七月の屋上と、アールグレーは指先に溶ける
「銚子は楽しかった」
「天気が良くて、見晴らし最高でしたね」
「本当に地球は丸かった」
「知らなかったんですか!」
今日も私が図書棟で本を片付けている横で、朝陽さまは本を読んでいる。
キャンプデートから二週間後。
先日ついに、私オススメスポット、地球の丸く見える丘展望館に行った。
天候に恵まれて、どこまでも澄み渡る空に落ちていく夕日が美しかった。
何度も行った事があるが、今までで一番地球の丸さを感じることが出来た。
梅雨の晴れ間のキャンプといい、朝陽さまは本格的に晴れ男だ。
朝陽という名前には、やっぱり天候の御利益があるんでしょうか? 見てるのは夕日ですけどね! とはしゃぐ私を朝陽さまは静かに抱き寄せた。
二人で夕日が海の向こうに落ちていくのを、静かに見ていた。
朝陽さまが本をめくって、私に見せる。
「ここもついでに見てくれば良かった」
「水戸の美術館ですか。銚子からだと、更に一時間かかりますね。高速もないですし。都内から普通に常磐道で行ったほうが早いです」
「地図で見ると、近いように見えるが」
「高速は偉大ですよ、本当に」
「桐子は交通にも詳しいのか」
「地図も本みたいなもので、見てると楽しいですよ」
あれから私たちが出掛けると言えば【珍しい建物をめぐる旅】になった。
朝陽さまが調べてくる面白そうな建物を二人で巡った。
美術館から映画館、古いホテルや、移転された古民家まで。
今までの「何でも良い」の朝陽さまは、どこに消えたのか。
私が図書棟で仕事していても、近くに座り込み、建築関係の本を読んでいることも増えた。
私は隣に座り、建物写真を指さした。
「これは何ですか?」
「広島にある瀬戸大橋が見える個人宅なんだけど、もうここまで海が来てる」
「台風とか大丈夫なんですかね。家の土台から腐りそう……」
「数年分のデータを取って建ててるからな、水位の変化は殆ど無いらしい」
朝陽さまは楽しそうにページを移動させて、データを見せる。
実例やデータを見るのが好きなようで、そこは男の人だなあ……とか勝手に思っている。
私はデータや情報には、あまり興味がないのだが、朝陽さまが楽しそうに話すので、静かに聞く。
私が見ない種類の本も多くて、それを横から覗き込むのも楽しかった。
元々地頭が良いのだろう。生徒会の仕事を何年も続けてきただけあって、情報収集も上手い。
松園という箱の中で、眠っていただけの、見事な獅子だ。
私はすぐに影響されるので、何冊か住宅関係の本も読んでみた。
一番面白かったのは団地をリフォームして、ひとつの町を再生させた人の本。
あとは災害救助のためにオリジナルの住宅を考えた人の本。
私はやっぱり事実に対する物語が好きなのだ。
朝陽さまが、私に本を見せる。
「夏休みに、ここに行かない?」
「広島って……日帰り出来ないじゃないですか」
「じゃあ、ここはどう?」
「佐渡島って、いくだけで一日かかりますよ」
「じゃあ、ここは?」
「軽井沢って……行けますね」
「だろ?」
私たちは本を見ながら夏休みの計画を立てた。
二人で過ごす最初で最後の夏休みだ。
七月の風が吹き抜ける図書棟の屋上。
さっきまでニコニコしていた朝陽さまが、完全に怒っている。
「普通に考えたら、遠慮するだろう」
「お邪魔しますー、いやー、ここですか、噂の現場は」
「噂のパンを食べに来ましたわ」
「……桐子、本当に呼んだのか」
朝陽さまが私を睨む。
「だって、みんなで越智さんのパン食べたくて……」
私はチラリと越智さんの方を見る。
越智さんは静かに頭を下げて微笑んだ。
「越智のパンを渡すのは良いと言ったが、一緒にランチをするとは聞いて無いぞ」
「越智さん、前菜お願いしますー!」
私は風に負けない声で越智さんに向かって言った。
この前朝陽さまが「越智が焼いたパンも旨いぞ」と持って来てくれたのだが、絶品で、興奮してしまった。
朝陽さまは私が焼いたパンのほうが美味しいと言うが、これはレベルが違う、たぶん使用してる粉からバターまで違う。
私が焼いたパンはアウトドアの魅力と遠赤外線の力が足されて、誤魔化されただけだ。
すごく美味しかった! と興奮しながら伝えたら、二人とも「是非食べたい」と言うので、今日のランチに招待した。
もちろん越智さんには連絡済み。
やっぱりパンは焼きたてじゃないと!
