31話 惑いの魔女 *犬が大怪我をしている描写があります。苦手な方はご注意ください
★ 惑いの魔女
エベリン夫人の馬車のなかは快適なものだった。
「ジャンザさん、こちらに座りませんか」
後ろから夫人に声をかけられたが、ワタシは頭を振った。
「いえ、ここで見ています。容態が急に悪化するとも限らないし、この子が椅子から落ちるかもしれないから」
ふかふかのクッションが貼り付いている座台が前後向かい合って備わっていて、さらに高級そうなクッションがいくつか置いていある。
犬を前方の座台に寝せて、ワタシは床にクッションを敷いてそこに膝をついて犬を見ていた。犬は魔法による治療で痛みが引いて安心したのか、目を閉じじっとそている。寝ているのかもしれない。
出血は収まったが、やはり折れた右前足と左前足が気になる。今は包帯で巻かれているが、ワタシはこの中身を覚えている。
右前足。あらぬ方向に曲がった足。白い骨はけっこう綺麗にぱっきり折れていた。断面がかなり綺麗だった、といういことだ。
それは折れ方のなかでもかなりのラッキーといえた。ぎざぎざに折れるより格段にくっつきやすいし、治りも早い。
問題は後ろ右足だ。足の付け根から後ろに跳ね上がり、力なく尻尾のほうに鋭角に曲がってしまっていた。
足は付け根の方を骨折すると治りづらい。
命を助けることはできるけど、完璧に歩けるように治すのはかなり難しくなるのだ。
それとも、ワタシが間違っているのだろうか。
魔王の力を使えば跡形もなく治すことができる。でもそれを夫人に見られたくない。たったそれだけの理由で奥の手を使わないワタシは、酷い魔女なんだろうか。
かえすがえすも、夫人も余計なことを言うものだ。
夫人が変な気さえ起こさなければ綺麗に治してあげたというのに。
「ジャンザさんは変わりませんね。あなたにならピューラを任せられると、安心します」
ワタシは犬を見たまま応える。
「どうでしょうか。ワタシは自分のことしか考えない、酷く利己的な魔女なのかもしれません。そんな魔女にかかるなんて、この犬がかわいそうともいえます」
「ふふっ、素っ気なさも相変わらずですね。その素っ気なさにわたくしが救われるのも、また同じ。覚えていますか、ジャンザさん。あなたが言った猫の習性を」
「猫の習性?」
はて、それはいろいろあるが……。なにをこの夫人に言ったというのか。というか、この夫人と会ったことがあるようだが、それはいつのことだ……?
数々の疑問に首をかしげた、その時。
馬車が止まった。
しばらくしてアスタフェルが入ってくる。
「荷物、全部あったぞ。全部荷馬車に載せた」
今日買ったものの回収である。
「そうか、よかった。ありがとう。じゃあオマエは御者台に行って、家の場所を案内してくれ」
「それが御者がいうには家の場所知ってるんだと。以前あの家に住んでいた魔女に世話になったとかで」
という言葉を裏付けるように、馬車はまた動き出した。
「ジャンザ、代わろう。お前は夫人の横に座れ」
「オマエが犬見てもよく分からないだろ。オマエが座れよ」
そう断ったが、アスタフェルは聞き付けなかった。
「女が床に膝をついているのに男が椅子に座れるわけないだろう。それでは婚約者の名がすたる」
とワタシの隣に膝を抱えて座り込んだ。
……こういう、どうでもいいところで見栄をはるのってなんなんだろう。
「いや婚約者ってオマエ」
あまりにも自然に言いやがったので思わずスルーするところだった。ちゃんと訂正しておかないと。夫人の……貴族の前なのだし。
貴族は噂話が大好きだ。王子様に付きまとう魔女の話など格好の餌食だし、その魔女に婚約者がいるなどという噂がたてば、それがいつ王子の耳に入るかなどしれたものではない。
「お前、あの家にずっと住んでるわけではないのか?」
だが、ワタシのすぐ横で……膝で立つワタシより少し低いところで、白銀の髪のアスタフェルが明るい空色の瞳でワタシを見上げてきて、ワタシはドキッとしてしまった。
なんというか、不意打ちだった。こういう、教えを請うてくるような上目遣いに弱いのかもしれない、ワタシは。