53話 魔女は魔王を追い詰める
「オマエ、こんなときに……! ワタシのこと誘ってるよな!?」
「へっ?」
抑えた声とともに下から睨めつけると、絡めたアスタの指がびくっとなった。
「なに言って……え、ジャンザ? 目が据わってるんだが」
「可愛いもの着て、可愛い仕草して、おまけに可愛い反応までしやがって」
「かっ、可愛いか、俺」
「可愛いよ。他の人はどうか知らないけどワタシには天上の可愛いさなんだよ!」
一歩、彼に向かって踏み出す。するとアスタは一歩下がった。
一歩、一歩。ワタシは絡めた指ひとつで押していくように彼を追い詰めていく。
「人が悩んでるってのに脳天気に可愛いことしやがって……!」
「え、いや悪かった。でもあれはほんとにごく自然に……」
「ならばなおさら始末が悪い!」
後退りが止まった。背後には調理台があり、マヨネーズを泡立てたいたボウルがまだ乗っていた。
ワタシは小皿をボウルの横に置き、絡めていた手を台の上に置いて彼を腕で調理台に囲い込む。
「オマエは自然にしているだけでワタシを骨抜きにする。自制心と理性で生きてきたワタシにとって、それ自体が耐え難い行為だ。オマエは意識もせず簡単に、ワタシという存在を覆すんだ」
「それはお前だって……い、いや、ごめん。でも悩んでるって、何を……」
確かに、それを伝えていないのに一方的に怒るのは理不尽だ。というか、こんなのただの八つ当たりだ。つい頭に血が上ってしまった……。
言えるところまではアスタフェルに説明しよう。
「……すまない。王子に……ええと、告白されてしまい……少し衝撃が大きすぎたようだ」
「告白!? アークに!?」
こくんと頷くと、アスタフェルは眉根を寄せ苦しそうにした。
「それは……おめでとうといえばいいのか?」
「本来ならな。それがワタシの目的だったから。だが王子は条件を出してきた」
「告白に条件? よく分からんな。……もしかして、俺と別れること、とか? 付き合ってないが、四六時中他の男と一緒というのは好きだったら耐えられまい、俺なら耐えられない」
逆だ。
が、さすがにここまでは言えない。
「その条件をいうことはできない。だがオマエが関わっていることは確かだ」
「俺が……」
アスタフェルはそっと、ワタシの頬を指でなぞる。
「よく分からんが、とりあえずそれで悩んでいるというのか。こんな怖い顔するくらいに」
「いつもニコニコしている乙女が好みならそういってくれ。善処する」
「俺のために笑ってくれるのか?」
「少しはな」
ワタシだって相手の好みに合わせる器用さくらいはある。
そう思って笑みを浮かべたら、アスタフェルは指先を頬に突き刺してきた。
「最近ずっと怖い顔してたから久しぶりだな。だが無理やり微笑むくらいならむっつりしてるほうがお前らしくていい。ほら、無理やりえくぼ作っても面白い顔になるだけだ。ほんとに面白いぞ」
「指を引け。噛み切るぞ」
「こわっ。だがそのほうがいい。違う噛めといったんではない。だからやめてくれ」
がっちりと指を掴んで口を開けて見せると、慌てたように振りほどいてアスタフェルは手を引いた。
ワタシは笑みを引っ込めると特に感情も込めずに告げた。
「冗談だよ」
「お前の冗談は冗談に聞こえないんだよ……」
指を守るように拳に握り込みつつアスタフェルは苦笑いしている。けっこう警戒されているようだ。
「オマエさ、ワタシと結婚したらどうする?」
「そうだな、子供は二人――え?」
なるほど、子供が欲しいのか。そういえば前にもそんなことを言っていたな。
魔王はぱちくりと瞬きをした。
「け、結婚て」
「そんなに驚くことか? この前言っただろ」
「だって、あれ、忘れろって」
「それで律儀に忘れたのか」
「馬鹿、あんなの忘れられるか! そうじゃなくて口に出さないようにしてたというか。あのときのお前、明らかにおかしかったし。なにか事情があるのかと」
「事情は……話した通りだ。王子に告白されて動揺していた」
「なんかお前がいうと愛の告白がとんでもない事実の発覚みたいに聞こえるな」
「実際、とんでもない事実の発覚だった」
狙っていた相手が一筋縄ではいかなそうな人妻好きで、かくいうワタシはこの白き魔王が好きだと露呈したのだから。これをとんでもない事実の発覚と言わずしてなんといおう。
「アスタ、オマエはなぜワタシと結婚したいんだ?」
「ちょ、ちょっと待て」
アスタフェルは仰け反らせ気味だった身を正した。ワタシの二の腕をその白い手で掴む。
「落ち着け。俺はお前との結婚は諦めたっていっただろ。別にお前と王子が結婚することには反対していない」
「そうだな」
それは、ワタシが懇願して彼に認めさせたことだった。事情が変わったとはいえ、ワタシの意思を尊重してくれたアスタフェルの決断には感謝しなければならない。
「だが、それ以前の問題でもある……」
言いながら、ワタシは考えていた。
王子はワタシを愛人とするために結婚させたがっている。相手はこのアスタフェルだ。
アスタフェルはワタシを殺すために魔界から来たと自称していた。しかし二度目に会った時、なぜか急に求婚してきた。
そしてアスタフェルはワタシの野望を認め、ワタシが王子と結婚することを許した。今考えてみれば王子の意思など気にもせずよくもおこがましいことを言ったものだと自分が恥ずかしいが、それはそれとして置いておく。
殺すか囲うか、その二択しかないはずのワタシという存在を、当のワタシの願いによって、アスタフェルは手放したのだ。創世神話から生きるワタシを殺しに来た風の魔王が、である。
「オマエと結婚したら、ワタシはどうなる? いや、どうなっていた?」
明るい空色の瞳を見上げ、問う。どうしてこんなに大切に扱ってくれるのか。もしかして……本当に、殺すとか囲うとかは関係なく、ワタシのこと……?