美しく整えられた屋上庭園に、四人分の食事の準備がされている。
私の席には薔薇が置かれていて、そこに越智さんの静かな気遣いを感じる。
そういえば、この前船上で食事を頂いた時も、席には薔薇があったな。
気遣いがオシャレで、嬉しくなる。
「こちらは本日の前菜、食べられる薔薇と白身魚のカルパッチョです」
「えええ……薔薇って食べられるの?」
琴実が出された前菜に感動する。
「聞いたことがあります。食べるとほのかに薔薇の香りがすると」
「すごーい!」
運ばれてきた食事を琴実と華宮さんは、美味しそうに食べ始めた。
焼きたてのパンは、今日も絶品で二人は歓声を上げて食べた。
「このクルミパンと、オリーブオイルの組み合わせがいいの!」
「ゴーダチーズと蜂蜜のコラボレーションが素晴らしいですわ……」
「ねー、美味しいよね!」
私たちは興奮してパンを食べた。
横をみると朝陽さまが完全に怒っている。
私はテーブルの下から、スッと手を握った。
「……怒ってますか?」
「二人で食べたかった」
その表情が完全にすねていて、私はほんの少し可愛いと思ってしまう。
朝陽さまが私の指の間に、指を絡ませる。
最近の朝陽さまの手は、いつも温かくて、それだけで少しドキドキする。
「……今度、別邸に行きますから許してください」
「本当か? 約束だぞ」
朝陽さまは目を細めて微笑んだ。
「朝陽くん、学校運営協議会の書類、素晴らしかったです」
華宮さんが朝陽さまに話しかける。
「ありがとう。書いてて楽しかったよ、あれは」
「去年とは全く違う、朝陽くんの意思と考えが入っていて、驚きました」
「せっかくその立場にあるのだから、発言するのも悪くないと思ってね」
二人が話すのを、琴実とホエー……と言いながら聞いた。
学校運営協議会は都内の学校の生徒会代表が集まって協議する……よく分からないが面倒そうな会議だ。
「いつも人の尻馬に乗ってるだけだったのに……矢面に立つなんて。お父様も驚いてました」
「教育委員長に驚いて貰えるなんて、嬉しいな」
華宮さんのお父さんは、都内の教育関係の仕事をしていて、会議の主催者だ。
「……矢面だ。矢面に立ったんだね、武蔵だね」
私は琴実にコソコソと言う。
「弁慶の立ち往生……その場合、朝陽さま死んでるよね」
「仕方ない。高河ゆんの源氏でも読み直す?」
「あれ途中で終わってるでしょ」
コソコソ話す私の服を、朝陽さまが引っ張る。
「また何の話をしてるんだ」
「朝陽さまが弁慶なら、義経は誰がいいかなって話です」
「なんだそれは」
くくく……あはははは!
華宮さんと琴実が声をあげて笑い出す。
「……これだから女の集団は……」
朝陽さまが静かに首を振る。
二人は「お邪魔してすいません」と食事を終えて、すぐに下りていった。
ふう……と朝陽さまがため息をつく。
「すいませんでした。勝手をして」
朝陽さまが私の手をテーブルの上に出して握り、甲にキスをする。
「いいよ。桐子がそうしたいなら、それでいい」
「……ありがとうございます」
私は何となく手を引くが、朝陽さまは指を絡めたまま、離してくれない。
「越智、コーヒーを」
朝陽さまは振向いて、越智さんに言った。
越智さんがコーヒーカップを二つ持ってくる。
ひとつは、私がプレゼントしたものだ。
「……このカップ、使って下さってるんですね」
「毎日使ってるよ」
その言葉に、私は小さく微笑む。気に入ってもらえて良かった。
深い香りのコーヒーが注がれた。
紅茶が好きな私には、アールグレーだ。
「そういえば、聞いたか、週末」
「はい、お父さんから聞きました。何ですかね」
「本邸か。面倒だな」
朝陽さまはカップを置いて、天を仰ぎ見た。
実は週末に、朝陽さまのお父様、松園浩三さまに呼び出されてた。場所は松園本邸。
私と朝陽さま、それに私のお父さんも一緒だ。
何の用事なのか、皆目検討が付かない。
「朝陽さまって、本邸に、どれくらいの頻度で帰ってらっしゃるんですか?」
「最近は月に一回か、二回。呼び出されて帰る」
「えっ?! それ以外は、鳳桜学院駅の上に一人で住んでるんですか?」
「越智も一緒だ」
「淋しくないんですか?」
「前は本邸に居ても、どこにいても淋しかったけど、最近は大丈夫だな」
「本を読んでるから?」
「それもあるし、桐子が電車で来るから。一緒に登校したい。それが一番の目的だ」
朝陽さまがスッと私の手を握ったまま、体を近づけてきてキスをした。
不意打ちに驚いて、俯く。
朝陽さまが耳元で言う。
「淋しいから、来て?」
「…………デートポイントは銚子で使い果たしたので、貯まったら伺います」
私は熱をもった顔を誤魔化すように、顔をそらした。
朝陽さまは、まだポイント制なのか? ……と柔らかく微笑みながら、コーヒーを再び飲み始めた。
あの旅行以降、「キスして良い?」と聞かれることは無くなり、自然とされるようになった。
あと数ヶ月だから……という気持ちで納得させているが、本音をいうと、そんなにイヤでは無くなってきていた。
むしろ、一日数回繰り出される不意打ちのようなキスは、甘くて、優しくて、されるたび私の心の奥の何かが溶けていくのを感じる。
このアイス、絶対にこれ以上溶かすべきじゃない。
私は強く思う。




