22話 キスする覚悟
★ キスする覚悟
「そうだな、顎クイだな」
目を診ながら、ゴミを探しながら。ワタシはそんなことを呟いていた。
いま、ワタシはアスタフェルの目の異常を探すのに全神経を集中させている。だからその他のこと……たとえばアスタフェルに対する恥ずかしさとか、そういうのまで気が回っていなかった。
「……なあアスタ。なんでオマエ、昼間、ワタシにキスしなかったんだ?」
自然と、そんなことを聞いていた。ぜったい聞けないと思っていたのに。
「え……」
「エンリオから助けてくれたときに。キスするふりで助けてくれて……それ自体はすごく助かったけど……」
……その話題を、ワタシたちは避けていた。
ユスティアから情報をもらって、家に帰って……夕飯を食べて、湯浴みをして。アスタフェルは寝床にしている物置部屋に引っ込み、ワタシは寝室で書き物をして。そのあいだ、ワタシたちは一言もあのことには触れなかった。
それで、寝て、また明日顔を合わせる……なにもあのことについては言わずに一日を過ごす。そんな暗黙の了解がワタシたちの間にはあった。
そのはずだった。
アスタフェルがこうして寝室に駆け込んでこなければ。
「その、それは」
「なにか理由があるんだよな」
理由がなければ、きっとあのとき……唇と唇は触れ合っていただろう。
「してほしかったのか? お前にそんな乙女っぽいところがあるとは意外――」
「ワタシが今、ここでしたら」
指でつまんだ風の魔王の形良い顎を、こちらに向かせる。
「その秘密は、暴ける?」
「お、お前が望むのならば。でもあの、俺はいいけどお前、これは……。いいのか? 本当に……?」
明るい空色の瞳に迷うような潤みが生まれ、小さな炎に柔らかく揺れた。身体も小刻みに震えている。ロウソクの光でも分かるくらい顔も赤らめているが、それでもワタシの目を真っ直ぐ見つめていた。
かくいうワタシも、今更ながら脈拍がとんでもない血流を伝えてきているのに気づく。
「ジャンザ……俺……」
掠れた囁き声。
アスタフェルは目を閉じた。潤んでいた瞳から、つーっと涙が一筋流れる。
……というか、なにやってるんだワタシは。
これじゃあまるで……。
「やめた」
手を離し、身を起こす。
「え?」
「……目は傷ついてない。湯気を当てるから、居間のテーブルで待ってて。お湯を沸かすから……」
「あっ」
彼は目をぱちぱちとさせる。
「取れたみたいだ。ゴミ。痛くない!」
「涙で流されたんだな」
顎クイにはそんな効果もあるのか。……ってんな馬鹿な。
おそらく、彼の白いまつ毛が目に入って白目に張り付いてしまっていたのだろう。それなら見つからなかったのも頷ける。保護色になっていたのだ。
何にせよ、これくらいで済んでよかった。
「では改めて。ジャンザ、どうぞ」
アスタフェルは目をつむった。しかも唇を尖らせて。
「……なんの真似だ?」
「キスの続き……」
「診療は終わりだ。出てけ」
「そんな、切ない」
「文句があるのか?」
ぎろりと睨みつつ暗に酷い目にあいたいかと言ってみれば、彼は慌てて立ち上がった。
「目のゴミをとってくれてありがとう、ジャンザ。ところで一つ疑問に思ってることがあるんだが、この際だから聞いていいかな」
まだ赤い顔で涙のあとを拭きつつそんなことを言う。
「なんの際だよ……」
応えながらロウソクを机に戻す。そんな間を稼ぎつつ、ワタシも自分を落ち着かせようと密かな深呼吸を繰り返した。
「なんか今日のことって口に出したらいけないみたいな雰囲気だったから聞きそびれててな」
「……そうだな」
自分からしておいて、あのことに触れないだなんて。いや『していない』のか。
結局、キスしなかったことについては有耶無耶のまま流す気らしい。
とはいえ今更話を蒸し返すのも恥ずかしいし……。
「ユスティアのことなんだが……」
「ユスティア?」
「お前が俺に、ユスティアの前で喋るなといっていたのは……」
「……ああ。あれは……」
言うべきではないのは分かっている。彼女の許可を得ていないのだから。……いや、でももうアスタフェルも気づいているだろうし……。
「男が怖い……ってことか、ユスティアは」
躊躇うワタシに、彼はそう促した。
ワタシは、ずるいとは思うが、明言はせずに請け合った。
「……相談を受けたことがある。どうしたら治るかって。彼女は貴族のお嬢様だ。その責務もあって、万民に対応しようとしているから」
「それにしてはシフォルゼノの騎士のことはずいぶん毛嫌いしているようだが」
「そこは分からない。たしかにあれは怖いというよりは……」
思い出す。エンリオになにか言われてキレた彼女が平手打ちをして、そのときに彼女が言っていたことを。
たしか、あなたはそんなことを言うことはできないとか、ここでは部外者なんだとか、そんなことを言っていた。
それが何を意味するのか――。
「彼女には彼女の事情があるんだ。……エンリオにもエンリオの事情がある……」
ワタシたちを逃してくれたこと。それ自体は感謝すべきことだが……。あいつが何を考えているのか分からなくなった。
今までは、王子様に近づかせないためにワタシの邪魔をしているだけだったし、今日だってユスティアからワタシの名を引き出そうとしていたのに。
ユスティアの言葉で、彼のなかの何かが変わったのだ。
それが何かは分からないが。
「エンリオのこと。早く手を打ったほうがいいのかもな」
事態がややこしくなる前に。ワタシは、ワタシの野望を叶えるために動こう。