エレオノーラ
メアリーやアンナの部屋から皇后の寝室まではかなりの距離があった。エントランスのある中央部を挟んで、ちょうど城の端から端まで歩くようなものである。
メアリーの部屋とアンナの部屋は東側で、最上階である八階にあり、皇后の部屋は西側の八階にある。皇帝の部屋は皇后の部屋の隣にあり、サイラスの部屋や大臣の部屋は西側の六階にあった。大臣一家は邸が遠方のため城に居住しているのだ。
メアリーは階段をひたすら下へと降りていった。エントランスは吹き抜けになっているため渡り廊下はない。東側から西側へ行くには一階まで降りるしかないのだ。
七階の広い書庫の前を素通りし、三階ではマリアの部屋を横目に見ながら一階まで下りきると、だだっ広いエントランスホールを斜めに横切ろうとしたメアリーを、よく知った声が呼び止めた。
「メアリー」
見れば、パイプオルガンのそばにエレオノーラ皇后が立っていた。メアリーによく似た濃い茶の髪が無造作に波打っている。城に出入りする貴婦人方とは違い、殊更に着飾ることなく落ち着いた装いだ。
「お母様、どうしてこちらに?」
「あら、あなたがあんまり遅いからでしょう。一体何をしていらしたの?」
「スティーブンとアンナと、おいでになる客人方を見ていました」
「なかなか面白いことになりそうな面々よね」
皇后はいたずらっぽく笑う。
メアリーはしばしば、自分は母の、どんな状況でも楽しんでしまえる性質を受け継がなかったらしい、と思わされた。
皇后は貴族出身のおっとりした姫君ではない。辺境の小国の王女である。そのためか贅沢な品々にはほとんど興味がなく、世間知らずでもない。それどころか頭の回転が非常に速く、何が起こっても笑っているうちに解決策を見出してしまうのだった。口の悪い世の人々をして、エレオノーラ王女の存在なくしては彼女の母国の存続はありえなかっただろう、と言わしめたほどの類まれなる外交手腕は、大帝国の皇后としての務めにも大いに役立っていると言える。
「面白いことと言うと?」
メアリーは空とぼけて聞いた。
「あなたも見たのでしょう? フランツィスカが来ていたのを」
「なぜフランツィスカが帰ってきたのかと思案していたところです」
「さあ、なぜかしらね。そうそう、誕生日パーティーのことだけど、あなたにこのパイプオルガンを弾いてほしいのですよ」
皇后が思い出したように言う。
「え? パイプオルガンを?」
「ええ、皇帝陛下のご希望なの。客人方もぜひに、と言っているそうなのよ。もちろん、いいわよね?」
と皇后はにっこり笑う。メアリーは特に拒否する理由もないので軽く首を縦に振った。
「良かったわ、退屈な式が一気に華やぎそうね。期待しているわよ。それはそうと、メアリー」
不意に皇后の声が改まる。
「何でしょう」
「皇太子のことですわ。本当によろしくて?」
「よろしいも何も、お父様がお決めになったことですから」
「覚悟はおあり?」
「ええ」
きっぱりと答えた、つもりだったのだが、皇后は目を伏せた。
「娘が皇太子になるのがこんなに辛いなんてね、想定外だったなぁ」
突然皇后の口調が苦笑交じりになる。その表情は大帝国の皇后の威厳を保ってはいたが、温かさを滲ませてもいた。
「あなたには国を治めるだけの力量が十分あると思うわ。でも、周りを見渡してみれば、冷たいものばっかりよ。そんな中にあなた一人を投じるなんて、辛いことだわ」
「それは母親として、ですか」
「そうね。皇后としては大いに喜ぶべきことなのよね」
母は自分に言い聞かせるように呟いた。
「この城にはそこら中に権力を欲している者たちがいるわ。隙あらば、と思っている者たちがね。でも、味方になってくれる者だっているはずよ。うわべに騙されず、よく人を見極めなさい。そうすればきっと上手くいくわ。それから、これは私の信条だけど、全てを受け入れて楽しんでみることね」
皇后は口の端をひょいと持ち上げてみせる。
「はい」
楽しんでみる、か。メアリーは心の中でため息をつく。