103話 寂しい聖妃を満たしてあげたい夜
エンリオに鎌をかけてから一週間ほど経った日の、夜のこと。
ここ崖の修道院スラスは祈りの場所で、夜ともなると神聖な闇に全てが沈み込む。
今夜は風が強い。雲が飛ぶように夜空を移動していき、冴えた満月が顔を覗かせてはまた隠れていた。
それにこの風、ずいぶんと湿気っている。遠からず雨が振りそうだ。
部屋での一人っきりの夕食、夜の黙想、そして本日全ての勉強を終えたワタシは、その月明かりに冴えた静かで騒がしい闇の中、教団から支給されたネグリジェを着て寝室にて眠りにつこうとしていた。
このネグリジェがまたえらく可憐で……。
ごく薄い緑色のシフォンが何重にも重ねられていて、フリルやらレースやらでふわふわしている。
手触りがよくて、最上級品であることは見ただけで分かるほどの質の高さではあるのだが。如何せん……趣味が透けて見えるのが気持ち悪い。エンリオの。
寝間着もこんなのしかないから、着てるけどさ。
で、外の風の騒がしさを聞きながら静かに目を閉じたワタシだったのだが、部屋のドアがそっと開いたのに気付き、バチッと目を開けた。
「誰だ」
警戒してベッドから半身を起こすと、そこには月光に輝く金髪のエンリオがいた。
見知った顔で安心はしたが、コイツだからといって安心するのは確実に気が早い。
彼は後ろ手でドアを閉めながら礼をした。
「夜分遅く申し訳ありません、聖妃様。折り入ってお話がございます」
「なんだよ。昼間に言えばいいだろ、どうせいつも暇なんだし。まさか、風の魔王がどこぞの村襲ったからすぐに助けてくれ、とか?」
「……魔王の相手は聖妃様ではなく、我ら聖騎士団の役目です」
「アイツの御しかたはアンタ達よりワタシの方がよく知ってるよ」
「聖妃様」
エンリオはワタシの言葉には応えず、にっこりと微笑んだ。
「ウェラニティエスへの出立の許可が下りました」
「どこだって?」
「聖地です。我らが風の聖地、ウェラニティエスです」
「そうか、ようやくか」
この前鎌かけたのが効いたかな? それでも一週間はかかったが。
「早速明日の朝にここを出立いたします。ご準備をお願いいたします、聖妃様」
「いや、いくらなんでも急すぎるだろ」
一夜でなにを準備しろというのか。それに、寝たいんだけど……。
「出発、明後日とかに伸ばせないのか?」
「じきに雨が降り出します。明日の昼には暴風雨となります」
と、エンリオは窓の外に目をやる。
つられて見れば、窓ガラスの向こうの夜空にかかった満月を、強風に吹かれたちぎれ雲が撫でるように過ぎていった。
「この辺りの今時分の嵐は長引きます。移動の許可が出たのならば早くに移動してしまう方がよいかと」
「……そうか」
まあ、雨に振られて立ち往生するよりは今急いで準備したほうがマシか。
「ええっと。じゃあ、これからすぐに王子から貰った装飾品を旅用の貴重品箱に詰めよう。箱が相当数必要だけど、数はあるか?」
アクセサリー類はぎっちり詰めたら一つの箱でいけるけど、ドレスだと嵩張るからそうはいかない。
室内に散らかっていた空箱はこの前片したところだし。……といっても、あれは柔らかすぎるし華美すぎるしで、長旅には向かないが。
「すぐに手配いたします」
「それから馬車の手配……と、これはアンタの仕事か」
ワタシが主導で旅を取り仕切る訳じゃないんだよな……。ワタシは聖妃として、彼らに連れて行かれる立場だ。
「その辺は任せるよ」
「かしこまりました」
「……って、ワタシの準備はそれくらいか」
王子から貰ったプレゼント以外に持って行かなければならないものなんて、そんなにない。
それこそ、日常の手回り品くらいだ。着替えは教団が用意してくれるし。……薬草などの魔女としての道具は、全てあの魔女の家に置いてきたし……。
あ、それから……。
ワタシはちらりと部屋の隅に視線を走らせた。
使い古した大きな肩掛けバッグが置いてある。
これだけは誰にも言わずに、さも日常品が入ってるみたいな顔して、こそっと自分で持ち出そう。
バッグに入っているのはエプロンドレスとフリルカチューシャ、それからアスタフェルが置いていった犬(長毛種)の木彫りの小さな像。……ワタシの宝物だ。
「とりあえず着替えるか。エンリオ、今夜は徹夜――っ!?」
エンリオに視線を戻したワタシは、思わず口から心臓が出るくらい驚いた。
ドアの前にいたはずのエンリオが、ベッドのすぐ横に……来ていたから。
しかも、何を思ってか、彼は着ている騎士服の一番上のボタンに手を掛けていた。
「まだ聖妃様の準備は他にありますよ。大事な、大事な準備が……」
ワタシがいるベッドに、彼はギシッと膝を乗せてくる。
エンリオは微笑みながら、白い騎士服のボタンを一つ一つ、上から順に外していった。
「聖妃様、寂しいのでしょう?」
ワタシは枕元に座ったまま後ずさりする。
「なっ、何をいってるんだアンタは」
「……聖妃様は、二言目にはアスタ、アスタと仰います。私には魔王のことは二度と聞くなと言われたくせに」
「そ、そうか。すまなかった」
自分では意識してなかったけど……、確かにここのところ、アスタフェルのことばかり言っていたかもしれない。
「気をつけるよ。だから早まるな」
「いえ、いいのです。あなたにとっての風の魔王は、婚約までしておられた仲の良い恋人に他なりません。魔王との間に何があったのか詳しくは聞きませんが……。愛し合う男女が急に別れたとなれば、寂しいのは道理かと」
「理解が柔軟で助かるよ」
ずりずりと後じさるワタシを追い詰めるように、エンリオはベッドの上を四つん這いで歩いてくる。すでに白い騎士服ははだけ、裸の胸元が見えていた。
これって、つまりはそういうこと狙い、だよね……。
「あなたが聖妃の力を開放されないのも、それが原因ですね?」
「……使う機会がないだけだ」
「魔王に言われたのでしょう? ――茶色の髪の方が好き、とか。そういうことを」
「そっ、それは」
心臓が裏返るかと思うくらい、ドキッとした。
実際、その通りだったから。
「聖妃でありながら聖妃の力を使わない、そればかりか別れた恋人のことばかり口にする。そんな聖妃様を見ているのは、従者として辛いものがあります」
「そうかすまん、ほんとゴメン。これからは気をつける」
「謝らないで下さい。さきほども言いましたが、愛する者が急にいなくなれば誰だって傷つきます。かえって安心したほどです、聖妃様も一人の女性なのだと……」
「それはどうも」
「……私はあなたにお仕えすることができて、こんなにも満たされているのに。あなたはそうではないなんて。これほど悲しいことがあるでしょうか」
エンリオの青緑の双眸がきらめき、形のいい口から熱い囁きが溜め息のように漏れた。
「ですから、あなたに満たされた私があなたを癒やして差し上げます。聖妃様……」