ずっと戻りたかった場所
凛子の病院に呼び出された朝陽の視線となっています
「朝陽、座りなさい」
「どうしたんですか、突然。病院に呼び出されたのは初めてですね」
凛子は、ベッドの上で珍しく怒っている。
俺は何年も凛子に呼ばれたい、呼び出されたいと思っていたが、恋してた間には、呼ばれなかったな。
諦めた途端にこれだ。
呼び出されたのは嬉しいが、なんだか微妙な気分ではある。
「お父様に聞きました。桐子ちゃんとのこと」
「旅行のことですか?」
「え? 桐子ちゃんと旅行? どこにいったんですか?」
「キャンプです。初めてテントに泊まりましたよ」
「すてき……なんて楽しそうなのでしょう」
「凛子も元気になったら、一緒に行きましょう。それまでに準備しておきます」
「本当ですか? 外で眠るなんて……考えられません」
「では、松園本邸の庭にテントを張りましょうか。あの広さがあれば、余裕で出来ますよ」
「それなら漣も許してくれるかも知れませんね」
「いえ、きっと怒りますね」
「そうですよね」
凛子が朗らかに笑う。
体が弱い凛子を外で寝かすなんて、どういうつもりだ?!
怒り狂う漣が目に見える。
俺の数倍凛子に過保護なのだから。
でもきっと、最後には絆されて、テントに潜り込んで凛子と眠るのだろう。
俺は桐子と初めてテントに泊まって、とても楽しかった。
自分が楽しいと思ったことを、自分が大切に思ってる人と共有したい。
その気持ちも桐子が教えてくれた。
そんな風に人を思う形があることを、俺は知らなかった。
「……って、キャンプの話じゃありませんよ」
「では漫画ですか。桐子から託されてます。イタズラなkiss。愛蔵版です」
「あ、これも読みたかったのです。嬉しい」
部屋の外で控えていた越智を呼び、箱から取り出して凛子に渡した。
凛子は俺から受け取った漫画を新しく設置したベッドの後ろの棚に入れた。
桐子がマメに通っているらしく(俺に秘密で!)もう漫画は数千冊あるように見えるが、少女漫画というのは、この世界に何冊存在しているのだろう。
でも、凛子と桐子が仲良くなってくれて本当に良かったと思う。
凛子の表情は間違いなく明るくなった。
この漫画、作者が途中で亡くなってるんですよね……残念です……と言いながら、パラパラと漫画を読み始めた。
俺は凛子の横顔を見つめる。
子どもの頃から、この横顔が大好きだった。
しっかりしていた兄の漣と、俺はずっと比べられてきた。
主体性がない、考えがない、意思がない。
そう言われ続けてきたが、俺が何を言っても漣と比べたのは両親だ。
常に優劣を付けられて、漣と比べられるためだけに、俺は存在していた。
何を言っても比べられるなら、言う気にもなれない。
黙っていたほうが、何もしないほうが幸せだった。
でも凛子だけは分け隔て無く、俺と付き合ってくれた。
むしろ「漣は真面目すぎて、遊びにならない」と、俺と一緒に泥だらけになって遊んでくれた。
……結局漣と結婚したけどな。
過去の思いが強すぎて、俺は凛子に捕らわれた。
ただ【素だった】俺を認めてくれた過去さえ、漣が浸食していく気がして。
怖くて怖くて、必死だった。
凛子に可愛がられた昔のままで居たいに、もう凛子は俺の隣にいない。
昔のままの俺で居たいのに、俺も凛子も変わっていく。
それは漣のせいで、親のせいだと、思っていた。
でも桐子と知り合って気が付いた。
結局一番嫌っていた松園の箱の中に入って、文句を言っていただけだ。
箱に入った中身が黒い商品なんてお断りです。
そう言った桐子の言葉を、俺は一生忘れない。
やだ……入江くん、カッコイイ……とブツブツ言いながら漫画を読んでいた凛子が、ハッと顔をあげて、漫画を横に棚に置いた。
そして俺の方をキッと見る。
「……って、漫画の話でもありません」
「なんですか」
俺は分かってて聞いた。
「桐子ちゃんとの婚約、あと三ヶ月で終了するって、本当ですか」
いつ耳に入ってもおかしくないと思っていたが、ついにバレたようだ。
