幼馴染
ガチャリ、と音を立ててドアノブが動いた。
「殿下、そろそろおいでになられた方が」
顔を上げると、サイラスが支度を整えてドアの外に立っていた。
「何故お前が来るんだ、とでも仰りたそうな御様子だ。御想像通りですよ、殿下。父に命じられました」
「そうか、それはよかったな」
メアリーは投げやりに答える。
「御機嫌斜めですね」
サイラスが言うが、メアリーは何も言わなかった。
「女帝、ですか。良い選曲だと思いますよ」
メアリーは楽譜を片付け、さっさと歩き出した。階段の中ほどで追いついたサイラスはなおも続ける。
「嫌味ではないのですよ。純粋にあの曲は良い曲だと思うから言っているんです」
「わかったようなことを言うんだな」
とは言ったものの、音楽の話ならスティーブンよりサイラスの方が理解がある。それは昔も今も同じことだった。サイラスはバイオリンもできる。
「あの曲は、風です」
サイラスは唐突に言った。メアリーは首を傾げる。
「草原をわたる風のような曲です。初めは重々しいけれど、曲が進むにつれて流れるようなやさしいメロディーになっていく。まるで宮廷を飛び出して野原で遊んでいるような」
「わかる気がするな。女帝らしく荘厳なのに、幼い子供のような自由さもある」
「珍しく意見が一致しましたね。けれど俺はこの曲が嫌いですよ」
「え?」
「あまりに自由すぎるからです。彼女は風のようにどこかへ行ってしまう。そして二度と帰っては来ないでしょう」
「彼女というのは誰だ?」
「セシリア様であり、もしかするとあなたでもあるかもしれない」
「二度と帰って来ないとどうして言える?」
「断言などしませんよ。音楽というのは過去であり現在でもあり未来にもなり得るのですから。未来のことはわかりません。けれどこの曲は不安定だ。少なくとも俺は聴くたびに不安になる」
「何故お前が不安になる必要があるんだ」
メアリーは何の気なしに聞いた。とたんにサイラスの表情が微かにかげった。ただでさえ曇りがちなのでその微妙な変化はなかなかに読み取り辛かったが、メアリーはかろうじて読み取った。
「どうかしたか」
「いえ。あなたは何にでも理由を求めすぎる。理詰めの考え方も行き過ぎはよくないですよ」
「他人のことばかり言うが、お前もそうだろう」
「かもしれません」
それきり二人は黙ったまま階段を下っていった。メアリーは何だかはぐらかされたような気分だった。
「はあ、これはまたご大層な」
エントランスの装飾と、次々に降りてくる貴族の集団を見て、スティーブンは思わず呟いた。アンナは見とれているのか、ため息を一つついたきり何も言わなかった。
エントランスの右手のパイプオルガンは花とリボンで飾られていた。冬に似つかわしくない大輪の花々の咲き乱れぶりに疑問を感じて近づいてみると、やはり造花だった。リボンは帝国の象徴でもある深紅と、純粋さを表しているのであろう白色だ。スティーブンはセンスを疑いつつ目を逸らした。
と、今度は見知った顔が目に入った。
「あら、アンナにスティーブンじゃないの。元気にしてらした?」
アンナがさっと振り返った。
「フランツィスカおねえさま!」
フランツィスカはレモンイエローのドレスに身を包んでいる。五分丈のバルーン袖のついた、どことなくかわいらしいデザインだ。
金髪に茶色の目、格別の美人ではないが、彼女の目の輝きと全身から放たれる隠しようのない華やかさは人々を魅了する。彼女はいつだって場の主役だった。
「おう、フランツィか。この通り元気だぜ」
「それは良かったわ。ああ、早くメアリーに会いたいな」
フランツィスカは二十一歳らしからぬ無邪気な笑顔を見せた。王太子妃であるのに、彼女の天真爛漫さは背負うものの重さなど感じさせない。
