厚さ五センチの別世界で
お父さんが仕事に復活することになった。
自宅で二週間休養していたが、もう大丈夫だと医者から言われたようだ。
休養期間は、お母さんが付きっきりで面倒を見ていて、忙しすぎてすれ違っていた二人は、今それなりに楽しそうだ。
今日は、そのお祝いにささやかなパーティーが薔薇苑家で行われる。
薔薇苑家はあまりパーティーをしていなかった。
成金ということもあり、呼ぶ来賓も少ないし、無理して開く物でもない。
でも冷凍パックの売り上げ効果で、ただの成金から、企業として認められてきたようだ。
興奮したお母さんは髪の毛を盛りに盛って、某パンケーキショップの生クリームみたいになっているが、まあ今日は許す。
弟の伸吾は、今回のことで全く役に立たなかったことを反省して、普通に勉強を始めたようだ。
お金持ちになってからサボり続けたブランクは凄まじく、家庭教師が付きっきりで教えている。
鳳桜学院中等部から高等部へ、厳しい足きりがあることも知らなかったらしい。
まあ頑張るがいいさ!
そして私は、いま、美に目覚めている……!
「えっと……品が良くみえる感じにしたいです」
「こちらのドレスで宜しいですか」
「……もっと、大人っぽく……?」
「では、こちらのワンピースはいかがでしょうか」
「えっと……もっと落ち着いて見えるように……」
専属のスタイリストさんは、困ったようにクローゼットを歩いた。
今日の私は服装にこだわる。
パーティーに朝陽さまが来るのだ。
婚約破棄から二ヶ月ぶり。
あの素っ気ないラインから、一度も連絡はない。
私は朝から落ち着かず、自らメイクさんを呼び、相談した。
エステも行ったし、スティーブンと稽古をして、体重も絞った。
先週から歌舞伎揚げも封印。あかちゃんせんべいにした。もの凄く物足りない。
美容師も呼んだし、ネイルもした。
それでも落ち着かない!
「では、こちらのワンピースはいかがですか?」
スタイリストさんが取り出したのは、オリエンタルブルーの美しいワンピースだった。
なんとなく朝陽さまから頂いたサファイヤの指輪を思い出す。
桐子には青が似合う。
そう言ってくれた言葉を思い出す。
「それでお願いします」
私はそれをきて、背筋を伸した。
今日は朝陽さまだけじゃない、蓬莱の娘さんもくるのだ。
「元婚約者の家に乗り込んでくるとは……戦争も覚悟のうえか……?」
「やめて、桐子。お父さんまた倒れちゃう」
燕尾服をきたお父さんが静かに首を振る。
「姉ちゃん、ドレス着てるのに左右に小刻みに動くの止めてよ、格闘家みたいだよ……」
伸吾は完全に呆れている。
「桐子、髪の毛乱れるわよ」
お母さんの髪の毛は完全に固められていて、全く動かない。
来賓を待つドアの前で、私は臨戦態勢を取っていたが、皆に止められて座った。
本音を言うと朝陽さまにも会いたくない。
どんな顔で私を見るの? 私は、どんな表情で返せばいいの?
パーティーが始まった。
薔薇苑の家は森に囲まれていて、名前に恥じぬように沢山の薔薇の花が植えられている。
私は今まで、こんなに薔薇の種類があるなんて知らなかった。
美しい庭を挨拶して回る。
今回お父さんが倒れた間に、工場見学からシステムまで見せてもらった。
そして色々な人に紹介して貰ったが、やはり人の顔を名前は一致しない。
ある程度時間が経つと、人の顔の見分けが出来ないほど、脳内が疲れてくる。
これを何度もこなして、しかも顔を名前が一致させる朝陽さまは、本当に凄いと思う。
一時間ほど挨拶して、やっと開放された。
幸運なことに朝陽さまと蓬莱の娘さんは、まだ来ていないようだ。
今のうちに……と、私は料理ゾーンに行き、いそいそと肉を集めた。
今日も朝の5時からメイクしていて、ジュースしか飲んでいない。
ここは私の庭なので、あまり人目につかない場所は熟知している。
大きな木の横にあるベンチに座って、食事を始めた。
ああ……お肉美味しい……。
「薔薇苑」
「あ、御木元さま」
声をかけられて振向くと、私が座るベンチより、更に奥まった場所に御木元さまが居た。
御木元さまの会社も薔薇苑と仕事をしているらしく、招待客リストに名前があるのは気が付いていた。
でも姿をお見かけしなかったので、まだ居らしてないかと思ったら、こんな場所に。
最近はいつもこのパターンだ。
水族館でもそうだったし、図書室でもよくある。
誰もいないと思ったら、その奥に御木元さまがいるのだ。