「そうです。今年の九月で終了します」
終了しますと口にすると、胸が大きな紐で締め上げられたように痛む。
俺は自分の胸元を掴んだ。
「朝陽」
凛子が俺の顔を覗き込む。
「大丈夫ですよ」
「全然……全然大丈夫な顔をしてませんよ」
「顔色が相変らず悪い凛子に言われたくないな」
相変らず凛子の顔は、血の気がない。
真っ白で、病院の壁と一緒に消えて行きそうで、俺はいつもそれが怖かった。
俺の本質を知る人間なんて、凛子しかいないと、頑なにこだわっていた。
でもしがみつくには、凛子はあまりにか細い存在だ。
桐子と居るようになると分かる。
桐子のエネルギーは凄まじい。
それに何より本気で自分の事しか考えて無い。
俺のプレゼントにマグカップを作ったと言っていたが、後日部屋に遊びに行ったら、食器もお椀も、沢山作っていた。
要するに自分が大分の釜に興味があったようだ。「これはついでです」とシラッと言っていたので、お椀も貰ってきた。
俺もあの焼き物が気に入った。
……不思議だと思う。
数ヶ月前まで、焼き物に地方の特徴があることさえ知らなかったのに。
世界はたった一つのキッカケで色を変える。
俺は自らを閉じていただけだ。
凛子が俺の顔を覗き込んで、優しく言う。
「桐子ちゃんのこと、好きなんでしょう?」
「………………ええ、はい」
俺は凛子から目を反らして言った。
なんとなくずっと俺のことを知っている凛子に、恋愛の話するのは、気が引けた。
素直にいえば、恥ずかしかった。
「じゃあ、どうするんですか」
凛子は俺の背けた目を追って、言う。
俺は少し汗ばんだ掌を、開いて振った。
昔から、緊張すると掌に汗をかく。
そして親指の付け根が痛むのだ。
ここはきっと俺の第二の心臓だ。
俺は熱くなった親指の付け根に触れながら言う。
「……俺は桐子を諦める気は、全く無いです。手放す気は、全く無いんです」
「でも婚約終了って……どうするんですか?」
「わかりません」
「朝陽!」
凛子が口を尖らせて、両腕を組む。
ああ、この表情と行動。
俺が泥ダンゴを本邸に投げ込んだ時に、凛子がしていたな……と思い出す。
妙なものだ。
手に入れたい、もう一度戻りたいと願い続けた関係。
どれだけしがみついても戻れなかった場所に、他の人と恋することで、戻れるなんて。
俺は小さく吹き出して、脱力する。
そして続けた。
「ただ、何があっても諦めないと決めているだけです」
俺は言い切る。
「朝陽……手放したら、駄目ですよ? 桐子ちゃんは、朝陽に必要な人です」
凛子が悲しそうな表情で俺を見る。
「大丈夫、それくらい分かってますよ」
「私に何か出来ることがあったら、言ってくださいね?」
「元気になってください。カレーを作るんですよね? 俺は料理の勉強も始めてますよ」
「えっ?! 朝陽が料理?」
「越智は諦めずに教えてくれます」
「とても楽しみです」
凛子はいつも通り、まるい笑顔で俺を見た。
この笑顔に、何年も惚れていた。
でも、もうキスしたいとは思えない。
本当に【姉】になったのだと感じる。
「何かあったら、すぐに教えてくださいね」
「はい」
「ラインも見てますから」
「はい」
「……朝陽、何か考えがあるなら、今言いなさい」
「無いですよ」
「結局桐子ちゃんとは、どこまで進んだのですか?」
「想像にお任せします」
「すごい想像をしますよ」
「……桐子みたいになってましたね」
「キャンプの時は、どうたったのですか? 話を聞かせなさい」
「もう……許してください……」
離れたくないとしがみついたなんて、絶対に言えない。
俺は頭を抱える。
凛子は本当に俺の義姉になったようだ。
少し口うるさい姉に。
でも今はそんなことも嬉しい。
同時にどうしようもなく桐子に会いたくなる。
そう言ったら桐子はきっと言う。
「何言ってるんですか、もう」
その声が聞きたいと、俺は心底思う。
次回から通常の桐子視線に戻ります




