a piacere
と、がやがやと談笑していた貴族たちが一斉に大階段に体を向けた。階段の最上の踊り場に皇帝夫妻が現れたのだ。皇帝は大きく腕を広げ、歓迎の意を表した。
「皆よく来てくれた。諸国の方々もさぞお疲れであろうな」
「御心配には及ばぬようですよ。御婦人方もいきいきとしておいでで一段とお美しくていらっしゃる」
オットーが心にもないと思われる台詞を口にし、当の婦人たちは上品に笑って受け流した。
「ところで、本日の主役のお姿が見えませんけれど、どうなさったのでしょうか?」
一人の婦人が言う。
「皆で先程から話しておりましたのよ、どんなに素敵な方におなりでしょうねって。私も一年ぶりですもの、早くお会いしたくてうずうずしておりましてよ」
うきうきと口を挟んだのはフランツィスカだった。オットーはそんな娘に、
「まあそう焦りなさるな」
とにこやかに応じた。
これが全部演技だとしたら空恐ろしい家族だな、とスティーブンは思う。そしてサイラスに少しだけ同情した。とはいえ、自分も母親には辛く当たられていて、素晴らしい家庭環境とは言い難いのだが。
「うむ、やはり気後れするのだろう。私が呼びに行こう」
皇帝がさっと身を翻し、上階へと消えた。
気後れという言葉があまりにメアリーに似合わず、スティーブンは噴き出しそうになった。もったいぶってなかなか主役が姿を現さないのは、パーティーではよくあることだ。
皇后はワインレッドのドレスの裾を上品に少し持ち上げ、階下に降り立った。
「皇后様にもご機嫌うるわしゅう」
口々に言う婦人たち、貴族たちを軽く受け流し、皇后は快活に笑う。
数分の後、つかつかと足音がエントランスホールにこだました。皇帝が戻ってきたのだ。貴族たちから声にならないどよめきが起こり、振り返って、大階段の最上段に立つメアリーの姿を見たスティーブンは不覚にも固まった。
まるで別人だった、というのはどうもありきたりだ。まるで天使のようだ、というのも陳腐だし、天使というには少し愛想が足りない。まるで女神というのも何か違う気がする――素直に驚くほど綺麗だった、と言えばいいのだろうか。語彙が貧困な彼はそんな思案をする。
フランツィスカはほうとため息をついた。メアリーは大柄でもないし、体格もどちらかと言えば華奢なのだが、圧倒的な存在感があった。いつもより数段大人びて見えるのは、肩口の大きく開いたスモーキーブルーのドレスのおかげだろう。くすんだ色味を選んだおかげで色っぽくなりすぎず、メアリーの相変わらずの仏頂面が、かえって堂々とした印象を与えている。わざとらしい愛想笑いを浮かべることのないメアリーにぴったりだ。白い花のコサージュも清楚な感じだし、爪のブルーのグラデーションもよく映えている。茶色のつややかな髪は、優雅なサイドシニョンに結い上げられ、首周りを目立たせている。そこまで考えたところで、この衣装一式を用意したのは恐らく皇后だ、と思い至った。ここまで計算し尽くされているのだから間違いない。メアリーらしさを引き出しつつ、これから彼女の首にかけられるであろう皇太子の印のネックレスを際立たせる配慮がなされている。さすがは皇后だ、とフランツィスカは一人頷いた。
当のメアリーは意に介さない様子で、いつも通りの冷めた顔つきだった。本当は大きな目をしているのに、その目はすっと細められている。ちらりとスティーブンの方を見てみると見事に固まっていたので、思わずくすりと笑ってしまったフランツィスカだった。
「よくお似合いですこと。娘ながら美しいわ。殿方たちも目を奪われておいでのようね」
と上機嫌で口にしたのはエレオノーラ皇后であった。
度肝を抜かれていた、と言うと言葉が悪いが、一様に固まっていた貴族たちが口々にメアリーを褒めそやし始める。
「これはこれは……思わず目を奪われてしまいましたなあ」
「しばらくお目にかからぬうちに何とお美しくご成長なされたことか」
「素晴らしすぎて、声も出ませんでしたわ」
「はは、何せ皇太子となられるお方なのですから……当然でしょうな」
と、皮肉を言ったのは、リッジウェイ伯爵だった。皇太子になるのだからこれぐらいでなければがっかりだとでも言いたげだ。場の温度が十度くらいは下がっただろうか。
「もちろんですわよ!何と言っても偉大なる皇帝陛下の第一皇女であられるのですもの」
すかさずフランツィスカが口を挟んだ。
「ええ、ええ。そうでしょうとも!」
伯爵は小馬鹿にした笑いを浮かべる。