だが、その口からは弟であるはずのサイラスのことは一言も出てこない。やはり似た者姉弟なのだろう。スティーブンがそう口にすると、フランツィスカは愛嬌のある顔を少し歪めた。
「あの子に会いに来たわけじゃないもの」
そう言った彼女の横顔には、オットーを思わせるある種の冷たさが滲み出ていた。
「さあ、メアリー皇女殿下はどんなドレスで御登場かしら? 楽しみだわ」
「フランツィスカ様、どうぞこちらへ」
マリアが現れた。彼女の目にはスティーブンは映っていないようだった。金色の豊かな髪を緩く巻いて流しているのがいつもより若々しい。
「じゃあ、後でまたゆっくり話しましょうね」
フランツィスカは優雅に手を振り、大階段の方へと歩いていく。彼女の後にマリアが続いた。
「アンナも一緒に行った方がいいんじゃね?」
スティーブンは促したが、アンナはそれには答えずに話題を変えた。
「あ、伯爵よ」
「ああ、リッジウェイ伯か。最近金回りいいらしいな」
尊大な雰囲気の男だ。敵も多いらしい、と聞いている。
「それにしても、今日の飾りつけはいつもよりすごいわよね」
「ちょっとやり過ぎだと思うけどな」
エントランスの大階段の手すりは一点の曇りもなく磨き上げられていた。深紅の絨毯も彼の目にはいつになくけばけばしく思えた。
うっとりとした様子で飾りつけや貴婦人方のドレス姿を楽しんでいるアンナは、派手すぎず、おとなしすぎない色合いのオレンジのドレスと、それに合わせたオレンジの花の髪飾りが金茶の髪によく似合っていて、思わずスティーブンはぽんと頭に手を乗せた。
「やだ、どうしたのよ?」
「ん? いやあ、えっと、その……相変わらず綺麗な色だなあと思ってさ」
「髪のこと?」
「うん」
「変なの」
アンナはおかしそうに笑った。
「アンナ様、何をしていらっしゃるの? あなたはこのような下座においでになるお方ではないのですからね」
振り返るとマリアが顔をしかめて立っていた。そして、スティーブンには目もくれず、アンナをフランツィスカたちが談笑している所に引っ張っていってしまった。スティーブンは一人ため息をつこうとして、やめた。彼の父はため息が嫌いなのだ。妻のマリアがいらいらとため息を吐き出す度に、彼の父は幸せが逃げると言って顔をしかめるふりをして見せた。おかげでスティーブンも誰かがため息をつくと、その言葉が無意識に口をついて出るようになってしまったのだ。親父とマリアがそんな風に他愛もない会話に花を咲かせていたのはいつのことだろう。近頃はほとんど音信不通なのではないだろうか――。
一人でぼんやりしていると、サイラスとオットーが大広間の方から歩いてくるのが見えた。オットーは何やら満足げな嫌らしい笑みを浮かべていた。サイラスは無表情だ。サイラスの目が一瞬フランツィスカをとらえ、またすぐに逸らされた。
スティーブンは思案を巡らせた。オットーはいつにもまして機嫌が良いようだ。何か良い知らせがあったと考えるのが妥当だろう。良い知らせと聞いて思い当たるのはやはり第一臣下だのメアリーの婚約だのという件だ。あまり期待されていないといってもサイラスはオットーの長男である。オットーにとってそれなりの利用価値はあるはずだった。
「フランツィ」
オットーが大声で叫んでいる。
「まあ、お父様。ごきげんよう」
彼女の顔の上をほんの一瞬不快げなものがよぎる。が、スティーブンが瞬きをした次の瞬間には、やさしい娘の顔になっていた。スティーブンは感心してフランツィスカを見つめた。だが恐らくオットーもそんな娘の様子には気づいているのだろう。まったく食えない家族だ。
そしてオットーと話し始めたフランツィスカの視線は、一度もサイラスには向けられなかった。