想い出
「カタリーナのやつ、何も聞かなかったなあ」
皿を洗いながらティムが呟いた。隣で洗い終わったものをてきぱきと拭いていたヴァレリアは、無表情のまま聞き返す。
「聞いてほしかったのか?」
「いや、全然」
「じゃあいいだろ」
「うん」
ティムの洗い物が終わり水音が止まると、辺りはしんと静まり返った。
「なあティム」
ヴァレリアの声はそれほど大きくはなかったが、何か子供を咎めるような静かな威厳を持っていた。ティムの肩は無意識に縮んだ。
「何で名前を呼んでやらないんだ」
「――はあ? 何の話だよ」
ティムはすっとぼける。
ヴァレリアはティムを直視した。目がとぼけるな、と言っていた。
だがいたたまれなくなって目を逸らしたのはヴァレリアの方だった。彼女は何も言わず、カフェエプロンの結び目をほどくと、ひょいと調理台の上に載せた。
「おやすみ」
「……おう」
彼女はもうティムと目を合わせようとはせずに、厨房から出て行った。
ティムは一人天を仰いで呟く。
「呼べるわけないだろ」
<バー>
「あら、また来たんですか」
娘は半ば呆れたように、言った。
「いけませんでしたか」
彼は本気で恐縮している。娘は意地悪な気を起こして嘲笑う。
「何か御用? 私のような者に」
「またあの曲を聴かせてくれませんか?」
不意に、真剣な顔をして彼は言う。
童話の想い出。その曲に潜む何かに、彼は気づき、心奪われているのだろうか。
「今日は夜想曲から弾くと決めているんです」
「今夜一回でも弾いて下さるなら、待ちますよ。それに、他の曲だって聴いてみたい」
「じゃあ、ちゃんとお酒も注文なさってね」
「ええ、もちろん」