女帝
翌日は朝から城中が上を下への大騒ぎだった。メアリーは自室で侍女たちにごてごてに飾り立てられ、うんざりしていた。毎年のことであってもやはり慣れない。今年は皇太子の戴冠式も合わせて行われると知っている侍女たちは、一段と気合いを入れていた。
「この髪飾りの方がお似合いになるんじゃございません?」
「いえいえ、私はこちらの方が良いと思いますわ」
侍女たちの真剣な議論をよそにメアリーは物思いに耽った。
毎年毎年大々的に祝宴が開かれ、見栄っ張りの大貴族や貴婦人、諸国の客人は見え透いた賛辞を口にした。けれども、この城内で、どれほどの数の人間が心から祝ってくれているというのだろうか。思いつくのは、母、アンナ、スティーブン、マリアくらいのものだ。だが、たったの四人、されど四人、だと思う。きっと他の人々のほんの少しの気持ちをかき集めて一つにしたところで、四人分の気持ちには敵わないだろう。その四人の気持ちがあり、その四人の存在があるから、私はきっとこの冷たい城で生きていけているのだ。
アンナとスティーブンは毎年プレゼントを用意してくれる。必ず心のこもったカードを添えて手渡してくれる。どんなドレスよりも宝石よりも嬉しいのに、私はいつもうまく喜べないのだ。それでも、そんなことは気にもとめずに接してくれる。私は皆のやさしさに甘えてばかりで――。
「メアリー様、こちらのドレスでよろしいですわね?」
はっと我に返ると、満面の笑みを顔に貼り付けた侍女がドレスを広げてみせていた。薄い水色のシンプルなドレスだ。メアリーは特に不満はなかったので頷いておくことにした。侍女はさっとドレスを隣の女に渡す。
「このドレスなら、この白い花のコサージュが似合うと思いますわ」
「こちらのペンダントもお付けになればよろしいですわ」
一人の侍女が口にしたとたん、一瞬場が凍った。そして乾いた笑いがさざなみのように広がる。
「失礼致しました、姫様。何もお付けになってはなりませんわね。皇太子の証のネックレスを陛下から賜るのですものね」
皇太子の証であるネックレスについては、幼い頃から幾度となく聞かされたものだった。
四つ葉のクローバーと銀の王冠のモチーフが付いた二連のネックレスで、初代の統治者から代々引き継がれ今に至っているという古い品だ。
この国の初代の統治者はセシリアという女性だったと言われている。セシリアに関しては地域によって実に様々な伝承が残っていた。非常に冷酷な美女で、しかも魔女であったとか、もともとあった小国の国王をたぶらかして国を乗っ取った恐るべき悪女であったとか、はたまた農民の先頭に立って反乱を指導したカリスマ的存在であったとか。
皇室には『創国史』なる書物が残っているのだが、失われた部分も多い上に曖昧な記述が多々見られ、信憑性は薄いものだった。それでも物語としては読み応えがあり、メアリーも既に目を通していた。『創国史』には、セシリアはごく穏便に国を譲り受けたらしいことが書かれていた。
そんな伝説の域を出ない『創国史』だが、比較的信憑性が高いのは、ネックレスに関する記述だ。何しろ現物が残されているのだから。
国を治めていたセシリアは、後にごく普通の民間人であったブライアンという青年に目をとめた。やがて彼女はブライアンを後継者に指名し、四つ葉のクローバーと金の王冠のモチーフのついた指輪を与えようとした。しかし彼は後継者となることを固辞した。仕方なく彼女は四つ葉の葉の一つを折って三つ葉にし、彼に与えて臣下とした。そして四つ葉のクローバーと銀の王冠のモチーフのついたネックレスを新たに作らせ、それを自身の親族の少女に与え、後継者とした。それ以後三つ葉は第一の臣下、四つ葉は統治者を意味するようになったという――。
「今日の式典で、メアリー様の第一臣下となられるお方も決まりますのね」
侍女がしみじみと言う。歴代の第一臣下を辿ってみると、ほとんどが大貴族の子弟で、女帝の場合は後に女帝自身と結婚している例もある。その場合は臣下の位は譲られ、女帝に次ぐ待遇を受けることになる。メアリーはそもそも自分の第一臣下を自分で選べないのはいかがなものか、と思っていた。先代が選ぶというのが慣例だが、オットー大臣が口を挟んで決定された臣下など受け入れたくない。それにオットーはサイラスを推すだろう、というのが大方の予想である。案の定、侍女もそう口にした。
