83話 遅れて怒りが湧いてくる:アスタフェル視点1
最初、アスタフェルは呆然としていた。
ついさっきまであんなにラブラブだったのにいきなりのあの態度、しかもあの言葉である。
確かにあの手紙の内容は衝撃的だった。
一介の魔女に領をまるごとやるというのだ。その代わりに自分を――魔王を差し出せ、と。
手紙には、そうあった。
なにか、事態が動いたことはアスタフェルにも分かった。
だからジャンザは慌ててアスタフェルを遠ざけた。
ジャンザの気持ちももちろん分かる。
アスタフェルを守ろうとしたのだ。
自分の婚約者を、とにかく安全な場所に待避させようと……。
全てを自分で背負い込むあいつらしい、とアスタフェルは思った。
同年代とはあまり交流がない人生を送ってきたようだし、他人を信じて任せる、ということが苦手なのだろう。
だから、信頼するジャンザの意見を尊重しようとした。
彼女を尊重しようと思った。
だが。
二人の家に帰り、城に返すために持ち歩いていた荷物を全部今のテーブルの上にあけ、この家にある私物を乱雑に選んでリュックに入れていた時に。
大事な大事な白いエプロンドレスをたたんでリュックに詰め込もうとして、なんだか急に切なくなって、顔に押し当てて、ほのかにミンシアの香りがした時に。爽やかですーっとした香りが清涼感をアスタフェルの頭にもたらした。
洗ったエプロンドレスを乾かすときに、庭の薬草畑のミンシアの草むらの上に広げて香りをうつしたのだ。
日光が不足するとミンシアの発育がどうのこうのとジャンザはいい顔をしなかったが、たかが数時間白い布に遮られたくらいで枯れるわけがない、とアスタフェルは気にもとめなかった。
その、爽やかな香りが、急に。
アスタフェルの感情を呼び覚ました。
ジャンザは言ったのだ。
『オマエを解雇する。婚約も破棄だ。今この瞬間からオマエはワタシの付き人ではないし婚約者でもない』
このついちょっと前までは、大鴉フィナの命はアスタフェルが握っているとか、じゃあ結婚しようかとか、その前にこの世界を一緒に新婚旅行しようそうしよう! とか幸せだったのに。
なのに――なんという理不尽!
王子がアスタフェルを所望したからって何だというのか。
そんなの恐るるに足らず。
こんな領くらいペロッと貰っちゃって、ついでに王子をシめて逆に手中に収めてしまえばいいではないか。
それくらいのことはアスタフェルにとって朝飯前だし、アスタフェルの真の名を知っているジャンザはその力を使うことができる。
望めばこの国など簡単に支配することができるだけの力を、ジャンザは持っているのだ。
なのに何故ジャンザは魔王の魔力を使おうとしないのか。
ジャンザがアスタフェルの魔力を取り出すとき、何故か性的快感というペナルティをアスタフェルはくらってしまうのだが、こんな時にそんなものに気を配るような女でもあるまい。
魔力を使わないことでアスタフェルを隠しておこうというのにしたって、もうバレているのだから意味が無い。
何を考えているのかは知らないが、甘いんだ、ジャンザは。
そして――。
『跡形もなく消えろ。いいな? これがワタシからの最後の命令だ』
この言いぐさ!
アスタフェルが何をしたというのか。
ただ結婚しようと約束しただけではないか。
風の聖妃であるジャンザ。その本質は自ら自由に吹く風。その意志は犯さざるべき貴きもの。――それもいいだろう。
しかし。
二人の思い出まで一挙に否定するような、こんな暴言を赦していいものだろうか。いやよくない。
こんなんでは大鴉フィナを八つ裂きにしたって腹の虫が治まらない。
これはもう、直接ジャンザに言わねばなるまい。
(言い過ぎだ馬鹿め! 少しは俺の気持ちというものを考えろ!!!!)
だから――アスタフェルは後先考えず、ただジャンザに怒りをぶつけるためだけに、二人の家をその身一つで出ていった。