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答えはPenhaligon's-No.33

 七月中盤なのに、シトシトと雨が降り続く日。

 私は等々力にある松園本邸に来ていた。

 前のようにパーティードレスではなく、今日はシンプルな藍色のワンピースにした。

 朝陽さまから改めて頂いた婚約指輪もしてきた。

 実は結構気に入って、部屋では何度かしていた。

 でも部屋では部屋着でゴロゴロしている私に豪華な指輪は似合わず、パソコンの横に飾っていた。

 無機質なパソコンと蒼く美しいサファイヤは似合わなくて、それが朝陽さまと私のよう。

 だからこそ一緒に飾った。


 塵ひとつなく磨かれている廊下を歩き、婚約した離れに通される。

 ふすまが開くと、そこには松園浩三総帥と、朝陽さまが居た。


「および伊達して、申し訳ない」

「本日はご招待いただき、誠に光栄です」


 お父さんは入り口で頭を下げた。

 松園浩三総帥は、軽く手をあげて、私たちを部屋に招き入れた。

 私は小さく朝陽さまに笑いかけた。

 朝陽さまは、右手をあげて私に振って微笑んだ。

 整えられた飴色の髪の毛に、白いシャツがよく似合う。

 学校にいて制服を着ていると忘れてしまうけど、朝陽さまは本物のお坊ちゃまだ。

 この重厚で豪華な応接室に、普通に馴染んでいる。

 私はここにくるのは二度目だけど、どうしても慣れない。

 総帥は優しい声で話し始めた。

 

「桐子さんの事は朝陽から聞いてます。本当によいお付き合いをさせていただいてるようで、最近では本邸にも帰らず本を読み始めました」

「それはそれは……」

「今まで何にも興味を持てないような男だったのに、本が好きな桐子さんの影響かな」

 私は小さく「ありがとうございます」と答える。

 総帥が微笑みながら続ける。

 良いお付き合いをさせて頂いてるのに……と言い、一度閉じた目を開いた。



「非常に申し開けないのだが、本日をもって婚約を解消させて頂きたい」



 ?!

 私は跳ね上がるように顔を上げて、朝陽さまを見た。

 朝陽さまは全く驚いていない。

 小さく微笑んだまま、前を見据えている。

 ……要するに事前に聞いていたということだ。

 私は小さく、長く、息を吸い込んで深呼吸した。

 落ち着く必要がある。

 

「残念だが、こちらにも都合がありましてね」

「急、ですね」

 お父さんも言葉に詰まっている。

「元々桐子さんも婚約には乗り気では無く、一年を目処に……と聞いている。少し早いが、朝陽を開放して頂けないか」

「……総帥。申し訳ありませんが、理由を聞かせて頂けますか」


 私に変わってお父さんが言い切る。

 私は落ち着けば落ち着くほど、今日でお終いかー、おつかれさまーという気持ちと、同時に胸の奥から泉のように感情が上がってくる。

 どんどん熱い何かが上がってきて、気持ちが悪い。

 それを何と名付けて良いのか、言葉がない。

 なんとか名前を付けるなら【もやもや】だ。

 ものすごく【もやもや】し始めた。

 総帥が説明を始めた。

 朝陽さまは、微笑んだまま、右手親指の付け根に触っている。


「中国の旻名みんめいという会社と、松園が合同会社を持っているのはご存じか」

「はい」

「旻名は、中国最王手の蓬莱殿上食品ほうらいてんじょうしょくひんと太いパイプを持っている巨大企業だ。だからこそ旻名に松園も多額の出資していたのだが、松園から送っていた者が、蓬莱に損失を出してしまった。お金だけじゃない、最も大切な信用を失った。蓬莱の怒りは収まらず、今度旻名とのやりとりをすべて白紙に戻すと言い始めた」

