74話 王子様のつぶやき
むせ返る薔薇の芳香のなか、ワタシは王子の薄銀の瞳を見つめた。
「では、エンリオに彼らを捕まえさえたのはやはりあなたなんですね」
「買いかぶりですね、それは。僕にシフォルゼノの聖騎士への命令権はありません。エンリオは僕のいうことなんか聞きませんよ。お願いはできますが、教会の命令が優先される。僕はただの王子です。悔しいけど、シフォルゼノの前では一信徒に過ぎません」
しかし彼は言葉とは裏腹に穏やかに笑っている。赤い酒に口を付け、一口飲み込んだ。
「……ちょっとね。知っていることを利用しただけです。エンリオがネズミ取りのためにここに派遣された、という情報をね」
「ネズミ取り? エンリオは王党派を捕まえるためにここに来たんですか?」
「シフォルゼノの本部でも問題視されていたらしいので……」
そこで彼はぐいっとワインを一息に煽った。
「……ふぅ。僕の宮廷で貴族たちがしていたことですから、シフォルゼノの本部も当然僕が黙認していると思ったのでしょう。だから僕に話なんて通してこずにこそっとエンリオを派遣してきたんです。エンリオは剣のような男なんですよ。扱いを間違えなければ便利です」
扱いを間違わなければ……。
「もっとも僕の剣ではないので、扱い方を覚えるのに時間が掛かりましたけど」
「実際、あなたは黙認していたんではないですか? 自分で王党派を取り締まろうとはしなかったですよね」
「騒ぎを大きくするつもりがなかったのは認めます。あいつらはただのネズミで、館の主人に牙を向けようとはしませんでしたから。それに……友人が関わっていましたし」
王子はまた手ずから酒をグラスに注ぐとすぐに口に付けた。のど仏が動き、嚥下したことが分かる。
「ユスは――あなたとスティアが仲良くしていることは知っていました。僕とあなたを近づけようとしているのも」
薄銀色の瞳を微笑ませたまま王子は告げる。
「それについては、あの子にも負い目があったのかな、と思っていたのです。もっとも、彼女が何を考えていたのかなんて分かりませんけどね」
「負い目? ユスティアが何か、あなたに悪いことをしたと悩んでいたというんですか?」
ユスティアの悩みといえば、男性が怖いこと、だが。
そういえば王子も男だし、ユスティアは王子のことは怖くなかったのだろうか。
「……ジャンザさん。男女の情というものは、陽の光のもと全てつまびらかにすればいいというものではないんですよ。ユスティアにはユスティアの考えがあったのだと、僕は思います。――信じている、と言った方がいいのかな」
王子が何を言いたいのか、よく分からない。
「一つ聞きたいのですが、ユスティアはあなたのことが怖くなかったのですか? 彼女は……」
すっと、アーク王子は指一本をワタシの唇のすぐ前に立てた。
「それを僕に言ってはいけません。あなたがそれを知っているということは、彼女はあなたをそれだけ信頼していたということです。その信頼を裏切ってはいけない。――僕がいえるのは、彼女は僕の初恋だった、ということだけです」
「……なるほど」
ここまで言われれば、こんなワタシでもいろいろと想像できる。
男性が怖いユスティアは、いくら幼馴染みとはいえ王子にも恐怖心があっただろう。
それを表に出さないだけの知恵を彼女は持っているものの、王子の気持ちを受け入れるまではいかなかった。
だから王子の気持ちを逸らすために適当な女性を王子にあてがおうとした――というところだろうか。
王子にしてもユスティアが男性が怖いというのを知っていて、満たされない恋心を癒やすために人妻との後腐れのない情事にのめり込むことになった、というところか。
……こうして頭の中で整理すれば分かるんだけどな。
でもきっと慕情などというものは、こういうふうに『なるほど』と納得するようなことでもないのだろう。
だが。
その全ては、終わったことだ。
ユスティアは父親に利用され、王党派として活動し、そして教団に捕まった……。
王子が手を回したおかげで罪には問われそうにないが、このままリザ宮に居続けることもできないだろう。
「……ユスティアはどうなるんですか?」
聞くと、王子は目をつぶり、静かに言葉を発した。
「ユスティアの父上がどう出るか分からないので、確たることはいえませんが……」
酩酊感を楽しんでいるように、彼の口ぶりはとろりとしている。
「とりあえず実家に戻され、しばらくは謹慎処分となるでしょうね。それから修道院にでも入れられるのではないでしょうか」
「シフォルゼノは受け入れてくれるでしょうか? 一応教団に刃向かった女性ですし、罪人扱いされるのが関の山では」
王子は目を開けにっこりと、その薄銀色の瞳でワタシに微笑んだ。その目尻は酒気に赤くなってきている。
「そこは大丈夫ですよ。ユスティアの家はライアノルの信徒です。もちろんユスティアも。ですから入るにしてもライアノルの修道院です」
「そうだったんですか」
知らなかった。
聖なる神はシフォルゼノ以外にもいて、ライアノルは炎の聖神である。
それなら修道院に入ってもいじめられることはないだろう。
が……。
王子とは奉ずる神が違う――というのもまた、実らぬ恋の一因だったりしたのだろうか……。
「……なんて、僕が言ったとして」
アーク王子は赤ワインを煽って空にすると、またグラスに注いだ。
「あなたは信じますか? 僕は作り話をしたのかもしれませんよ」
そんなことを口走りながら、すぐにぐいっとワインを飲み干した。
「どこから作り話だと?」
「……ああ、美味しい。けど効くな、これ。まるであなたのようだ……」
王子は頭に手を当てしばらく酔気を受け入れていた。それからようやく、ワタシの質問に答える。
「最初から、すべてですよ。あなたの憐憫を誘い、情を引き出すための小手先のたくらみ。ユスティアに振られ続けた哀れな男ということにしたら、あなたも僕を優しく包み込む気になるのではないか。……そんな浅はかな、僕の……僕なりの、作戦……」
なんだ、そんな目的でこんな与太話をしてたのか。
――なんて王子を責める気持ちは湧いてはこなかった。
「あなたの話が嘘か本当かなんて、ワタシには分かりませんが……」
人妻好きのクズらしく、女を落とすための嘘を平気でついているだけなのか。それとも彼が言ったことは本当で、それを踏まえて口説いてきているのだけなか。他人であるワタシにはまったく分からない。
ただ……。
「一つだけ、はっきり言えることがあります。お酒を召し上がるペースが早すぎます」
先ほどから王子は手酌でぐいぐい飲んでいる。
まるで、酒精を使って自分から理性を取り除きたいみたいに。
「酒で憂さを忘れようというのはお勧めしません。なんの解決にもならないからです。しかもつまみもなしに。もともとあなたは体調に人一倍気をつけないといけない方です、控えめにしないと命に関わりますよ」
「そう……ふふっ、そうですね。堅物の魔女さんにはかなわない、か……」
そしてまた、グラスを煽って中身を空にする。
「だから、そういう飲み方はいけないと今――」
ワタシの苛つきを含んだ言葉はそこで途切れた。
王子が覆い被さってきたからだ。
「ジャンザさん、あなたが欲しい」
すっかり赤くなった王子の顔が目の前にあった。
顔にかかる息が、酒臭い。
「理屈でガチガチに固まった頭とか。なのに結局僕を心配してくれている優しさとか。妙に遠い、人との距離とか。そういうの全部、ください」