105話 魔界で考えるのはあなたのことばかり:アスタフェル視点1
◇ アスタフェル視点です
時間は少し遡り――。
「魔王様! 聞いてますか?」
執務室の机に頬杖をついてぼけーっとしていたアスタフェルは、呼びかけてきた男に視点を合わせた。
「え? 聞いてる聞いてる」
魔王の正装である黒い長衣を着ているアスタフェルではあるが、四枚の純白の翼は力なく下がり気味だし永久不滅である筈の捩れた二本の角もどことなくしょんぼりしている。
「……やはり聞いてませんでしたね。重要な話だからちゃんと聞いてくださいと申し上げたばかりですのに」
と眉根を寄せて溜め息をつくのは宰相ゼーヴァだ。アスタフェルより歳上の、二十代後半に見える外見をしている。
とはいえゼーヴァはゆっくりではあるが歳を取るので、当然ながら不老不死のアスタフェルよりとてつもない年下である。
ゼーヴァは黒い髪を肩口で切りそろえた禿スタイルで、魔物と妖精の混血である彼の背には大きなアゲハ蝶の翅が生えていた。
着ているのが黒いローブだから鮮やかな翅が映えるといえば映えるのだが、彼の黒いローブを見るたびにジャンザを思い出してしまって辛い。
「聞いてると言ってるだろ……」
魔界に帰ってからというもの、アスタフェルはこうして物思いに沈むことが多くなった。
思い出すのはジャンザのことばかりだ。
気が強くて極度の我が儘で人のことを利用しようとしてばかりの、まさに魔女だった。
思い出すだけでイラっとして「ジャンザめぇ……」と唸り声をあげたくなるほどに、魔の女だった。
でも可愛いかった。それに、何か聞いたらズバッと答えてくれる頼もしさもある。人を助けようとする志もいい。目標のために全てを投げ打つ強さもある。……それを強さというならば。
だから彼女のために何かしてあげたいと思ったのに……。
「では、私がなんと言ったか言ってみてください」
またジャンザのことを考えていたアスタフェルは、不意に目の前の現実に引き戻される。
「え……と、それはだな……」
実際問題としてまったく聞いていなかったアスタフェルが言い淀むと、すかさず天井の辺りから少女の声が降ってきた。
「西の果てのフィナを始末するかどうか、ですよ」
「でかしたシルフィ。ゼーヴァ、フィナだぞ」
「そこか、シルフィ!」
宰相ゼーヴァの怒号が飛ぶ。
「魔王様の御前……いやむしろ頭上! というかどうやってここに入り込んだ? ここには防御陣を張ってあるというのに――」
フィナ。これもまたジャンザを思い起こさせる単語だ。
ジャンザの師匠の使い魔だった魔物で、長くジャンザと一緒にいたというフィナ。ジャンザの昔語りによく出てきた。
風鴉のフィナがかなり暴れているからなんとかしてくれ、と陳情が来ていたから、それを餌にジャンザを魔界に連れてこれないものかと思ったのだが……。
それもなんだか棚上げになっている。
しかもこの三ヶ月調べたところでは、フィナは単に魔女の墓を暴きに来た連中を殺戮しているだけだった。
手を出さなければなんの脅威にもならないやつだ。
しかし宰相ゼーヴァには、アスタフェルの統治下において勝手な殺戮が行われるのは望ましくない、と言われている。
とはいえ軍を動かすほどでもないし、何よりアスタフェル自身の気力が湧かない。
「やだなゼーヴァ様。私、掃除してただけですよ。綺麗にしたら気持ちよくなって寝ちゃっただけです。シャンデリアって綺麗でキラキラしてて気持ちいいですよねー」
「……器用なところで寝るものだ、まったく。侍女長殿が探していたぞ、早く行ってあげなさい」
「あの方いっつも私のこと探してますよね」
「お前がいつもサボって寝ているからだろうが。まったく、どいつもこいつも……。侍女長殿の苦労が偲ばれる……」
フィナのことを手札に使うつもりはなかった。
ジャンザのあまりの頑固さにアスタフェルが根負けしたのだ。
……こいつは本当に俺のこと好きなのか? とアスタフェルが疑ったのは事実だ。
好きだったらこんな無理難題押し付けてこないんじゃ? ただ利用されてるだけでは?
