75話 口移しのワイン
王子に流されそうにはなるのだが。
しかし、残念ながら。
ワタシは情よりも理性を重んじる魔女だ。
薔薇の香りに包まれて、ソファーに押し倒されたまま。
ワタシは王子の薄銀色の瞳を見据えた。
「あなたにどんな事情があるにせよ――」
「僕が言ったことを信じるのですか? 可愛い人だ」
正直、嘘か本当か、どっちなのか分からない。
だが酒を飲んで何かを忘れようとしているのは事実だ。
「人の話は最後まで聞いてください。もしあなたが事情を抱えていたとして、でもそれをワタシに相談してきたのなら。ワタシは知力を尽くしてその問題を解決しましょう」
――たとえばユスティアのことがどうしても好きなんだけどどうしたらいいのか、とか。
そういうことを相談されたのなら、ワタシは王子とユスティア、どちらも幸せになるよう、全力であたる。
「どうしますか? ワタシに助けを求めますか?」
「……あなたなら、不可能を可能にしそうだ」
王子はワタシの顔のすぐ上に顔を陣取らせたまま、薄銀の目をすがめた。
「ですが、これは僕の問題ですので。自分で解決しますよ」
「分かりました」
ワタシの余計な介入は拒否した、か。
それならもうこれ以上ワタシは深入りしない。
……が。
「しかし王子様、こんなことはもうやめるべきです。もし問題の根底にあるのが得られぬ女性に恋をした満たされぬ想いだとしても、そうじゃないにしても、酒に溺れるのはよくはない。人妻と遊ぶのもよくない。もっと自分を大事にするべきです」
「あなたは黙って僕に抱かれればいい」
王子の声は堅かった。
「僕が欲しいのでしょう? 僕の権力が。だから愛する夫を裏切ってまで僕と身体を重ねるのでしょう。ならば四の五の言わず、共に快楽に溺れましょうよ。二度と夫を――アフェルさんを愛せなくさせてあげますから」
「そんなことを真っ正面から言われて、ワタシがあなたを受け入れるとでも思っているのですか?」
「受け入れれば良し、受け入れないのならこのまま去りなさい。僕が必要としているのはあなたとの火遊び、それだけです」
……ふん、クズが。
とは思ったが、さすがに本人にそれは言わなかった。
代わりにいったのは、これからのことだ。
「……取り決めをしましょう、王子様。ワタシはあなたの愛人になるが、あなたはワタシの後ろ盾となり、ワタシに準王族としての権力を与える。それでいいですね?」
「大きく出ましたね。でもそういうところ、嫌いじゃないですよ」
王子の手が、ワタシの頬を包みこんできた。
「あなたは普通の女性ではない。魔女だから、ということではありません。あなたは女性として特別なんです。もっというなら、人間としてどこかがオカシイ。でもそこにとても惹かれる。いいでしょう。契約成立です」
王子はニヤリと笑った。
ワタシは……自分で言っておいて、信じられなかった。
準王族としての権利? 生みの親が誰かも分からない、旅の魔女だったこのワタシが。一国の王子様の愛人になって、王族並みの権力を得る……?
師匠……。
ようやく、ようやくここまで来たよ。
あなたが魔力を使いすぎて若くして亡くなって、ワタシは人々が魔女の魔力に頼らなくてもよくなるように……魔女の作った薬に頼らなくなるように、一生懸命行動してきた。
たまたま知り合った王子に取り入って、それで魔力の入っていない薬草だけの薬を作る工場や、作った薬の流通や、人々の意識を改革したり、そういうのを目指してここまで邁進してきた。
取り入ろうとしたら聖騎士に邪魔されて、聖騎士を排除しようとしたのがアスタフェルを召喚した切っ掛けで……。
ある意味、アスタフェルのおかげで人妻好きという王子様の性癖を利用することができるようになった。
アスタフェルに感謝しなくちゃね。
でも、師匠……。
自分からここまで来ておいて、なんだけど。
これで良かったのかな。
ワタシはアスタを……裏切って……いいのかな……。
「ではジャンザさん、契約のキスとしゃれ込みましょうか。……そうだ、いいこと考えた」
王子はニヤつきながら身を起こすとテーブルのグラスにワインを注いだ。
「口移しするから、飲んでください」
「! だから、酒は飲まないと……」
っていうかそういうことでもない、ということは自分でも分かってるけどね。
「飲まないと契約締結とはしませんよ」
「卑劣な……」
思わず喉の奥で声がくぐもる。
「そうそう。これからはあなたのそういう表情、たくさん見せてください。……逆らわないで。これは契約の儀式なんですからね?」
王子はワインを口に含むと、またワタシにのし掛かってきた。
そして、ワタシの頬を両手で包んで固定する。
目の前には口にワインを含んだ王子様、頭の後ろにはソファー。
逃げ場はない。
……くそっ。
こっちの意思をねじ曲げようとする王子に嫌悪感が沸き上がってくる。
それに……キス、って。
アスタフェルとしたこともないのに……。
いや、そんなこと言ってる場合じゃない。
これでようやく、師匠の仇がとれるんだ。薬草薬を広められるんだ。
そのために、そのために。今まで努力してきたんだ。
だから、これくらい。
ワタシは目をつむった。
するとアスタフェルの姿が脳裏に浮かんでしまった。
白銀の髪に、空色の瞳の麗しき魔王。ワタシの、風の魔王。
ちょっと全力で口説いたくらいで顔を真っ赤にして、照れてちゃって。可愛かったなあ。
チンピラ貴族に絡まれたとき、助けてくれたのは格好良かったな。
それに殺されそうになったとき、相手を殺そうとしてまで助けてくれた。やっぱり強いんだ、あいつは。
――くそっ。
なんでアスタのことなんか考えたんだ。
忘れていた鼓動が意識されてきてしまったじゃないか。
ああ、もう。このドキドキは何だ。
王子に押し倒された状況に緊張して鳴る心臓なのか、記憶の中のアスタフェルへのドキドキなのか。
それともアスタを裏切ろうという自分への嫌悪感か。もう、ワケがわからなくなってくる。
今更だ。ワタシはアスタを裏切ると決めたんだ。
王子様の酒臭い鼻息が、ワタシの鼻筋に当たる。
……あいつのことが好きなのに。何をしようとしているんだ、ワタシは……。
あいつの存在は、本当に、ワタシから覚悟を無くしてしまう。
助けて、アスタ――なんて、どうしようもない気持ちが湧いてくる。
自分でこうなるよう行動してきたのに。
アスタ……。
せめて、アスタのことを、ずっと考えていよう。
アスタ、アスタ……。
「アスタ……」
堪えきれず、つい小さく呟いたら。
ドゴッと真上から物音がして、王子の顔が落ちてきた。
王子の顔を顔面で受け止めることになってしまい、額と額がゴチンッと当たる。
「ぐぉったぁッ!?」
目から火花が出るような、あまりの痛みに今までの雰囲気をぶちこわす声を上げてしまう。
ワタシの隣りにくずおれた王子が何者かに持ち上げられ、ドサリと床に放られた。
王子の口から私の顔にぶちまけられた赤ワインが、ワタシの肌の体温で香りを立ち上らせて、その向こうに。
結ってあった髪を下ろし、輝く白銀の長い髪からねじくれた禍々しき角を生やし。
清冽なる四枚の純白の翼を背に備え。
瞳は冷たき空色の。
そして、着ているものは下士官風のシンプルな黒いスレンダーな礼服の。
アスタフェルが、いた。