29話 怪我をした伴走犬 *犬が大怪我をしている描写があります。苦手な方はご注意ください
犬が大怪我をしています。苦手な方はご注意ください。
★ 怪我をした伴走犬
「死んじゃだめ、死んじゃだめ!」
まだ小さい……5歳か6歳か。それくらいの男の子が、手を血に染めて犬の横腹をさすっている。
一方の犬は横たわりじっとしている。
犬は他の犬たちと同様、白い地に黒い斑点が美しい、垂れ耳のかなり大きい犬であった。ただ、かなりの出血である。とりあえず早く少年が腹をさするのをやめさせたい。
シフォルゼノをはじめとした聖なる神の教団は、人を癒やす魔法を神から与えられている。
教団の神官はその力をもちいて人々に魔法を施す。それは神の力を代行しているだけであるため、神官の寿命も使わない。
しかし万能に見える神の癒やしの力だが、一つ問題がある。それは『人にしか使えない』のだ。
動物を癒やすことができるのは、自分の魔力を使い、寿命を縮めて癒やしの魔法を使う魔女だけだ。
「ワタシは魔女です。診せて」
一言断って、犬のそばにしゃがみ込む。
犬をさする少年の手を止め、視診。
犬は気を失っていて、荒い呼吸だ。たまに目を開けて周囲を見るが、すぐに目を瞑る。辛そうだった。
右の前足が途中あたりであらぬ方向へ曲がっていた。そして後ろの右足が、ほぼお尻といってもいい、足の付け根あたりから尻尾のほうへと跳ね上がっていた。飛び出した白い骨も見える。胴体への損傷は思ったほどひどくはない。ただ出血が酷い。
「魔女さま! 魔女さま、この子助かる?」
子供がワタシにきいてくる。
「助かるよ」
嘘ではない。魔女の魔力は、実は人間よりも動植物のほうが効きが良いのだ。
だから魔女の多くは薬草に魔力を込め、薬草の持つ効力を補強する方向で人を癒やす。それが魔女の作る魔法薬だ。
その理由はよくわからないが、それが神々が決めた役割の分担なのだとワタシは思っている。
それに、今のワタシにはアスタフェルの魔力という後ろ盾もある。だから必ずこの犬を助けることはできる。
ただ、魔力による癒やしは万能ではない。
それに、この犬は……。貴族の所有犬らしいし……。
子供はほっとしたように笑みを浮かべた。
「この子、僕を助けてくれたんだ。馬車の前に飛び出しちゃった僕に飛びかかって、危ないって、どけてくれて。でもこの子がかわりに。いい子なんだ、すっごく」
「そうか、責任感の強い、いい子なんだね」
ワタシは子供に微笑み返すと、アスタフェルに向かって叫んだ。
「アスタ! 包帯を持ってきて。今日買ったやつ!」
「おお、待ってろ!」
白銀の魔王はワタシの声にすぐに反応し、踵を返して駆け出す。
そんなワタシたちの後ろで騎士と子供の父親が話しを続けていた。
「そんな大金、とても無理です……払えません……」
「ならば牢屋に入ることだな」
「しかし、それでは家族を養うことが」
「その子供が飛び出してきたのが悪いのだろう。お前はしっかりと子供の手を握っておくべきだったんだ」
この犬は、貴族の所有物だ。害せば罪になるし、ましてや殺したとなれば……。
ちらりと父親を見上げる。粗末な服装に、痩けた頬。とても裕福そうには見えない。貴族への賠償金が払えるとは思えない。その日暮らし……とまではいかないが、ギリギリの生活だろう。
それに、この人が牢屋に入ればそのあいだの収入も途絶える。なんとかならないだろうか……。
いや。とにかく、今はこの犬に集中しよう。この子の命を救うことは、この親子の命を救うことにもなる。――少なくとも罪の重さは軽くなる。
ワタシは犬の折れた足の上に手をかざした。
精神を集中させ、自分の魔力を引き出す。……いまは自分の魔力だけで。魔王の力を使うには人の目が多すぎる。
《生命の尊き光よ、私の導きによりこのもののなかに留まりますように》
血液とともに漏れていく生命力を体内に留める魔法だ。止血の効果もあり、しかも少しは傷が塞がる。
古き魔女の言葉をとなえると、じんわりとした光がワタシの手のひらに生まれた。光なのに個体のようなその白い光は、少しずつ、少しずつ大きくなり、傷口に触れる。
それをすべての外傷の上で行う。
辛そうな犬の息が楽そうなものになった。魔力による癒やしの魔法は凄いと、自分で施術しておいて驚く。これは確かに頼りたくもなる。