場の空気がよどみ始めたのを察知してか、皇后は快活に提案した。
「ねえ、さっそくメアリーのパイプオルガンを聴かせていただくことにしません?」
一同はほっとしたようにこの案に飛びついた。
パイプオルガンは赤と白のリボンが造花でごてごてと飾り立てられていて、メアリーは胸が悪くなりそうだった。赤と白は性に合わない。混ぜるとピンクだ。ピンクはもっと性に合わない。
貴族の何人かはいつ見ても素敵なオルガンで、とか何とか調子の良いお世辞を言っている。パイプにリボンなどかけたところで音など何も変わりはしないのに、今日は一段と良い音が聴けそうだ、などと褒めている輩もいる。
メアリーは椅子に座ると、ほうと息をついた。さすがの彼女でも多少は緊張する。
指が静かに鍵盤の上を滑り、高めの和音がエントランスの高い天井に響き渡った。その後はひたすらに重々しい低音が続く。荘重な音色は女帝の内に秘めた意志の強さの現れだろう。曲調は徐々に、ごくわずかずつ変容を見せ始める。その分散和音を多用した緩やかな変調の仕方が、彼女は好きだったのだが、先刻のサイラスの発言を聞いて、複雑な心持ちになっていた。言われてみれば胸がざわめいている気がする。そんなことを思いながらも手は休めない。
曲は次第に奔放なメロディーになっていく。ああ、確かに城を飛び出していってしまうような印象がある。サイラスは何と言っていただろうか?
「彼女は風のようにどこかへ行ってしまう」
「少なくとも俺は聴くたびに不安になる」
私が、どこかへ行ってしまうのを、サイラスが、恐れている?それじゃまるで――いや、今は曲に集中しよう。
旋律は次第に速くなっていく。しかし、草原に思いを馳せながら、いつしかメアリーは妙に納得し始めていた。「自分」が不意にどこかへ行ってしまって、早く追いかけなければ見失ってしまいそうな不可思議な感覚に囚われたのだ。
曲は軽やかなまま終わりに近づく。そこには女帝らしい厳しさはもうない。そう考えるとサイラスが帰ってこないと表現したのも頷ける。
時間をかけて速くなっていった旋律は、先刻とは違い、急激に遅くなる。そして、明るい和音でふわりと曲が終わった。
エントランスホールは水を打ったように静かだった。曲の余韻に浸っているというよりは、呆然としているような感じだ、とメアリーは思った。誰もが圧倒されていた。
「ますます上達なさったようね」
皇后が満足そうに言い、隣の皇帝に微笑みかける。
「そうだな。よし、皆、玉座の間に移ってくれ」
一瞬貴族たちの顔に緊張が走る。マリアがすっと顔を上げ、貴族たちの方に視線を注いだ。
<バー>
「今の、曲は」
「え?」
「なんという曲ですか? 一つ前の曲は知っている――」
男は、それほど有名でもない曲名を告げてみせた。
「あら、お詳しいのですね」
「でも、今の曲は知らない。色々な曲を聴いているし、記憶力も悪くないと自負していますが、初めて聴く曲だとしか思えない」
「大抵の曲はお聴きになっていると? すごい自信ですね、それって」
娘は、身分の高そうなその男に対して、あっけらかんと笑った。
「ただ知らない曲というだけでは、こんなに心惹かれはしません」
「あら、『あなたのような可愛らしい方が弾いていたからですよ、お嬢さん』とか仰るのかしら?」
娘は不遜な態度を崩さない。
「そうではない」
男は少し不機嫌そうに言う。言ってしまってから、それでは婦人に対して失礼だと思ったらしく慌てて言い募った。
「いや、可愛らしくないと言いたいわけじゃ……。参ったな。そういう軽薄な人間だと思われるのは心外だと言いたかっただけで……。ええと、その、見えたんですよ。あなたの演奏を聴いているとき、幸せな家族の姿が……。音楽が好きで、高名な楽人の演奏も聴いてきたが、こんな……こんな演奏は初めて聴いた」
娘は何も答えなかった。男はさらに言った。
「だから、知りたくなってしまったんです」
あなたのことを。
そう小さな声で言うと、頭を掻く。
「いや、こう言うと軽薄に聞こえますが、そういうことではなくて、こんな演奏をされるわけが知りたくて――」
「この曲は」
娘は唐突に口を開いた。
「え」
「私が書いた曲です。だから、例えこの世のほとんどの曲をご存知のあなたでも、知らないのは仕方ないんです」
「なんと……それは」
「――幸せな家族が、見えましたか」
「え、あ、はい」
「この曲の名前は――」
童話の想い出、といいます。