76話 魔女の野望と魔王の願い
「アスタ……!」
思わず喜色の声を上げ、それからワタシは口をつぐんだ。
ワタシはソファーに横たわっており、そのソファーの近くの床には王子が正体無く伸びていて、間に立っているのは冷たい瞳をした白銀の髪の青年。
これはどこからどう見ても、間男との密会現場に乗り込んできた夫じゃないか。
そうだ、これは……。アスタはワタシを助けに来たんじゃない。……糾弾しに来たんだ。
「とりあえず、ここから出るぞ」
アスタは言葉少なに言うと、ワタシをソファーからそのまま、横抱きに抱き上げた。
「あ、あのなアスタ」
「話は後だ」
言い訳しようとするワタシにそう言い、彼はワタシを抱き上げたまま王子の部屋のバルコニーへと向かった。
バルコニーへ出ると、しっとりとした夜気がワタシたちを出迎えた。
言い訳……言い訳? ワタシは何に対して言い訳しようとしてるんだっけ。
あまりのことに頭の働きが極端に鈍くなってきている。
王子と不倫しようとしたこと? まだ結婚もしていないのに。いや、結婚の約束はしているのか。それなら不貞行為と言える。
それも、ワタシから。なんて立派な不貞行為だ……。
でも、もともとワタシがアーク王子と結婚して権力を得ようとしている、ということをアスタフェルは知っている……そのために自分が呼ばれたということも心得ているはず。
でもワタシはアスタフェルに求婚して、それでアスタフェルはそれを受け入れてくれた。
つまりワタシはアスタフェルと婚約状態にあり、その状態を作り上げたのはワタシ自身の選択で……。
いやそもそもなんでアスタフェルがここに。
舞踏会で踊ってるんじゃないのかよ。
なんてワタシが必死で考えているなか、アスタフェルは風を確かめるように翼を広げていた。
月夜にバルコニーで四枚の純白の翼を広げる風の魔王――四枚の翼が同時に打ち下ろされ、ふっと浮遊感がワタシを包みこむ。
そのまま、ワタシたちは一気に空へと翔け上がった。
その姿はきっと流れ星にも似た、とても美しいものだったろう。
残念ながらワタシにはその美を楽しむ余裕はなかったが……。
* * *
「飛ぶのって、腹にくるんだな……」
空の旅を経てアスタフェルから解放されたワタシは、魔女の家に入ってとりあえずほっと一息ついていた。
アスタフェルも気が立っていたのだろう、ずいぶん荒っぽい空の旅だった。
ものすごい速さで真っ直ぐ飛んでいると思ったら、道を間違えたらしく翼を打ち鳴らして鋭角に曲がったり。
そのたびにワタシは内臓が片方に寄せられる感覚と、食べたものが出ていきそうな内側から来る衝撃と、ワタシを離すまいとするアスアフェルの締め付けでぎゅうっと腹を搾られてほぼくの字なわけだ。
「お茶……お茶淹れよう……あと顔洗いたい……着替えたい……」
それに、顔は顔で王子にぶっかけられた赤ワインでベタついていた。
借り物の翡翠色のドレスにも赤ワインが飛び散っている。首元が特に酷い。染み抜きできるだろうか……。
「ジャンザ……」
ふらふらとキッチンへ向けて歩くワタシを後ろから抱きすくめるものがあった。
ここにはワタシとアスタしかいないから、当然……。
「行くな、ジャンザ」
「………………、ああ、分かった」
他になんと答えたらいいか、分からない。
ワタシは不貞を働こうとし、アスタはそれを止めに入った。
いくら野望のためとはいえワタシは明らかに倫理にもとる行為をしようとした。
怒りの理由はアスタにあり、きっとこれからワタシはひどく叱責される。
結局未遂で終わったが、そういう問題でもないだろう。
その自覚はあった。
「お前は俺の嫁だ。そうだな?」
「……そうだ」
彼の腕の中、アスタフェルの暖かさを感じながら、ワタシは頷いた。
「自分からプロポーズしてくれたんだよな?」
「した」
「アークのこと、諦めきれないのか?」
「……ワタシにとってアーク王子は、野望のための駒だ。諦められる訳がない」
「じゃあなんで……!」
ワタシは腰を持ってくるりと回され、正面切ってアスタフェルと対峙することになる。
「俺と結婚するなんて言ったんだよ!」
「それは……」
人妻好きの王子に取り入るために、人妻という立場が必要だったから。
立場上の夫は、誰でも良かった。そこにアスタフェルがいて、ワタシはたまたまアスタフェルが好きだっただけで。
最初はこれでも王子の愛人なんて真っ平御免だと思ったんだ。
だけどワタシは自分の野望を……王子に取り入って権力を持ち、薬草薬を広めるという野望を叶えるために……。
それを言ったら、アスタフェルは納得するのだろうか。
「すまない、アスタ」
謝罪を口にしただけだった。
「……俺は諦めないからな」
ワタシが視線を合わせられない先で、彼は低い声で言い捨てた。
「最初は、お前が人間の男とどうしようがどうでもいいと思っていた。なんていうか、お前に求められているのはそういうレベルのことじゃないから」
「それは、どういう――?」
「だがお前は俺を選んだ。魔王である俺を。俺ももうお前がいないと駄目なんだ。お前は俺のものだ」
ワタシの問いには答えず、彼はそんなことを言った。
「離さないからな。お前は俺だけ見てろ。かくなる上は物理的に距離を置くしかないな、ここにいるとお前はまたアークになびくかもしれないから」
「何を言って……」
「魔界に帰る。当然お前も連れて行く」
「なっ、何言ってるんだよ。ワタシはここでやりたいことがあるって前に言っただろ?」
「師匠の死を無駄にしないために、魔力の入っていない薬草だけの薬を広めたい。魔女が魔力を使わなくなることで、お前自身も長生きできることになる。だからそのために王子に取り入って権力を得る――だな」
「そうだ。そのためにオマエを召喚したんだ、もとはといえば」
「ジャンザ。言いたくないんだけどさ、……俺を好きなのと、自分の野望と。どっちか一つを取らなきゃいけない時が来たんじゃないか?」
「オマエ……」
その言葉の重さに、ワタシは顔を上げて彼の玲瓏な顔を食い入るように見つめた。
どこかで感じていたことではあった。そして、それを考えないようにしていた。両方叶う、都合のいい未来だけをしっかりと見つめていた。
でもそれをこうもはっきり……しかもアスタフェルに言われてしまうだなんて……。
「ワタシに野望を……諦めろっていうのか?」
彼は一瞬、さっと眉根を寄せ視線を彷徨わせた。少し頬を赤くし、それから手を上げる。
殴られる……!?
身の危険を感じたワタシの腕が、自然と動いていた。
逆に彼の手首を掴んだのだ。
「いくらワタシが野望のために浮気するクズだとしても、殴っていいということにはなるまい!」
「誰が殴るか、馬鹿者」
彼は固定しているワタシの手を引きずるようにして、力ずくで手のひらをワタシの目の前に持って行き……。
力のこもったデコピンが飛んできた。