しかし。
『オマエはワタシが勝ち取ったんだ。だからオマエはワタシのいうことを聞くんだ』
ジャンザはそう言った。
あの世界から消えようとしていたアスタフェルを無理矢理引き留めたことを言っていたのだろう。
だとしたら……。
ジャンザは自分の意志で、アスタフェルを得たということである。
それはつまり、自分がジャンザに求められている、ということ。
ジャンザは本気で自分を愛してくれている。ただただ不器用なだけで、想いは本物――。
それを悟ったとき、急激にジャンザが愛しくてたまらなくなった。
アスタフェルの想いを伝える、そしてジャンザの想いも受け取る、いい方法も思いついてしまった。
身も心もすでにジャンザのものだと思っていたのに、それ以上に与えたくなったし、ジャンザが欲しくてたまらくなった……。
「人聞きの悪いことを。寝るのは一生懸命お掃除して綺麗にした自分への、ご褒美です」
「いいから降りてきなさい!」
「はーい」
天井からゼーヴァの前にくるりんと踊るように降りてきたのは、手のひら大の少女だった。トンボの翅を背から生やした、掃除妖精のシルフィである。
ふわふわした銀色の髪を白い三角巾で覆っていて、着ているのはスレンダーな紺のワンピース。腰から下には装飾を抑えた白いハーフエプロンを付けていた。手に持つのは身の丈に合った、小さな小さな水色のハタキだ。
侍女らしい格好ではあるのだが、ジャンザと一緒に買ったあの可愛いエプロンドレスには程遠いシンプルさがアスタフェルには残念だった。
あのエプロンドレス……置いてきてしまったけれど、どうなっているだろうか。
ジャンザが着ていたりして……。
あれを着たジャンザは、きっと物凄く可愛いはずだ。
そう考えた途端、ずくんと胸が痛くなった。
今はシフォルゼノがあれを、ジャンザと一緒に楽しんでいるのだろう。
「ほらっ、早く行きなさい。仕事する、仕事!」
「はーい。ところでゼーヴァ様、あれもう聞きました?」
「雑談に付き合うつもりはないぞ」
「提案ですよ、提案。いま城に来てる吟遊詩人さんの歌、魔王様たちもお聞きになられたらいいと思うんです。イケメンでいい声で抑揚の付け方も完璧で、絶対面白いですから」
それからこそこそっと小さな声でお掃除妖精は呟く。
「最近魔王様元気ないし、そういう気晴らしもしたらいいんじゃないかと……」
「なるほど。どんな筋の歌なんだ? 聖神を打ち倒し世界を取り戻す英雄譚とか?」
「いろいろ歌えるみたいですよ。でも得意なのがあって、これがほんとにいいんです。滅茶苦茶スカッとするんですよ」
だが、それがジャンザの選んだ道だ。
アスタフェルは、付き合いきれずに逃げたけれども。
仕方なかった。
ジャンザと一緒にいたら、たぶん自分が破壊されるから。
あそこまでの我が儘女と一緒にいたら、こっちの身が持たないということだ。
そのなかで、たった一度だけ……。
あのとき二人の気持ちは確かに通じ合った。
超絶頭でっかちのジャンザと想いが一つになったのだ。
それは、とてつもない幸福だった。
あの思い出だけを抱えて、これからを生きよう。
ジャンザの願いが無事に叶うのを、この魔界で祈りながら……。
しかしそれはそれとして、アスタフェルには気がかりもあった。
想いを伝えあうのはいいが、それで結局すぐ逃げるって。
これって、世間一般で言うところの――。
「ヤリ逃げはサイテー、って歌なんですけど」
ついていた頬杖がずるっと崩れた。
「下世話な歌が高評価なのだな」
「ゼーヴァ様、エンタメは下世話からですよ。ヤリ逃げ男がどんどん悲惨な目に遭っていくって筋で、この転落劇がもう爽快で――あれ、魔王様。どうかされましたか?」
「い、いや。その……」
思わず立ち上がってしまったアスタフェルは、しどろもどろに言葉を繋ぐ。
「いろいろあって逃げるしかない時ってあるだろ? 想いとは裏腹に。そういう、どうしいようもないこととかあるだろう、世の中には。好き合ってても別れるとか、最後の思い出にとか」
「それは普通に別れたらいいじゃないですか。する必要ないでしょ。最後の思い出とか、男の我が儘ですよそれは」
「そ、そうかな……」
「なんの話をしているんですか、まったく」
ゼーヴァがため息をつく横で、シルフィは考え込むように腕を組む。
「でも……。魔王様のは、ヤリ逃げじゃないと思いますよ?」
そのシルフィの言葉に、アスタフェルは息をのんだ。