「蓬莱はインド市場にも強いですよね」

「そうだ。蓬莱に切られるという事は、数兆円規模で成長を続けるインドへの道も絶たれるということだ」

「それは……」

 お父さんが絶句する。

「だが一つ朗報がある。蓬莱の一人娘さんが、朝陽のことを昔から気に入ってまして。朝陽に会いたい、との事なんだ」

「……なるほど」

「他のお嬢さんと婚約してる男を差し出すのは、薔薇苑さんにも、蓬莱さんにも失礼な話だ。本当に申し訳ないが、朝陽を開放して頂けないか?」


 総帥もお父さんも、私を見ているのが分かる。

 私は目を閉じて話を聞いていたが、真っ直ぐに総帥を見た。


「分かりました。本日をもちまして、婚約は解消させて頂きます」

「理解が早いお嬢さんで助かる。蓬莱との合同会社が成功した暁には、薔薇苑アイスの商品をインドに流すと約束しよう」

「ありがとうございます」


 私は丁寧に頭を下げた。

 これはもう太刀打ち出来る話ではない。私はそう理解した。

 旻名は中国最王手の流通会社だ。それとの合同会社を潰してまで、蓬莱に向かうのだ。松園の本気を感じる。

 それにこれから一番成長するであろうインド市場を他の会社に取られるわけにはいかない。

 会いたい……と言葉を濁しているが、婚約まで話が出ているのではないか……と個人的には思う。

 蓬莱としては、日本有数の巨大企業、松園の次男を迎入れられたら、今後日本への進出はたやすい。

 被害を被る旻名に全て罪をなすりつけて、業務完了だ。

 私は口を開いた。


「もう一つお聞きしても良いですか」

「なんだね?」

「蓬莱殿上食品に、建築の部署はありますか?」

「いや、無いな。それがどうした?」

「そうですか。ありがとうございます」

 私は目を伏せた。

 もう何も聞くことは無い。

 もし婿に入るなら、インドで建築会社をしたら面白いのに、と思っただけだ。

「申し訳ないが、了承して頂けてこちらとしても助かる。すまんが薔薇苑さん、こちらにきて契約の変更をお願い出来るかな」

「……はい」


 お父さんと総帥は部屋から出て行った。

 私に分かる。

 部屋に二人残して、朝陽さまと最後の話をしろ、という事だ。

 私は静かに口を開く。

 

「……ご存じだったのですか?」

「うん? 正確に聞いたのは今日だけど、漣から何となく聞かされてたからね。それに蓬莱の娘さんが別邸にも来たし」

 別邸に来たと聞いて、心臓がつかまれるように痛む。

 私が頑なに上がらないと言っていた部屋に、今度来るのか? とあんなに喜んだ部屋に、別の女が普通に入り込んでいたわけだ。

 脳みその中心が冷や水をかけたように冷たくなるのを感じる。

「では、これをお返しします」

 私は指輪を抜いて、机に置いた。

「いや、それは桐子にあげたものだから持っていて」

「いいえ。もう必要ありません」

 私は真っ直ぐに朝陽さまを見て言った。

「駄目だよ」

 朝陽さまは真っ直ぐに私を見て言う。

 ずっと右手の親指の付け根を、左手で強く握る。

 そして右手を握りしめて、左手で強く叩く。

 パシンと高い音が部屋に響く。

「駄目と言われても」

 松園から言い出したことだ。

 私は今ほど朝陽さまがワケワカラナイ存在に感じた事は無い。

「短い間ですが、ありがとうございました」

 私は指輪を置いて、立ち上がった。

「桐子」

 朝陽さまが私の名前を呼ぶ。

 いつも呼ぶように、甘く。

 聞き慣れた私の名前を呼ぶ響きで。

 真っ直ぐに私を見てる瞳は、いつもと変わらない。

 でも、今日で最後。

 私は無表情で朝陽さまを見る。

 何の言葉も出てこない。

「桐子」

 ただ、朝陽さまは私の名を呼ぶ。

 そして再び、右手を左手でパシンと掴む変な動きを繰返す。

 それをしながら、何度も、何度も、私の名を呼び、やがて黙った。

「短い間ですが、ありがとうございました」

 私は部屋を出た。


 廊下にはお父さんが待っていた。


 その表情は、完全に泣き崩れて、グチャグチャだ。

 私は廊下を歩き出す。

「……なんでお父さんが泣いてるんですか」

「桐子が泣かないように」

「泣きませんよ。少し理解した気持ちになってましたが、やっぱりあの人、全く理解出来ません」

 私は指輪を外して軽くなった左手を、固く握った。

 早足で歩く私の後ろをお父さんが付いてきて、小声で言う。

「桐子、諦めちゃ駄目だ」

「何を言ってるんですか。ちょっと早く契約が終わっただけですよ」

 私は強く言い切る。

 自分に言い聞かせるように。


 次の日。

 美しく包まれた木箱を、越智さんが持って来たようだ。

 私は玄関に出るのを拒否。紀元さんが持って来た。

 差出人は松園朝陽。

 中を開けると、置いてきたはずの指輪と、香水の瓶が入っていた。

 Penhaligon's (ペンハリガン)のNo.33。

 箱を開けなくても、もうその香りがしていた。

 朝陽さまの香水だ。


「……意味わからないんですけど」


 私はそれを袋ごとクローゼットの奥に投げ込んだ。

 そしても一度叫んだ。


「意味が分からないんですけど!」


 涙が流れてきて止めることが出来ない。

 私はそのままソファーに転がった。

 ここにも朝陽さまが居たんだ。

 新調する……、別の色にする……!

 私はソファーから移動して、部屋の隅っこに座り込んだ。

 横に本棚にガラスの仮面が見えて、更にイヤになり、ベッドに移動した。

 

 いつの間にこんなに私の中に入り込んでたんだろう。

 

 アホらしい! アホらしいよ!

 何度も叫びながら、私は琴実に電話した。

 もちろん泣きながら。



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