18話 魔王のぬくもり
★18 魔王のぬくもり
「いや、なんでもない。何か用かキーロン」
「はい。本部から至急の使いが参っております。直接エンリオ様のお耳に入れたいことがある、と……」
どうやら相手はエンリオの部下のようだ。
「……そうか」
しばしの逡巡の間があり、頷いた気配があった。
「すぐに行く。ユスティア、邪魔をして悪かったな。君はもっと両の目を見開いて、しっかりと前を見据えることだ」
「それは、どういう……?」
エンリオが歩きだす足音。
ユスティアが見なくてはならない『前』とは……?
なんて考えてる場合じゃなかった。
エンリオは確実にワタシたちの隠れている通路の前を通る。ということは、見つかる。
慌てて隠れようとしたがまっすぐな通路だし、本棚には本もぎっしり詰まっていて隠れるような隙間もない。
アスタフェルは背は大きいが、彼の影に隠れて……というほど大男というわけでもない。
なんでもっと遠くに逃げなかったんだワタシは……おかげで気になる会話は聞けたとはいえ、自分の身が危険に晒されては元も子もない。
カツ、カツ、と踵が鳴る音が近づいてくる。
どうすれば……。
きょろきょろとするワタシの肩を抱き寄せるものがあった。
背中に手を回され、立っている位置を力づくで奥側に移動させられる。
薄闇のなか、流麗な顔が覆いかぶさるように近づいてきた。
瞬間、頭のなかに思い出されるものがあった。はじめて彼と会って殺されそうになったときのことだ。あの時もこんなふうに顔が近づいてきた。あのとき彼は、明確に敵だった。だが今は……。
そっと、唇に唇が近づく。
が、寸前で止まった。
アスタフェルの明るい瞳が緊張したままワタシの瞳を見つめていた。
思わず、ぎゅっと力強く目をつむる。
即席の暗闇のなか、自分の心臓の音だけが聞こえた。
アスタフェルの考えは分かる。密会している恋人たちのふりをしてやり過ごそうというのだろう。
ならば、それに賭ける。
ワタシがジャンザだとバレませんように。
暗闇のなか、甘い吐息が自分の唇に当たる感覚がある。相変わらず身体はきつく抱きしめられたまま。
アスタフェルの体温が、魔王のくせに私を安心させてくれた。
不意に、自分がいますごく熱いことに気づいた。熱冷ましの薬草のレシピは……。アスタフェルは気づいているのだろうか?
足音が止まり、こちらにちらりと視線が向けられる気配があった。
心臓が壊れそうだ。こんなにドックンドックンと血流を押し出したのは、鼓動をし始めて以来初めてのことだ。負荷に耐えられるかどうか。
魔王に聞かれていたら、すごく恥ずかしい。
いや、聖騎士に見つかるかもしれなくて、それで緊張して鼓動が大きくなっているだけだから恥ずかしくないのかもしれない。
自分が分からない。
「どうかなさいましたか?」
「……いや、なんでもない」
足音が再開し、離れていく。
助かった……。
「名残惜しいがこれにて失礼するよ、ちょこまかうるさい仔猫ちゃん。それと素敵な紳士さんも」
げっ。バレてる。
ワタシは勢いで目を開け――アスタフェルの明るい空色の瞳とかち合った。
本当に、吸い込まれそうなくらい綺麗な、天頂の空の瞳だった。不意に彼の切れ長の眼が長い白銀色のまつ毛に彩られていることに気づく。
その眼には、戸惑いがはっきりと浮かんでいた。
足音が去っていく。ワタシたちは見つめ合ったまま。
なぜ聖騎士はワタシたちを逃したのか――。
足音が聞こえなくなると、はあ、とはっきりしたため息があった。ユスティアだ。
ワタシたちはどちらからともなくぱっと離れた。
「ユスティア! 大丈夫? ユスティア!」
司書騎士の名を呼びながら、ワタシは大股で歩き出した。