皇太子の座
<城>
正面扉の番人が咎めるような視線を向けてきたが、メアリーは臆せず城内に足を踏み入れた。人気のないエントランスホールは吹き抜けになっており、右手の壁際には贅沢な彫刻が施されたパイプオルガンがそそり立っていた。高い天井にはモザイク壁画が描かれている。
正面の巨大で華々しい大理石の大階段の裏には、食卓がある大広間への入口が設けられていた。
侍女がその入口から駆け出してきて、メアリーに声をかけた。
「皆様お待ちでいらっしゃいますよ」
「そうか」
侍女を従えて大広間に入ると、長テーブルに着席していた人々は皆一斉にメアリーに目を向けた。
「あら、メアリー様。皆お待ち申し上げておりましたのよ。さ、お席にお着きになって下さいな」
真っ先に口を開いたのはマリアだった。メアリーや妹のアンナの世話係の女性で、女官長も務めている、金髪の美人である。
メアリーの両親――皇帝とエレオノーラ皇后は押し黙っている。
メアリーは軽く頷いて静かに席に着いた。これで全員が揃ったはずだが、皇帝は食事の開始の合図を口にしようとはしなかった。掌を組み合わせ、物思いに沈んだように俯き微動だにしない。皆こそこそと互いの目を見交わしている。
「どうなさったの? お父さま」
アンナが沈黙に耐え切れず言った。アンナは十二歳でメアリーの妹だが、メアリーより色素の薄い金茶の髪、目は灰色なので並んでいてもあまり姉妹には見えない。しかしとても仲の良い姉妹だった。
「うむ、やはり今、皆に伝えておくべきであろうな」
皇帝はそう呟くと、突然立ち上がった。皆が思わずぴくりと動く。
「皆知っていることとは思うが、メアリーの十六歳の誕生日は三日後だ。そこで、誕生パーティーに際して正式にメアリーを皇太子として遇することを表明しようと思う」
メアリーはぼんやりと聞いていた。皇帝には息子がなかったし、この国の歴史において女帝は前例のないものでもない。そして彼女は長女である。メアリーを皇太子に、というのは何の不思議もない決定だった。
「おお、ついにご決断を下されましたか。いや、めでたいめでたい」
大げさに喜ぶ素振りを見せたのは大臣のオットーである。オットーは公爵キャベンディッシュ家に婿入りをして大臣にまでのし上がった、かなりのやり手だ。出身は地方の貴族だったはずである。マリアの親戚でもあり、二人共、かつての没落が嘘のようだ。
メアリーはオットーの態度に嫌悪感を覚えた。
「近々婚約発表もできるだろうと思っている」
ぼんやりとしていたメアリーがはっと目線を上げると、オットーのにやけた赤ら顔にぶつかった。オットーは一瞬彼女と目を合わせたが、さっと隣の息子に目を移した。メアリーも無意識に目を向ける。
オットーの息子のサイラスは金色の髪に茶色の目の、父とは似ても似つかない美形だったが、目つきや顔つきはプライドが高く冷酷な雰囲気を隠せていなかった。
メアリーはふいと目を逸らした。物語の中のお姫様たちは、見知らぬ人と結婚するのは嫌だと口を揃えて言っているが、知らない人の方がよく知った嫌な奴よりましだ、とメアリーは思う。見知らぬ人の方がまだ望みはあるだろう。もしかするとものすごくいい奴かもしれないのだから。
サイラスは嫌な奴ではあるが、大嫌いな奴と言い切れないところがメアリーをさらに苛立たせるのだった。なぜ言い切れないかというと、幼い頃の思い出があるからだ。あの頃サイラスはとてもやさしかった。スティーブンよりもだ。しかし今は全く逆転している。
「では食事を始めるとするか」
皇帝が重々しく食事の開始を告げた。
食事が済むとメアリーは足早に自室へ引き上げようとした。一度エントランスに出て、階段へと続く通路へ出る。すると案の定ばったりと出会ったのは、マリアの息子のスティーブンだった。彼は昔からメアリーと対等に話す。
「おう、メアリーか。もう昼飯終わったんだな」
「ああ」
黒髪で茶色の狐目の彼は、整った顔の持ち主だが、サイラスと違って冷酷さは全く感じられない。その主な理由は、彼の父であるアルフレッドの商人気質を受け継いだ人懐っこい笑顔だろう。
「どうした? 顔色悪いぞ」
「そうか?」
「うん。何かあったんだろ? このスティーブン様に相談してみろよ」
スティーブンは大げさに胸を叩いて、にっこりと笑ってみせる。
「私を皇太子に、と正式に決まったらしい」