御木元さまは忍者か何かだろうか。
「今回は大変だったな」
御木元さまは、コーヒーカップ片手に歩き、私の横に座った。
「おかげさまで回復しまして、来週からは通常の業務に戻ります」
私はさっきまで繰り返し口にしていた言葉を言う。
御木元さまは飲んでいたコーヒーを机に置いて言った。
「しかし、本当に倒れるなんて、あのサイトの力は、計り知れないな」
「……?!」
私はギュインと首を動かして御木元さまを見た。
あのサイトの力って……。
御木元さまは、私をみて、静かにシムレスの眼鏡を持ち上げた。
「朝陽があのサイトを見てる時、俺も一緒だったんだ」
「えええええ……」
私は食べていた子羊のマリネを落としそうになった。
「全てがサイトに書いていた内容が起きたね。まあ、小説にはよくあるし、試したくなる気持ちも分かる」
私は口をポカンと開けて動けない。
「でも、冗談で個人情報を書き込むものじゃないね」
御木元さまは私を見て静かに言う。
私は壊れた人形のようにコクリと頷く。
「あの……じゃあ……全部知ってて見てたってことですか……?」
「朝陽の名前しか書かれて無かったから、俺には何の関係も無かったけどね」
「ああああ……」
恥ずかしさで顔から火が出そうで、両手で顔を隠した。
あの駄文を、まだ読んだ人がいたなんて。
「他には居ないですよね?!」
私は顔を上げてキッと涙目で睨んだ。
「とりあえず、あの時は俺と朝陽の二人だった。その他は知らない」
「そうですか……」
私はため息をついて、俯いた。
そして、ふと思った。
「……もしかして、御木元さまも、何か書きました?」
それまで無表情で座っていた御木元さまの口元が少し緩んだ。
「なんでそう思った?」
「さっき、試したくなる気持ちも分かるって……」
御木元さまは手元にあったコーヒーを一口飲んだ。
「そんなの秘密だ」
「……ずるいーーー」
私は叫ぶ。
微笑んで御木元さまを見ると、御木元さまも小さく笑っていた。
「聞いてたよりは、元気だな」
「誰からですか?」
「華宮」
「ああ……」
夏休みに会ったりするんだ。
あの距離感からすると、少し意外だった。
実は華宮さんも一度呼び出して、愚痴った。
琴実と同じ内容を愚痴って、琴実と同じ事を言われたので、無駄にへこんだけれど。
「サイトには、婚約破棄までは、書いてなかったけどな」
「まあ、そうですね……」
私は持っていた子羊のマリネを食べる。
絶妙な酸味と、ソースの甘さが、口の中に広がる。
「素直に付き合っておけば良かったのに」
「もう良いんです、どのみち契約婚約だったんです」
私は小さな声で呟いた。
夏の風が私たちを包んで吹き抜ける。
「桐子さま、お客様がお探しです」
紀元さんがお客様を連れてきた。
「はい」
食事を置いて立ち上がると、目の前に真っ白なドレスを来た女の人が立っていた。
真っ白なのはドレスだけじゃない。
肌も森にいると浮き立つように白く、発光さえしているように見える。
緩くウエーブが掛かった長い髪の毛は、肌の白と対比するように漆黒の黒。
そして驚くほど長いまつげと、大きな瞳を持っていた。
唇はまっ赤なルージュ。
あまり化粧をしていないように見える肌の白さと、しっかり塗られたルージュの赤さのアンバランスさが、彼女をより美しく見せていた。
彼女は長い髪の毛を耳にかけて、微笑んで言った。
「薔薇苑さん、初めまして! 私、蓬莱殿上食品の娘、洪美來と申します」
容姿よりから想像するより、はるかに幼い声で、美來さんは言った。
私は静かにまばたきをした。
この子が、朝陽さまの次の婚約者……。
思わず左手の薬指をみてしまう。
そこに指輪はない。
まだ婚約はしてないのかな……じゃなくて、今は仕事をするべきだ。
「初めまして。薔薇苑桐子と申します。本日は父のために、誠にありがとうございます」
私は丁寧にお辞儀をした。
凛子さまに厳しく教えて頂いて良かった。
こういう時に臆することなく接することが出来るだけで、心が折れない。
「わあ……お話より、すごく大人っぽい人だ」
美來さんは、深紅の広角を持ち上げて笑った。
拍子抜けするほど、普通の人だ。
それに話し方も幼い。
でも資料を見た時思ったけど、確か私たちより年上のはずだけど……。
「あのすいません、日本語むずかしくて、まだ曖昧です」
ああ、なるほど。
日本語に慣れてないのもあるのか。
「いえ、本日はわざわざありがとうございます」
私は笑顔を作って言った。
