのかも知れない。
結果は――。
アスタフェルの動きが、一瞬止まる。
空間が、繋がった感覚があった。
それと同時に、エンリオが止めきれなかった一本の矢が、アスタフェルの背に……。
玲瓏な魔王は糸が切れたように腰から崩れ、地に膝をつく。
馬鹿な……!?
「う……」
ワタシが呼ばなければ彼は止まらなかった。そうしたら矢だって……。
ワタシのせいでアスタが……。
「アス、アスタ!!!!」
うめきながら、ワタシはもつれるような足取りで、とにかくアスタフェルに駆け寄っていた。
なにも考えられない。
「ジャンザ……」
地に膝をつき、それでも倒れないようにと剣を杖のようについて身体を支えたアスタフェル。
相変わらず美しい顔だ。
それが今は苦痛に歪んでいる。
……どうしよう、どうすれば……。
傷の、傷の状態を確認しないと。
でも下手に触るとかえって危ない……くそっ、見たくない。彼の胸を見たくない。
矢が貫通して飛び出してるアスタの胸なんて見たくない。だけど、診ないと。それができるのはワタシしかいないんだ……。
ワタシは彼の前に膝をつくと、とりあえず彼の肩を掴んだ。
指先が、震える……。それでもアスタフェルの肩は、しっかりとそこに存在していた。
彼の白い顔に、少しだけ柔らかさが生まれた。
……が、それも一瞬。
アスタフェルは、ゲホッ、と咳をした。
ワタシの顔に、生暖かいものが少しだけかかる。
――血、だ。
外傷――胸を貫通した矢で、吐血……。
これは……かなり、ヤバい……!
「アスタ! すっ、すぐ手当を……」
しかしアスタフェルはワタシの顔を、その空色の瞳で真っ直ぐに見つめたまま言った。
「あ、あのな、お前、いいか。ああいう言い方、俺はどうかと思うんだ――」
「え? 言い方? なに……」
突然そんなことを言われて、頭がよく回ってくれない。
アスタはこの期に及んで何を言っているのか……。
……いや、もしかして。
こいつを遠ざけるために、オマエは解雇とかなんとか、あることないこと言って魔王を魔界に帰そうとしたこと、か?
「あ、ああ、あれ。えっ、今それどころじゃないだろ!?」
そりゃ確かに言い過ぎたな、とは思っているが。
少なくとも血を吐きながら注意してくることではない。
「大丈夫、心配するな。これくらいすぐ治る……治す……」
と、アスタフェルの胸を貫通していた矢が、光の泡となって消滅した。
あっ、と思う。
そういえばアスタフェルは魔法で自分の傷や病気を治せるんだった。
「な、なんだ。まったく。オマエはいっつもそうだ、突拍子もない。魔王だから人間の常識が通じないのは仕方ないにしても、もう少し行動を落ち着かせ――」
「……あれ?」
ほっとして悪態を続けようとするワタシだったが、それはアスタフェルの意外そうな声に遮られた。
「え?」
「あれ、なんか」
ゴホッ、と咳き込むのと、アスタフェルが俯くのは同時だった。
地面に血がぶちまけられ、ワタシの黒いローブにも飛沫が飛ぶ。
「あ……あはは、痛みが、なくならない……」
口元を真っ赤な血で汚したアスタフェルが、悪い冗談でも言うように、苦しそうに笑った。