メアリーはあっさりと口にする。スティーブンはしばらく黙っていた。が、不意に笑顔を消して言った。
「他にも何かあっただろ」
「ない」
「ほんとかあ? まあ、べつにいいけどさ」
今一つ腑に落ちないという顔だった。
「いいけど……やっぱりそうなるのか」
「何がだ」
「皇太子になる話だよ。改めて言われると何かショックだな」
「そういうものか」
「そういうもんだ」
スティーブンは壁にもたれ、独り言のように呟いた。そして柱の影に一瞬目を向けると何か言いたげな顔をしたが、メアリーは気にもとめなかった。
「私は部屋に戻るが、スティーブンはどうする?」
「ん? そうだな、俺は下にちょっと用あるから……」
「わかった。じゃあ、またな」
メアリーはうっすらと微笑んで、階段を上がっていった。
スティーブンはメアリーが行ったのを確認すると、壁に身を預けたまま言う。
「立ち聞きか? 気持ち悪りぃことするなぁ、お前」
すると、柱の影からサイラスが現れた。見つかってしまった、というような焦った素振りはない。
「通っただけだ」
サイラスは平然と返す。目はスティーブンの方を向いてはいるが、何の感情も伝わってこなかった。
「そのままさっさと通ったらよかっただろ。べつに秘密の話じゃねえんだ」
「そうだな、確かに目新しい話ではなかったな」
その言い方に、スティーブンはつと眉を上げる。
「メアリーに何か言ったのか?」
「俺は何も」
「俺は、か。誰か何か言っただろうが。何か落ち込んでたし」
「ああ、婚約のことか?」
サイラスはつまらなさそうに言った。
一瞬の間があった。スティーブンはサイラスを睨む。
「なるほどな」
「もういいだろう。俺は部屋に戻りたいんだが」
「好きにしろよ」
ふんと鼻で笑うと、サイラスは階段を上がっていった。
スティーブンは壁から離れて呟く。
「昔はあんなんじゃなかったのにな」
スティーブンは歩き出した。昔、といってもメアリーが十五歳、スティーブンが十六歳、サイラスが十七歳、アンナが十二歳だということを考えればせいぜい五年ほど前の話だ。
だが五年という月日は長い、と彼は思う。人を変化させるには充分な長さだろう。
スティーブンはエントランスに出て、城の扉を門番に開いてもらい庭に出た。
冬の庭は殺風景で、彼は好きになれなかった。好きではなかったが、どうしても野薔薇の木が見たくなったのだ。庭には誰もいないようだった。こんないい天気の日に外に出ないなんてどうかしている、と思いながら歩く。
「ん?」
門のそばへ辿り着くと、先客がいるのが目に入った。小柄な少女だ。スティーブンはそっと声をかける。
「アンナか?」
「あ、スティーブン。あなたも薔薇の木を見に来たのね」
「うん、まあ」
アンナはふふっと笑った。アンナらしい、かわいらしい笑みだ。例えば今のメアリーなら絶対に見せないような笑い方だった。
そうだ、とスティーブンは考える。変わったのはサイラスだけではない。メアリーが過ごしてきた五年間は、少女らしい物が全て排除された日々だった。言葉も仕草も皇帝らしくあれと押しつけられた日々だっただろう。メアリーは変わった。自分はどうだろう。何か変わったのだろうか。
「綺麗な空だわ」
唐突にアンナが頭上を仰いで呟く。
「冬は好きよ。風が冷たくて凛としてて」
「詩人だな、アンナは」
「そうかしら?」
それきりアンナとスティーブンは黙り込み、薔薇の木を見つめていた。
スティーブンにとって、この木はなぜか昔から懐かしい匂いのする木だった。しかし幼い子供に振り返って懐かしむほどの過去などあるはずもない。だとすると、あの頃感じていた懐かしさは誰か他の人間のものだったのだろう。植えた人間の想いがしこりのように凝り固まって残されていたのだろうか。薔薇の木を誰が植えたのかはわからない。だが何となく彼はその人物に親近感を覚えるのだった。
数分が経ち、先に口を開いたのはアンナだった。
「お姉さまの皇太子戴冠のこと、もう聞いてるのよね?」
スティーブンは静かに頷く。
「さっき聞いた。婚約もするんだろ?」
「うん」
また沈黙が訪れる。
「いいの?」
アンナがたまりかねて聞いた。
「何が?」
しらばっくれているのが見え見えだったが、アンナはそれを指摘しなかった。彼の顔を見るととても言えなかったのだ。
「――サイラスはいい奴なんだよ」