「サイラス様が第一臣下となられたら、あの御一家はますますごさかんになられるでしょうね」
「もちろんですわよ。そうなって当然の方々ですもの、ねぇ、メアリー様」
「そうだな」
メアリーはまるで気乗りがしなかった。侍女たちはメアリーとサイラスが昔のまま仲が良いと思っているらしかった。
「そういえば私、フランツィスカ様をお見かけしたわ」
「ええっ、私もお会いしたかったのに」
「そう残念がらなくたって今日の式典でお目にかかれるわよ。どんなドレスをお召しになるのかしら、あの方は本当に明るい色がお似合いになるものね。おいでになるだけで場が華やぐわ」
「婚礼の式の時の純白のドレスは特に素晴らしかったわよね。王太子妃として申し分ない方ですもの」
「あらいやだ、そんな言い方。隣の王太子があのフランツィスカ様に釣り合うとでも?」
「そうだけど、それ以上の良い話があるかしら?」
「そうよ、敵国とはいえお妃様よ。やがては王妃様になられるんだから」
「でも――」
「何のお話かしら?」
静かな、しかしはっきりとした声が響く。マリアだった。
「マリア様っ」
「無駄口を叩いている暇はないわよ、皆さん方。今日の主役はフランツィスカ姫ではないのですからね」
侍女たちはやっとてきぱきとメアリーにドレスを着せ始めた。
「そうそう、彼のリッジウェイ伯爵様がいらしていましたね」
手を忙しく動かしながらも彼女たちは話し続ける。
「伯爵と言うと、夫人のフアナ様やその姉妹が美女で有名ね。娘のベアトリス姫もお年頃で」
マリアも楽しそうに口を挟みつつ、コサージュを手に取った。
「そう聞いていますわ。フアナ夫人とかなり御歳の差のある妹君もいらっしゃるようですわね。まだ十代、二十代でしたかしら」
「若い盛りねぇ。けれど夫人の若い頃の美しさときたら、帝国一と言われていたんですからね。伯爵との婚礼の折には、殿方は皆それはそれは悔しがっておいででしたのよ」
メアリーはため息をついた。フアナやベアトリスには以前会ったことがあるが、贅沢好きな頭の軽い連中にしか見えなかった覚えがある。
マリアはさすがに侍女たちほど浮ついておらず、手早くメアリーの髪を結い上げていった。
侍女たちは笑いさざめきながらもメアリーの爪を整えマニキュアを塗り、ごく薄く化粧を施した。
「上々の仕上がりね。両陛下もご満足なさるわ。ご苦労様」
マリアは上機嫌で侍女たちに言った。
「あなた方も正装していらっしゃい。私も支度をしなくてはね。メアリー様、パイプオルガン、楽しみにしていますよ」
「ああ」
とは言ったものの、何を弾こうか迷っているのだった。祝いやら喜びやらの曲は星の数ほどあるが、それではつまらないとメアリーは思っていた。そしてとある曲を候補に挙げてはいたのだが、どうにも決めかねていた。
侍女たちとマリアが支度に行ってしまうと、メアリーは自分が持っている楽譜を全部取り出してみた。ソロのピアノ曲だけでも迷うのに十分な曲数がある。
が、やはり目に留まったのはある一曲だった。ピアノ小品、「女帝」だ。祝いや喜びの曲以外からの選曲としては、妥当である。いや、見方を変えれば何とも威圧的と言うべき選曲かもしれない。
メアリーはこの曲が好きだった。狂想曲的な、つまり形式が自由で気まぐれなところが好きなのだ。厳かでありながらやさしさや強さを秘めた印象の曲だった。とても古い曲なので「女帝」が誰を指しているのか定かではないが、恐らくセシリアをモチーフとしているのだろうと言われている。
メアリーの想像するセシリアは、人々が信じているような冷徹な美女でもなく、力のある魔女でもなく、悪女でもなく、カリスマでもなかった。美女ではあったかもしれないが、そんなことはどうでもよかった。彼女はきっと自由奔放で気まぐれで、純粋で無邪気な人柄だったのだろう。少女のような心を持った、風のような人。あくまで想像だが、セシリアであるにせよ、他の女性であるにせよ、この曲からはそんなイメージが垣間見られた。
メアリーは楽譜をぱらぱらとめくった。もう幾度も弾いているので見る必要などなかったのだが。最後のページまで見終えると、彼女はそっとため息をついた。
――程遠いな、と思う。自分はセシリアのような女帝にはならないだろう。