乗り合い馬車
<街>
馬車は何台も停まっていたが、ヴァレリアはあまり目立たない地味な車体のものを選んだ。それでもその馬車は二頭立てのきちんとしたもので、客車は優に十人は乗れるサイズになっていた。
ヴァレリアたちが乗り込むと、御者が嬉しそうに御者台に飛び乗った。広い客車はがらんとしていて、先客はいなかった。二人は隣同士で椅子に座る。
と、先程の読書少女が馬車に乗り込んできた。少女はひょいと彼らの向かい側の椅子に腰を下ろし、不意に目線を上げ、肩から提げた鞄に本をしまいこんだ。ちらりと見えた目の青さが見知った人に似ていて、ヴァレリアの胸はちりりと痛んだ。ティムも同じ人物を思い出したのか、下を向いたきり黙りこくってしまった。
「今日は客足が少ないなあ。まあ、仕方ない。お嬢ちゃん、そうそう、お一人の。どちらへ?」
御者台から陽気な声がかかる。少女は心細げに
「リッジウェイ城へ行くんです」
と告げた。リッジウェイ城はリッジウェイ伯爵の住まいだ。そんな所へこの少女が、とヴァレリアが内心訝っていると、御者も疑問に思ったのか彼女にまた声をかけた。
「へえ? 何だってあんたみたいなお嬢ちゃんがお城へ行くんだい?」
「私の叔母の勤め先なんです」
「ふうん……そちらのお二人さんは? どちらへ行きなさるんで?」
いきなり水を向けられ、ヴァレリアは慌てて答える。
「シュバルツ家の別宅の辺りで降ろしていただけますか」
「シュバルツ家ね。じゃあこっちの子より先に降りるわけだ。了解。ごゆっくり」
パシンと軽快な音を立てて鞭がしなり、馬が駆け出す。客車の方は軽快とはいかず、がたごとと進み始めた。久しく油を差していないらしく、ときおり車輪がぎしぎしと嫌なきしみ方をした。
「あのっ」
少女が突然緊張気味の声で言った。
「シュバルツ家に縁があるんですか?」
ヴァレリアは心の中で舌打ちした。あまりべらべらしゃべるのは好きではない。
「いや、そうではないのですよ。近くに用があるだけで」
「あっ、そうなんですか。あの辺りって、けっこう物騒って聞きます。気をつけて下さいね」
「ありがとう」
「あの、そちらの方は大丈夫なんですか? 車酔いじゃないですか?」
「え?」
少女がティムを心配そうに見つめていた。思い返してみると、先程少女をちらりと見た瞬間に下を向いてしまったきり、微動だにしていない。
「ああ、心配いりませんよ。寝ているだけです」
「お疲れなんでしょうね」
「そうかもしれません」
「あ、あれはウェントワース城ですね」
少女が窓の外に指を向けた。なかなかに豪奢で洒落た造りのその城の城主は、ウェントワース男爵である。男爵は爵と名の付く貴族の中ではあまり高い地位でもなく、ウェントワース一族は勢力の大きい貴族の一派にも属していないのだが、かなりの財を蓄えているともっぱらの噂だった。
「立派なお城ですよねぇ。すごいなぁ」
「おや、リッジウェイの城もかなりのものでしょう」
「それはそうですけど、実際は男爵様の方がお金持ちです」
「そうらしいですね。もっともただの噂ですが」
「噂って言ったら、リッジウェイ伯爵様のお嬢様たちのこと、聞いたことありますか?」
「お嬢様たち? リッジウェイ伯爵には一人娘がいらっしゃると聞いていますが」
もちろん伯の隠し子についてヴァレリアは承知していたが、彼女はとぼけた。
「もう一人いらっしゃるんですよ。しかも……こんなこと言いたくないんですけど、ちょっと変わってらして」
言いたくないなら言わなければいいのだ、とヴァレリアは心の中で呟いた。経験上、こんなこと言いたくないんですけど、という言葉ほど信用できないものはない。本当は言いたくてうずうずしているのだ。
「変わっている、と言いますと?」
ヴァレリアが興味を持ったふりをしてみせると、案の定少女は話し始めた。
「ルクレツィアお嬢様――あ、そういうお名前なんですけど――あの、一人娘ってことになってるベアトリスお嬢様とはお母様が違うんです。ベアトリス様はちらりとお見かけしたことがあるんですけどね、とっても素敵な方なんです。でもルクレツィア様は何と言うか――少し頭がおかしいというか、変人なんですって」
少女の話はわかりにくかった。ヴァレリアも話上手とは言えないが、もう少しまともだ。少なくとも何が言いたいのかくらいは伝わるだろう。
「どんな風に変なんです?」
「さあ、お会いしたことないですから、わからないです。でも、とっても綺麗な方らしいんです。なのに、おかしなことを仰ったり、なさったりするんですって」
「おかわいそうに」
ヴァレリアは同情するように眉を歪めた。
ルクレツィア・オブ・リッジウェイと言えば、一部では名高い変人だった。狂女と呼ばれ、幽閉同然の暮らしを送っているらしい。何やら怪しげな占いや魔術に凝っているらしい、とも聞いている。だが、全てただの噂にすぎない。
景色が窓の外を通り過ぎていき、やがて田園風景が広がり始める。山の向こうに小さくリッジウェイ城が見えてきた。シュバルツの別宅は山のこちら側だ。
「ティム、そろそろ起きたらどうだ」
「うあ!?」
ティムはヴァレリアに頬をつねられ、奇声を発して跳ね起きた。
「ティムさんて仰るんですね」
少女が笑いをこらえつつ言った。
「あ、ティモシー・グラントって言います。よろしく」
ティムはいきなり自己紹介をする。ヴァレリアとは違い、彼は素性を隠そうとか、目立たず仕事をしようという意識が薄かった。
「お嬢さんのお名前は?」
「アンズリーです」
ヴァレリアははっと顔を上げた。ティムは呆然と少女を見つめた。
「え? あのっ、何か――」
少女が焦ったように言ったが、ヴァレリアもティムも返答する余裕がなかった。
ガタン――
「ん?」
馬車が急停止した。
「へえ、やっぱりそうなのかい」
御者がどすどすと客車に乗り込んできた。手には回転拳銃が握られている。二人は反射的に立ち上がった。少女の目が大きく見開かれる。
「あんたが噂のアンズリーお嬢ちゃんなんだね」