プロローグ
冬の終わりの微風が吹きわたる広い庭を、メアリーはゆっくりと歩いていた。濃い茶色の髪がさらさらと風になびく。黒く深みのある目には冬枯れの庭が寂しげに映っていた。彼女は、冬らしい北風が吹く頃よりも、少しだけ空気が張り詰めたように感じられる今頃の方が好きだった。
メアリーは歩いてきた石畳の小道を振り返った。壮麗な城が目にしみる。帝国の繁栄を体現するかのような巨大な城塞がそびえ立ち、両脇に立つ塔の先端には深紅の国旗が翻っている。世界で唯一『帝国』を名乗る広大な国は、他国から畏怖を込めて『帝国』と呼ばれていた。城の周囲にはこんもりとしたオリーブの木が植えられている。平和の象徴のつもりなのだろう。左手を見れば、ここが庭であることを忘れてしまいそうなくらい大きく美しい湖があり、水面が寒々と風に揺れていた。
メアリーはまたゆっくりと歩き出す。城門の近くには野薔薇が植えられている。季節になるとそれは見事な深紅の花を咲かせる。
城の庭の周囲にはれんが造りの塀が高く築かれているが、野薔薇が植えられている辺りには砲撃用の穴がある。そちらを見るとどうしても城の外が視界に入ってくる。城の外が見られるせいか、メアリーたちは幼い頃そこで遊ぶことが多かった。華やかでいて冷たい城で暮らすメアリーにとって、そこは唯一安心できる場所だった。そこで、心を許せる友達と遊ぶことが何よりの楽しみであり、彼女の心の支えだった。そしてこの薔薇さえここにあってくれれば、この薔薇さえ守れれば、きっと何も変わらずにすむだろうと信じようとしていた。淡い希望を抱いていた。
――例え、彼女が皇太子、ひいては皇帝の位に就いたとしても、だ。
その時、塔の上の方から昼時を告げる鐘の音が鳴り響いた。
戻らなければならない。メアリーはため息をつき、来た道を戻っていった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
栗色の髪に青い目のやさしげな娘は、真夜中のバーでピアノを弾いていた。白く細い指が目にも留まらぬ速さで鍵盤の上を跳ね回る。情熱的で美しい、それでいてどこか憂いを含んだ旋律は、まだあどけなさの残る娘の奏でるものとは思われなかった。もっとも、バーのカウンターで酒をあおる客たちは、恐らくピアノの音色に耳を傾けてなどいないだろうが。
娘は弾き慣れてしまっているのか、自分の指を見ようともせず一心に前を見つめて弾いていた。
しばらくして、二、三曲を弾き終え、一度奥へ引っ込もうとする娘に声をかける者があった。
「素晴らしい演奏でした」
振り返ると金茶の髪の若い男が立っていた。ありふれた容姿に珍しくもない服装だが物腰は少し世慣れぬ風で、貴族だろうか、と娘は思った。
「年若い御婦人がこんな夜中まで働いて、大変でしょう」
「あら、そんなことないですよ。だって、好きなんですもの。好きなことを仕事にできるのは幸せです」
娘はそう言うと柔らかく微笑んだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
豊かな黒髪を結い上げた背の高い少女――ヴァレリアは、倉庫の壁にもたれかかり、包帯をぐるぐると巻いた腕を組んで、不愉快そうな表情を浮かべていた。緑の目が不機嫌そうに吊り上がっている。足下には十数人の男たちが気絶して倒れている。
「高みの見物とは感心できないな、ティム」
暗闇に向かって苛ついた声を投げつけると、倉庫の屋根の上からひらりと飛び降りた影が一つ。
「まあいいじゃん、ヴァレリア一人で片付いたっしょ? 俺の出る幕全然なかったし」
悪びれる様子もなくにこやかに笑いながら言ってのけるティムに、ヴァレリアは無感情な一瞥をくれた。
「行こっか。今日の仕事は片付いたしな」
ティムが陽気に言った瞬間、がさりという音が聞こえ、二人は鋭い視線を暗闇に投げかけた。ティムがゆっくりと歩き出す。そして、一人の男の前でぴたりと足を止めた。男がぴくりと動く。ティムはさっきとは打って変わった陽気さの欠片もない声で言った。
「もうお目覚めかよ」
ドゴッと鈍い音がして、男がうっと呻いた。
「早起きは三文の得ってか? まだ朝じゃねぇよ、おっさん」
もう一度蹴り上げられ、男はまたぐったりと伸びた。
「いい夢見ろよ」
満足げな笑みを浮かべて男を見下ろしているティムを、ヴァレリアは幼馴染みながら恐ろしい奴だと改めて思う。普段は明るくほのぼのとして、ぼんやりしていると言ってもいいくらいの奴なのだが、仕事となると信じられない凶悪ぶりを示すのだった。
「帰ろっ」
と言ってヴァレリアを急かす顔は元通り明るく、十九歳にしては幼げだ。ヴァレリアはほうとため息をつく。