49話 ハープの音色
★ ハープの音色
張り詰めた弦が奏でる単純な単音は、やがて繊細な和音となり、美しい曲となった。
談話室にあったハープを、白銀の髪の魔王が弾いている姿が目に浮かぶ。
アスタフェルが弾いていることをワタシは疑わなかった。
だって、こんな甘く、切ない音色。あいつ、寂しがりなんだな……。
「行かないと。待たせすぎた」
ずっと背をつけていた壁から身を起こし、部屋を出てワタシは呟く。
「何を言っているのですか?」
「聞こえないんですか? この音」
駆け昇る音階――。ワタシはそれを頼りに知りもしない入り組んだ廊下を早足で歩いて行く。
王子め、ずいぶんと奥の方にワタシを連れ込みやがったな。
ワタシのあとを追ってきながらアーク王子はしばらく聞き耳をたてていたが、やがて言った。
「……何も聞こえません」
王子に聞こえないということは、魔法的な音色なのかもしれない。魔力のあるものにしか聞こえないとか、もしくは――アスタフェルが、ワタシにだけ聞こえるように細工したか。
「ですが、ジャンザさんに何かが聞こえているのは確かなようですね。あなたの足取りには迷いがない」
ふん。クズのくせに聡いな、王子。
段々と音が大きくなっていく。こっちだな、アスタ。すぐ行く。
* * *
ワタシは音色を頼りに一度建物の外に出て、二つ隣の棟に移動した。
どうりでハープの音が王子に聞こえないはずである。というか、この距離、王子の本気度を現していて怖い。
しかしいつの間にこんなに移動していたんだろう。王子様のあとを着いていただけとはいえ外に出たことさえ気づいていなかったとは。
よほどアスタフェルのことばかり考えていたらしい。
最初に通された棟の、見覚えのある廊下に来た。そして、見覚えのある扉。
ハープの音色がなかから聞こえる。これならアーク王子の耳にも聞こえているだろう。
ワタシはその扉を開けた。
音が――優美なハープの音が、溢れ出してくる。
ローテーブルとソファーに囲まれた、部屋の中央。そこに、アスタフェルはいた。
アスタフェルは椅子に座り、大きなハープを膝で挟むようにして構え、細いがしっかりとした印象の白く長い指で、弦を見惚れるくらい精密に弾いていた。
彼の顔がこちらを向く。空色の目と、ワタシの目が合う。
手が止まると、流麗な調べも止まった。
「ジャンザ……!」
「待たせた」
彼は真っ赤な顔に笑顔を浮かべた。潤んだ瞳はきらきらと星のように輝き、赤い頬に嬉色が広がる。嬉しそうなその顔に、ワタシの胸にも温かい物が生まれた。帰ってきてよかった。
しかし次の瞬間には、ハッとしたように足をきつく閉じてハープを抱え込み、椅子の上で背筋を丸めた。
なんだ?
ワタシはアスタフェルの近くに歩いていきながら問うた。
「どうした? どこか痛いのか? 一人にした寂しさで胃をやられたとか」
「俺、そんなに繊細じゃないぞ……寂しいっていうより暇だっただけだし……」
なんだか歯切れが悪い。どうもおかしい。ワタシと目を合わそうとしないし、前髪で顔を隠そうとするし。
なんだ? もう少し感動の再開を噛み締めたいんだが。
なのになんでこんな、まるでワタシに会うのが気まずいみたいな、恥ずかしいみたいな、急に態度を変えたんだ。
……いや、待て。やっぱりこいつ変だ。
まず、頬が赤い。耳まで赤くなっている。ほんのりと染まるどころの話じゃない、高熱があるように目の周りまで赤くなっている。
それに目を合わさなくても分かる。目の潤み方が、泣き出す寸前みたいなことになっている。呼気も荒い。はあはあと、まるで全力疾走したあとのような……。少し汗ばんでもいる。
いつも背筋を伸ばしている彼らしくなく背を丸めているし。なんか妙に内股になっているし。
彼はちらちらとローテーブルの――ワタシたちが紅茶を飲んでいたそのあとを見ている。
つられてテーブルの上を見たワタシは、理解した。
なにかやらかすのではないかと思っていたが、そう来たか。
テーブルの上にはティーカップが三つ。そのうち一つが空になっていた。――アスタフェルの分だ。
こいつ、惚れ薬――勃起薬を自分の紅茶に入れて全部飲んだな。
今のアスタフェルの症状はそれだ。
女性であるワタシがいうのもなんだが、過去最大級に、痛いくらいに陰茎が大きくなっているはずだ。何故ならそうなるようにワタシが魔王の魔力を用いて作った薬だから。だから内股になって隠そうとしているのだろう。
……いい効き目だ。
王子の紅茶に入れろって言ったのに。……いや言ってないな、ワタシ。だからって自分で飲むなよ……。せめてワタシの紅茶に入れろよ……。意味分かんないよ……。
ワタシが気がついたことに、アスタフェルも感づいたようだ。さらに恥ずかしげに背を丸めて縮こまっている。
あまりのアホさ加減に無言で立ち尽くしているワタシの後ろで、王子が上品に言葉を発した。
「さすがはジャンザさんが選んだ方だ、うまいものです。どんな奏者に師事されたのですか?」
「いや、暇だったから、独学で。時間をかけたら誰でもこれくらいは弾けるようになる」
魔王のいう、時間をかけたら、にほんの少し興味を惹かれる。彼は創世の時代より存在する古の神族だ。そのアスタフェルのいう時間をかけたらとは、いったいどれだけの時間を意味するのだろう。
「独学でここまで弾けるなんて、なんて才能に溢れた方でしょう。僕もハープを覚えようとしてこの場をしつらえてみたのですが、どうもうまくいかなくて。よろしければご教授願いたいのですが」
ここは王子のハープの練習場だったのか。ついでに彼の狙う奥方と仲良くやる場所でもありそうだ。貴族の女性はよくハープを教養として習っているし。
アスタにこんなおべっかを使うのは、ワタシのことをまだ諦めてないからだな。ワタシを繋ぎ止めておきたいのだろう。
「ああ、いいぞ。ハープ仲間が増えるのは嬉しいからな。こんど一緒に弾こう。ここにハープは二台あるか?」
「すぐに取り寄せます」
アスタフェルはハープを抱えるように背を丸めたまま、ワタシに視線を寄越した。
真っ赤な顔で、ワタシを見てにやりとする。王子に取り入れたことを自慢しているようだ。
「ジャンザはなにか楽器できるか? みんなで合わせると楽しい――」
「アスタ、じゃないやアフェル、行こう」
彼の肩に手を置くと、アスタフェルはビクッと身を震わせ余計にハープにしがみついた。
「だっ、ダメだジャンザ、触るんじゃない」
「……はぁっ」
ついに堪えていたため息が出てしまった。