脈絡もなく言われたのと、意外な言葉だったのとで、アンナは少し驚いた。
「アンナは覚えてねえかな。いい友達だったし、やさしい奴だった。俺がメアリーをからかうといつもあいつが庇ってさぁ」
スティーブンは懐かしそうに笑う。
「今じゃ想像できないわね」
「だろうな」
また彼は黙ってしまった。アンナは思わず聞いた。
「ねぇスティーブン、お姉さまのこと、好きなんでしょ?」
「うん」
即答されて、アンナは拍子抜けした。笑うしかない。
「サイラスにとられてもいいの?」
私は馬鹿だ、と彼女は思う。なぜスティーブンとお姉さまを応援するようなことを言っているんだろう。私は――。
「いいわけないだろ。あいつは変わった。昔のサイラスにだったらとられてもしょうがないけど、今だったら、な」
そんな彼の横顔を、アンナは複雑な思いで見ていた。
「けど、メアリーもアンナも変わった」
「え?」
「時間が経ったらどこかしらみんな変わってく、それはしょうがない。だから俺はあいつを大嫌いにはなれない」
スティーブンは真剣な顔でそう言う。
「相変わらずやさしいのね」
「ん?」
「スティーブンは変わってないわ」
呆れるほど、変わっていない。
「それ、誉めてんのか?」
「もちろんよ」
アンナは自分の身を省みる。数年前と何が変わったのか。何を失ったのか。何を手に入れたのか――手に入れてなんかいない。欲しいものは少し手を伸ばせば届くぐらいすぐそばにあるのだが、とアンナはため息をつく。
「ため息つくなって。幸せが逃げてくぞ」
「そうね」
誰のせいでため息をついていると思っているのだろう。アンナはむっとしてぶっきらぼうに返す。
スティーブンはそんなアンナの様子に気づいているのかいないのか、また遠くを見る。アンナもつられて遠くを見た。
「外は広いわね」
城は守りやすく攻められにくい高台にあるため、穴から街中を見渡すことができた。活気のある商家の街並がよく見える。穴から見える向こう側は今もアンナたちにとって憧れの世界だ。
「広いぞ」
スティーブンは父方の家系が代々商人である。父のアルフレッドにくっついて行商をすることもあり、外の世界にも通じていた。今は、父親だけが元の家に暮らしているが、スティーブンは母のマリアと共に城内に住んでいる。
「私も外に出たいな。スティーブンと一緒に旅がしたいわ」
「行商は遊びじゃないんだ」
「わかってるわよ」
頬を膨らませるアンナの頭をスティーブンはぽんと軽く叩いた。
「そんな顔すんなって。じゃあいつか行こうぜ、メアリーとアンナとサイラスと俺の四人で」
スティーブンの口元が緩い弧を描く。
四人で、か。アンナは不満そうに、また薔薇の木に目をやった。
メアリーの部屋の中央には大きなグランドピアノが鎮座している。壁際には天蓋付きのオーク材のベッドがあり、純白のベッドカバーがかけられ、同じ色の枕が乗っている。書棚や机もあった。そして小さな丸窓からはかろうじて冬の庭が見えていた。
メアリーは迷わずピアノに向かい、丸椅子に腰かけた。蓋を開ける。
「あら、メアリー様、ピアノをお弾きになりますの?」
洗濯かごを持った侍女が現れて言った。
「お気になさらないでどうぞお弾き下さいな。シーツを取り替えに来ただけですからね」
メアリーは無言で頷く。
静かな旋律が流れ出した。メアリーにはあまり似つかわしくないやさしげな音色だ。
侍女はシーツを剥ぎ取るように手早く外し、持ってきたかごに放り込んだ。そしてピアノの音にそっと耳を傾ける。
「この音、お姉さまかしら?」
「そうだろ」
寂しげな庭に、温かな音楽が微かに響き始めていた。
スティーブンは苦笑した。メアリーのピアノを聴くといつも思う。あれほど淡白な彼女になぜこんなにやさしい音が出せるのだろう?
「私もピアノが上手だったらよかったのにな」
「アンナだって十分上手だよ」
「でもお姉さまみたいには弾けないもの」
「メアリーは上手すぎる。ピアノ奏者で食っていけそうな域に達してるだろ、ありゃ」
「私も練習しようかな」
それきり二人は静かになり、ピアノの音色に引き込まれていった。
段々と速くなり、また緩やかになり、川の流れのようなメロディーだ。
スティーブンは城を見上げた。メアリーの部屋の小さな丸窓が何とか見える。
「遠いなぁ」
「何か言った?」
思わずぼそりと呟いた言葉に、アンナが訝しげな顔をした。
「いいや、何も」