「私が朝陽にお願いしたの。桐子さんに会いたいって」
突然出てきた朝陽さまの名前に、私の心臓が跳ね上がる。
「そうですか……ありがとうございます」
必死に声を出して、答える。
「私、朝陽がすごく好き。でもあまり話してくれなくて、寂しくて」
美來さんが私の前に一歩近づいて言う。
「そうですか……」
はい、ええ。繰り返し答える。
「朝陽のこと、桐子さんならもっと知ってるんじゃないかと思って。朝陽のこと、桐子さんに聞きたいと思ってきました」
私が考えていたことは、ただ一つ、もう開放してほしい、だ。
恐ろしいほど何も言いたく無くて、唇を噛んだ。
「ね、朝陽さまって、何が好きなんですか? 色々聞かせてください」
ピョンと私に近づいて来た美來さんの後ろに見慣れた姿。
……朝陽さまが見えた。
スーツ姿に、飴色の髪の毛は……少し伸びた。
長い首も、腕も……全部朝陽さまだ。
ゆっくり私たちの方に向かって歩いてくる。
「あのさ」
私の横に居た御木元さまが立った。
「朝陽について知りたいなら、朝陽に聞けば?」
御木元さまが言い切る。
「行こう」
そして私の腕を引っ張って、歩き出す。
私は御木元さまに腕を引っ張られたまま、歩き出す。
視界の奥に、並んだ美來さんと朝陽さまが見える。
……見たく無い。
完全に引きずられる状態で、その場から遠ざかる。
足元さえおぼつかない私に御木元さまが小さい声で言う。
「他力本願な女。薔薇苑のほうが数倍ましだ」
私は御木元さまの顔を見る。
御木元さまは、相変らず無表情で、それだけで安心した。
「ありがとうございました……」
私は礼を行って、御木元さまから離れた。
どうしようもなく、一人になりたかった。
そして疲れたので、少し休憩させてくださいと伝えて、自室に戻った。
部屋の入り口のドアを締めて、ずるずると座り込んだ。
朝陽さまのことを教えてほしいという美來さんに、とんでもなく苛ついた。
幸せだったと過去に、グリグリと槍を刺されるような気分の悪さ。
そしてあの可憐さと無邪気さ。
私は自分の服装を見る。
よく考えたら、可愛くしても仕方ないじゃない。
会えるからってテンション上げたけど、意味なんてない。
だって私はもう過去なんだもん。
あの子が今、朝陽さまの隣に立っているんだから。
「桐子」
ドアの外から声がした。
すぐに分かった、朝陽さまだ。
「桐子」
私は膝を抱えて小さくなった。
背中のドアが少しだけ動く。
ずるずると布が移動する感覚……。
朝陽さまもドアの向こうに座り込んだのが分かった。
「桐子、そこに居るんだろ。ドレス姿、もっと見たかった」
私はカッとなり、口を開いた。
「美來さまのほうが可愛いドレスを召してましたよ」
ドアが、ギ……と朝陽さまがドアに体重をかけたのが分かる。
「俺は桐子の青色のドレス、もっと見たかった」
今すぐ出て行きたい感情に襲われるが、手についたマスカラを見て膝を抱える。
メイクがドロドロだ。これはヘヴィメタ化してるな……。
「……私はここには居ません」
「そうか。すごく好みの声だな。もっと聞いていたい」
私は黙る。
朝陽さまが続ける。
「……さっき、御木元と、何話してたの?」
私はイラッとした。
「関係ないじゃないですか」
もう婚約者でも何でも無いのだ。
「……そうだな。もう関係ないな。俺さ、決めたんだ。桐子が誰といても、俺を好きじゃなくても、俺は桐子を諦めない」
心臓がわしづかみにされたような痛みを感じる。
どんな表情をしてるんだろう。
どんな表情でこんなこと言ってるんだろう。
私は強く膝を抱えた。
「もう契約は終了しましたよ、何言ってるんですか」
「蓬莱と旻名の人に何度も会って、色々調べてる。そして今日、ついに尻尾を掴んだよ」
尻尾……?
朝陽さまは何を言ってるんだろう。
「何とか出来る確信がないのに、待ってて欲しいなんて、言えなかった。でも今日は言うよ、もう少し待ってて欲しい」
私は黙る。
そんなの、最初から答えは決まっている。
「片付けたら、このドアを開けてくれる?」
「っ………」
私は思わず泣いた。
泣き声を聞かせたくなくて、唇を思い切り噛んで、顔を包んだ。
「桐子、泣かないで。今は抱きしめられない」
五センチのドアを挟んで朝陽さまがいう。
私は無理矢理泣き止んだ。
「桐子、待ってて」
朝陽さまの声が震えているような気がして、私は静かに泣いた。
厚さ五センチのドアを挟んで、私たちは寄り添っていた。