さあ、これで少し余裕が出た。でも急いで本式の術を使わないと。ワタシの魔力での応急処置などたかが知れている。
一段落付いたところで、ワタシは騎士を見上げた。瞬間、くらっとめまいが襲ってきた。やはり魔力を使うのは疲れる。ただ、これくらいならすぐに回復してくれるはずだ。
ワタシは一度、つばを飲み込んで体調を整えてから言葉を発した。
「……付き人がすぐに包帯を持ってきます。新鮮で清潔な水と小さい板が複数あると助かるのですが」
「その前に、お伺いしますが」
彼は気まずそうに口を開いた。
「ピューラは……その子は助かるのですか?」
彼が何をいいたいのか、なんとなく分かった。
「助かっても歩けなくなる可能性があります。この子は伴走犬ですよね?」
伴走犬とは、馬車と共に走って障害となる人や動物を追い立てたり、野盗を近づけさせないようにする仕事をする犬のことだ。
つまり、走れなくなったら、もう与える仕事もない、ということ。
その状態を手っ取り早くいうと、『用済み』となる。
いくら魔法で癒やすことが出来るといっても、すべてが元通り、とはならない。癒やしの魔法とは治ろうとする力を活性化させてすぐに治させるというだけのものだからだ。
死にゆく生命を生きながらえさせることはできないし、折れた足をくっつけることはできても、また歩くことが出来るかどうかまでの保証はできない。
『用済み』の犬への接し方は人それぞれだし、それを矯正する権利はただの魔女のワタシにはない。
ワタシ個人としては、歩けなくなろうがなんだろうが、この犬を助けてあげたい。子供を救ったこの犬に、人間として恩返ししたい。
「奥様と話をしてきていいですか。ピューラは奥様の……」
「魔女さん、ピューラを助けて下さいませんか」
凛とした老婦人の声に目を上げると、そこには落ち着いた色のドレスを着た白髪の奥方が立っていた。
騎士が会釈したのを見て、彼女が奥様――この馬車隊の女主人だと悟る。
ワタシは彼女の言葉にほっとしながらも確認した。
「騎士様にも言ったのですが、この子は命は助かっても歩けなくなる可能性があります。それでもよろしいのですね?」
「構いませんわ」
夫人はきっぱりと答えた。
「この子は、亡き主人が交配した最後の子ですの。わたくしにとっては特別な子なんです。歩けなくなったとしたら、わたくしが介護すればいいだけのことですわ。見合った返礼はさせていただきます。どうか助けてやってくださいませ」
その言葉が聞けるとは。ワタシはにやりと笑う。
「報奨なんかいりません。ただ、条件があります」
子供を振り返って、言葉を続ける。
「この子を許してあげてくれませんか」
「それは、どういうことでしょう?」
「牢屋に入れることも、賠償金をとることもなく、この場で彼らを釈放してほしいんです」
「魔女さま! そんな、そんなこと。いいんですか!?」
父親が声を上げる。
「この犬はそれを望んでいると思います。ワタシは患者の意思を汲んだだけです」
老婦人はゆっくり頷いた。
「ピューラが優しいのはわたくしもよく知っておりますわ。責任感がとても強いのも……。おそらく言葉が喋れたらそう言うことでしょう。でもね、魔女さん。そちらのお子さんが馬車の前に飛び出してきたからピューラが轢かれたというのも、また事実なのです」
「それは、確かに……」
そこをつかれるとなかなか反論できない。
「ですから……。わたくしも条件を出してよろしいかしら。それを魔女さんが呑んでくださったら釈放する、ということにしましょう」
警戒しながら、ワタシはきいた。
「……条件をお伺いしましょう」
「条件は、この子の治療にわたくしを立ち会わせること、です」
「もう立ち会われていますが」
「最後まで、ですわ」
「それは、つまり」
魔法による治療も、すべて見ていたい、と。
これは困ったことになったかもしれない。
アスタフェルの魔力をあてにしていたけど、人にずっと見られていては使えない。
特にこの人は貴族だし、ワタシがそれだけの力を持っていることを悟られるわけにはいかない。そんなことをすれば、噂になって王子に警戒されてしまう……。
あくまでも魔力の低いワタシのままで王子を油断させておきたいのに。