厨房
「へえ、アンズリーて言うんだ」
カタリーナがエプロンを腰に巻きながら、彼女らしくもない無機質な声で呟いた。キーラたちの声が聞こえたらしい。ヴァレリアとティムは何も言わなかった。
次に口を開いた時、カタリーナの声はいつも通り弾んでいた。
「さあて、何を作りましょ?」
ティムが目を輝かせて、
「パスタがいい!」
と挙手して発言した。ヴァレリアは相変わらず子供っぽいな、と思うが反対はしない。
「うーん、具材は……タコとかイカがあるね」
カタリーナが厨房の隅に置かれた冷蔵箱――氷を入れるタイプの食料保存箱だ――を開けて言う。
「じゃあティム、レモン絞っといて」
カタリーナは絞り器と皿を彼に手渡し、自分はスパゲッティの量を量り始めた。ヴァレリアはパセリとにんにくを手早く刻んでいく。
「そういや、今日はアンズリーが来てばたばたしてすっかり忘れてたけど、依頼されてた仕事の方はどうなった?」
カタリーナが聞いてくる。ヴァレリアは手を休めることなく答えた。
「失敗だ」
「だな。馬車に乗ってたら、シュバルツ邸に着く前にあの子が御者に因縁付けられた。明日は別の仕事だから、また今度出直しだなぁ」
「ふぅん」
カタリーナは今ひとつ腑に落ちない、という表情だった。
疑問を抱いているのはヴァレリアも同じだった。
アンズリーはなぜ追われているのか? 誰が追っているのか? 思い巡らせながら、ヴァレリアは湯を沸騰させ、塩を軽く振ってスパゲッティを茹で始める。
あのごろつきの言っていたことを信じるのなら、追っているのは金持ちなのだろう。少なくとも馬車十数台を用意でき、十数人のごろつきを雇える程度の経済力はあるのだろう。
なぜ彼女がその金持ちに追われているのか?
これは今考えても無駄だろう。彼女のことをもっと知らなければ、理由などわかりっこない。彼女が何者なのか、知らなければ。
――知りたいかどうかは別にして。
「うわぁ! ヴァレリア、吹き零れてるっ!」
ティムが叫んだ。ヴァレリアははっと覚醒する。
「ああ、何かぼんやりしてたみたいだ」
「しっかりしてくれよ、シェフさん」
言いながら、カタリーナは火を緩める。気がつくと魚介類は茹で上がり、パセリとにんにくも炒め終わっている。カタリーナを見ると、にやっと笑ってピースサインを向けてきた。
ヴァレリアはレモンをかけた魚介類を、にんにく、パセリと合わせて炒め始めた。
「明日はみんな出かけるみたいね」
カタリーナが皿を七つ並べて置いた。
「みんな?」
「うん。あんたら二人は仕事だし、アレンも今日もらった依頼を片付けたいらしいよ。キーラは情報買いに街へ行くんだって」
「シリルは?」
「さあ、あいつは金がなくなるまで仕事しないつもりなんだろ……。でも、急に出かけるからな、あいつ」
スパゲッティと魚介類が絡まり合う。にんにくの香りがふわりと広がった。
「じゃあ、あの子の面倒はカタリーナに頼んでいいのか?」
ティムがフォークを手に尋ねる。
「そうねぇ。明日はここにずっといるから、大丈夫だと思う。しかしアンズリーのことだけど、さすがに何もさせずに置いとくのは気が引けるなあ……。ちょっとは仕事してもらおっか」
「仕事させるって、むやみに客に顔見せるのは危ないだろ」
「ま、それはあたしもいることだし大丈夫だって」
ティムはスパゲッティを七つの皿に分け終えた。