「あの時、オマエの求婚を受け、オマエの妻となっていたら。今頃ワタシはどうなっていた? オマエは子供子供いうが、ワタシはもう妊娠していたのか?」
「……そういうのは卑怯だぞ」
アスタフェルの顔色が険しくなる。
「せっかくお前のこと考えて王子様との結婚を許したのに。そうしたらお前は夢を叶えられるし、長生きもできるっていうから。なのに今更こんな……。お前こそ俺のこと誘ってるみたいじゃないか」
顔色からさっと険が抜け、覗うような表情でワタシを見下ろす。
「誘って……る? 俺のこと……」
彼はゆっくりとした動作で、両手でワタシの頬を包み込む。
触れられた頬が次第に熱くなっていく。忘れていた鼓動がまた主張を始める。
ひんやりとした感触なのに、彼の手がワタシの熱を呼び覚ますようだ。
ワタシは思わず生唾を飲み込んだ。
これは。
ワタシは彼と結婚する用件があり、ここで彼を誘惑するのは理にかなっていた。
でも。
何も言えず、ただアスタフェルを見つめる。
「なあ、違うなら違うっていえよ。でないと、俺……」
次第に赤くなっていく魔王の顔。潤んでいく空色の瞳。
「止まらなくなる……」
頬を包まれたまま上を向かされる。
なんとなく、こっちのほうがアスタフェルらしいな、と思った。顎をつまむ気障な行為よりも、こうして頬を包み込む方が彼らしい。
「……ワタシはオマエを利用しようとしている。それは否定しない」
ようやく、それだけ言った。声は自分でも驚くほど掠れていた。
「俺を誘惑するのも利用するうちに入るってことか?」
「そうだ。だから、オマエこそ利用されるのが嫌ならワタシから離れろ。今すぐに」
「嫌だ」
はっきりと、ワタシを見つめたまま否定した。
「ずっとお前と一緒にいる。ジャンザ、もっと俺を誘惑してくれ。お前という存在以外の何もかもがどうでもよくなるくらいに。俺の事情なんて溶かし尽くせ。そうしてくれるなら喜んでお前にこの身を差し出そう」
「オマエの、事情?」
「お前が溶かしてくれ。どろどろに溶けてなにもかも一つになりたいんだ。俺の考えも、事情も、お前の野望も。俺という入れ物を、溶けた俺とお前で満つようにしてくれ……」
美しい空色の瞳が、近づいてくる。
――何度目だろう、こういうの。だがいまの状態は初めてだった。こんなに心臓がドキドキして、相手の顔が見れないくらい顔が熱くなって、涙が出そうになって瞬きを繰り返しながら魔王の顔を見るなんて……。こんなこと、なかった。
でも、キスしたら……。
なにかが、『終わる』。そんな予感がある。それは、アスタフェルがたまにぽろっと口にする、彼の事情……彼の目的絡みなんだろう。逆にいうと、それを知るにはキスしたらいいんだ。
だが、ただ知るというだけのことではないんだと、今更怖くなる。彼の事情を受け入れる覚悟が、それを知ったときに訪れる『終わり』を受け入れる覚悟が、本当にワタシにはあるのか?
流れを遮る勇気がもてない。いや、違う。ワタシもしたいんだと思う。何もかもを溶かして一つにする、どろどろのキスを。この、美しき風の魔王と……。
その欲望に流されたまま……何が起ころうと、せめて彼とともにいられればいいと。そんなふうに、願う。
が。
唇が、触れそうになった、そのとき。
ワタシの背後でゴトッと物音がした。